2010年9月3日金曜日

今月の本棚-24(2010年8月)

<今月読んだ本(8月)>1)ベルリン陥落1945(アントニー・ヴィーバー);白水社
2)シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々(ジェレミー・マーサー);河出書房新社
3)周恩来秘録<上、下>(高 文謙);文藝春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)ベルリン陥落1945

  8月になるとやはり戦争物が読みたくなる。しかし、戦後65年、ほとんどあの戦争に関しては書き尽くされた感がある。そんな時見つけたのが本書である。最も惹かれたのは、冷戦終結後ロシアで公開された資料がふんだんに引用されていることであった。
 仕事でしばしばロシア通いが続いていた時期、モスクワの戦勝記念堂を訪れたことがある。そこには独ソ戦の主要な戦闘をリアルに再現した戦場ごと(レニングラード攻城戦、モスクワ攻防戦、スターリングラードの勝利、クルスク戦車戦など)の広いジオラマ展示室が設けてあり、“ベルリン陥落”室がそのトリを受け持っている。そして、ここでのロシア人たちの表情・動作には、明らかに他室とは違うものがあった。
 ソ連軍実戦指揮官・一般兵士から観たベルリン攻略は単なる戦争の終結ではなく、それまでに蒙ったドイツ軍・ナチスによる数々の暴虐への復讐の総仕上げでもあった。否、ドイツ領土へ攻め込んでからはむしろそれが主目的ともいえる様相を呈する。一般市民の殺戮、掠奪、凌辱(旧ドイツ領全体でレイプされた女性は“少なくとも”200万人、ベルリンだけでも13万人)による被害の凄まじさは、もはや“戦闘”ではない。これがかえって敵の反ソ感情・行動を高めると、禁じようとする将軍や政治将校もいるのだが、半狂気で戦う兵士たちの耳には聞こえない。空爆による被害しか体験していないわが国民間人には、想像を絶する凄惨な世界がそこには在る。
 将軍たちそして役人たち(秘密警察)の功名争いも激しいものがある。陰険なスターリンは作戦や人事に介入しては彼等を競わせる。それも最後の栄光は自分に向かうように。この戦いの最大の功労者、ジューコフ元帥の失脚は、彼の名声に嫉妬したスターリンと功名争いに破れたベリヤ一派(秘密警察)の画策によるものだったのだ。
 さらに高いレベルでは、ベルリン陥落の重要性(東欧諸国の戦後処理)を読んでいたチャーチルとスターリンの駆け引き・騙し合い、外交に未熟なアメリカ人(ルーズヴェルト、アイゼンハワー)の能天気さも、この戦いをより陰惨なものにしたことを明らかにしている。
 それに輪をかけたのが、ヒトラーの狂気とドイツ指導部のこの期に及んでの主導権争いである。不退転の決意のヒトラーはベルリン市民に疎開を禁じるが、高官たちは何か理由を作っては本人や家族の移動を画策する。ゲーリング、ヒムラー、ボルマンらはヒトラー亡き後自分が終戦処理に当たれるよう後継者指名を競い合う。
 残存正規軍(主に西方;英米軍と対峙する側に残った)の一部と少年と老人で構成された国民突撃隊が幽かな抵抗をする中、4月30日深夜国会議事堂の頂上に赤旗が翻る。何が何でも5月1日のモスクワ・メーデーに間に合わせると言うスケジュールが達成されたのだ。
 ベルリンへ急ぐソ連軍の中には特命を受けた部隊もある。スパイを通じてアメリカの原爆開発を知り、ウランと学者を抑えるための特殊部隊、ヒトラーの死亡確認をするためのグループ(歯科医を立ちあわせ歯型から確認し頭蓋骨の一部を持ち帰り、スターリンを喜ばせる。これは冷戦終結まで秘密であった)。こんなエピソードも交えながらのノンフィクションは、600ページを超えるハードカバーを飽きさせることなく読み続けさせた。
 筆者は1949年生まれの英国人。サンドハースト(英陸軍士官学校)卒業後5年間軍務に服し、その後ノンフィクション・ライターに転じた人である。軍人としてのプロフェッショナルな目とジャーナリストとしての調査力・表現力に優れ、単なる戦記ものの域をはるかに超えた、異常な戦場とその背景を活写している。もしポツダム宣言受諾の決断が遅れ、本土決戦に至っていたらあの65年前の8月はどうなっていたのであろうか?考えさせられた一冊である。

