2009年10月26日月曜日

決断科学ノート-20(科学者と政治;ティザードの場合①)

 ヘンリー・ティザードの名前は、第二次世界大戦における科学の役割を論ずる時、必ず真っ先に出てくるほど英国では有名な科学者である。英国防空システムの生みの親としての優れたリーダーシップと、それを実現していく過程でのチャーチルとその科学顧問(最終的には科学ばかりでなく政治的同志となる)、リンデマン(のちのチャーウェル卿)との激しい主導権争いは、OR起源研究で目にしたいずれの書物にも章や項をあらためて紹介されている。
 防空システムは彼の考え通り実現し、バトル・オブ・ブリテンに勝利をもたらすが、それ以前、チャーチルが政治力を強めるに従い国防科学における中心的役割を奪われ、1940年のフランスの戦いとそれに伴うチャーチルの首相就任で、勝負は決定的になる。しかし、戦後明らかになったこの争いの論者たちの評価は圧倒的にティザードに同情的である。“科学に勝ち、政治に敗れた”と。
 ティザードはブラケットのように、特定の政党と関わりを持つことは無かった。むしろ“Politics”を意識的に避けてきたと言ってもいい。これが政治的論争に巻き込まれた最大の要因だったと見る識者もいるくらいだ。
 第二次世界大戦は科学戦であった。欧州では第一次世界大戦でその兆候は現れており、科学と国防は密接に結びついてきていた。飛行機、潜水艦、戦車、電波利用は次の戦争の主役となっていくが、とりわけ島国英国にとって敵(二つの大戦間はフランスも仮想敵国)空軍力は脅威であった。また航空は未だ工業レベルとしては未完・未知の部分が多く科学者が技術者にまして問題解決の役割を担わなければならない時代でもあった。
 ヘンリーの父方の祖父は小さな造船会社の経営者、母方の祖父は土木技師、父は海軍の測量技師(士官)、と言う英国の典型的なミドルクラス出身である。子沢山(姉二人、妹二人)の海軍士官にはパブリックスクールに進ませる経済的余裕も無かったことから、ヘンリーは海軍兵学校の予科に進むが、初年度の夏休み左目にハエが入り著しく視力を低下させ、その道を断念せざるを得なくなる。幸い数学に秀でていたのでパブリックスクールのウェストミンスター校特待生試験に合格、ここでも優れた成績を修めオックスフォードのマグダーレン・カレッジに進み化学を専攻する。1908年卒業後文部省給付学生としてベルリン大学で物理化学(熱力学)の研究に当たり、ここでのちに“Bitter Enemy(不倶戴天の敵)”となるリンデマンと親交を結んでいる。
 オックスフォードに戻った彼が飛行機に興味を持ったのは1914年5月キャンパスで行われた飛行デモだったがこれは純科学的なものだった。軍事航空との関わりは開戦後、砲兵隊で対空射撃の訓練担当士官となり、その訓練方法が上層部の注目を引いたところから始まる。これを切っ掛けに飛行実験隊に配属され、爆撃照準方法の確立に当時の科学の粋を駆使しながら創意工夫を凝らしていく。そこには危険な投下地点での連続写真撮影や未熟な無線技術の活用などもあるが、何と言っても「良い仕事をするためには自ら飛んで見なければいけない」と飛行訓練を志願し、単独飛行が出来るまで打ち込む姿勢である。これがプロの軍人たちの高い評価を勝ち取ることになる。
 爆撃照準器のみならず、速度計、高度計の厳密な測定方法の確立や高性能航空燃料(のちのハイオクタン・ガソリンにつながる)の開発など八面六臂の活躍をし、1918年4月陸軍航空隊と海軍航空隊が合体して独立空軍がスタートすると両者の研究・実験機関も一体化され、その副長に収まるまで昇進する。この少し前にはチャーチルが兵器省担当大臣となり両者の接触が始まっているが、1918年11月の停戦でその関係もしばし途絶える。
 このまま航空実験隊で実学を続けるか、再びオックスフォードで理論の世界に戻るか?いずれにしてもここまでの人生に政治のにおいまだしない。

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