2010年3月7日日曜日

決断科学ノート-33(迷走する工場管理システム作り-7;凍結された川崎計画-1)

 和歌山工場計画のつまずき、石油ショックもあったが、川崎工場計画自身にも推進障害の芽はあった。この話の冒頭にも述べたように、川崎計画は“生産管理だけ”を目的としたわけではない。今までに無い革新的な工場運営の実現を目指していた。そこには大掛かりな自動化の徹底や省力化、保全資材の在庫削減なども含んでいた。
 プラント運転の要員は平常時の運転を基準に算出するものではなく、運転開始時(SU)・停止時(SD)や異常時に対する対応などを勘案してはじかれる。丁度旅客機のコックピットクルーが離着陸の繁忙時の作業を基に決められるのに似ている。巡航飛行時の操縦がオートパイロットで行われるように、プラントも平常時は自動運転である。
 しかし、SU・SD時にはその時だけの特殊な作業が発生する。チョッとしたビルほどの大きさがある加熱炉の運転も最初は小さな元火を用いて人間が行う。これが定常燃焼状態に達するまで、小まめな現場調整作業を行う。その間加熱炉を走る加熱管の中の原油が蒸発を開始するまでは、平常時とは異なる循環回路をつくってやる。このためには現場での複雑なバルブ開閉作業が必要となる。非常事態に対しては、緊急遮断装置や安全装置が自動的に利くようになっているが、それで現場作業がなくなるわけではない。限られた時間に多くの平時とは異なる作業を行わなくてはならない。要員はこのような事態を想定して決められる。
 プラントの運転期間は当時1年~2年だった(今はもっと長期)。この間連続運転するためには運転チームを3チーム用意し交代勤務を行うことになる(現在は労働時間短縮でチーム編成は複雑になり、交代係数3より大きくなっている)。もし、自動化で運転要員を一人減らせれば、3人の人員減になる。省力効果は大きい。ベテランのプラント運転員も開発室のメンバーに入れて、全プラントを対象にその可能性を検討する。
 日勤職場の要員削減も検討した。保安要員(特に朝夕の協力会社員の入出門チェックに人手を要していた。今のように簡便なIDカードなど無かった)や電話交換手(まだダイヤルインはほとんど普及していなかった)まで対象にしたし。受注出荷業務合理化のためにはTSK本社の販売管理部門と工場業務部門の業務処理プロセスの見直しまで行った。
 これらの作業は石油ショックの遥か前から着手されていたが、形が少しずつ見えてきたのはその前後である。最初は工場長の息がかかった計画と言うこともあり“総論賛成”できていた各組織が、内容を知ると陰に陽に抵抗を始める。特に要員削減は労使問題に直結する。この段階では計画の概要を作るスコーピング・スタディ(SS)なので労使会議検討項目ではないものの、対象組織の長たちはピリピリしてくる。室長は闘将タイプで相手はなかなか思うように自分の意志を通せない。その分我々のような実務リーダークラスに向いてくる。「まだSSの段階ですよ。FS(フィージビリティ・スタディ;詳細な技術・経済性検討)の時確り詰めましょう」とかわしてきた。しかし、このようなやり取りの中で、この計画が次のステップに移ることが容易ではないことをこちらも感じ始めていた。技術的な詰めや経済性の検討にもう少し時間が欲しい、と言うのが率直なところだった。
 そこにやってきたのがあの石油ショックである。

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