2)シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々
 画家、作家、音楽家、政治亡命者、パリは昔から多くの若者を惹きつけてきた。それは現代でも変わらない。ニューヨークやロンドンが、ビジネスチャンスを求める場所であるのに対して、“お金”とは無縁の文化的・精神的なもの求めて彼等ややってくる。だからいつも“金”に困っている。そんな金欠病の若者の駆け込み寺とも言うべきものが、本書主題のシェイクスピア&カンパニー書店(以下S&Cと略す)である。
 ここに登場するS&Cは二代目で、初代は1920年代アメリカ人宣教師の娘によって英米書籍の書店としてスタート、ヘミングウェイなども滞在し、その作品「移動祝祭日」に登場している。1941年ナチのパリ進駐でこの店は閉じられ、1950年代当時のアメリカではアウトローとも言える、共産主義者を自称するジョージ・ホイットマンによって再スタートする(と言っても初代と法的に関係があるわけではない)。この二代目も初代同様、作家たち(特にアメリカ人)に愛され、ヘンリー・ミラーなどが逗留している。
 この本は2000年を跨いで、そこに数ヶ月滞在した筆者がオーナーのジョージを含め、交流した多くの友人・知人たちとの日々を綴った、ノンフィクションである。
 筆者はカナダ・オタワの新聞の犯罪記者であった。ある事件が切っ掛けで、オタワを去らねばならぬことになり、パリに逃避する。しばらくは安ホテルに投宿するものの、持ち金は直ぐに底をつき、S&Cに転がり込むことになる。と言っても書架の間にあるベッドが提供されるだけで、食事は日曜の朝のパンケーキ以外は自分で工面しなければならない。トイレは共用のものがあるもののシャワーも無い。仲間(とそのガールフレンドなど)と助け合いながら、苦しい生活の中で夢を追い続ける(皆物書き志願)。恋あり(超老いらくの恋も)、別れあり、病あり、奇跡のような幸運あり、仲間内やオーナーとの葛藤あり、とてもノンフィクションとは思えぬ展開で最後まで一気に読ませる。
 最近こんなにほのぼのした気分で読書をしたことがない。原書のタイトル「Time was Soft There」がピッタリ、「良い本に出合えたなー」と言うのが読後感である。

3)周恩来秘録  現代中国生みの親は毛沢東。この事実は彼の生き方が如何に異常なものであっても否定できない。しかし、この人の権力欲と権力把握後の猜疑心・嫉妬心の深さから来る後継者粛清は凄まじい。これに比べれば、民主党の代表争いなど児戯に等しい。その毛沢東に最後まで仕えた周恩来の生き方は、常人には到底耐えられない波乱に満ちたものだった。そこには我々の知る周恩来像とは全く違うものがある。それを、文化大革命を主要舞台として紹介したのが本書である。
 文庫本上下で800ページを超えるこの大作の導入部は、120ページを割いて、1919年から1943年までの中国共産党基盤確立の中での、毛と周の関係経緯を概説し、周の苦痛に満ちた最期につながる背景をダイジェストしている。そこから時代は一気に1966年の文化大革命に飛び、強力なカリスマ・リーダーである毛が、何故あのような混乱を招く革命を自ら起こし、どう推進し、起こった社会の混乱を如何に収拾しようと考えていたかを、二人のその時々の立場・言動から詳しく考察していく。毛がこだわったことは「死後に至る名誉の持続」であり、周がしばしば口にし、変節とも思える行動をとるのも「晩節を汚さず」という同じ主旨の生死感であることを明らかにしていく。
 1949年中華人民共和国成立によって建国の父となった毛は、1958年国力と生活環境向上を目的とした「大躍進運動」を始めるが、実体経済を無視したそれは失敗し、数千万人の餓死者を出して不評を買う。数年前のスターリンの死とその後のフルシチョフによるスターリン批判は、毛に「自分も死後ああなるのではないか?」との疑念・恐怖感を齎すことになる。ここから起こるのが実務を担当する指導層・高級官僚を中抜きにして、大衆直結でこの不名誉を消し去ろうとする、あの「文化大革命」である。最初に血祭りに挙げられたのは劉少奇(国家主席、党主席に次ぐナンバー2)に代表される実権派である。つづいて林彪、鄧小平らが同じナンバーツーの座から引き下ろされるが、周恩来だけは飛びぬけた能吏であり(毛の苦手は細々した実務、その点で毛にとって周は欠かせない人物)、かつ生き残るために君子に絶対服従の姿勢を貫く故に簡単には切れない。ある意味優れた風見鶏で、生き残るためには毛のみならず四人組におもねることを厭わない。それによる心の苦しみはあるものの、“(毛による)革命の成就”という大義のために自分を殺して批判・非難に耐えていく。
 大躍進運動の失敗を消し去るために始めた文化大革命も大混乱をもたらしただけで、何の成果も出てこない。各方面から批判の声が上がってくる。毛は焦り、四人組みに責任の一端を押し付け「成功七分、失敗三分」で納めようとする。この環境づくりのために周は奔走する。
 しかし、ついに追い詰められる時がやってくる。1971年の“米中和解”である。これは無論毛の了解の下に進められるのだが、国際社会は周の功績を高く評価し、一躍世界のリーダーの一人として脚光を浴びる。毛のプライドは傷つけられ、嫉妬の炎が燃えさかる。その少し前に発見された膀胱癌を、毛は「検査不要、治療不要」と許可しない。治療が許された時は既に手遅れ、死に際して周が口ずさんだのは、毛を讃える歌「東方紅」の一節だったという。毛は周の葬儀を大々的に行うことを禁じた、出席することも無かった。
 毛の死後、文化大革命は失敗と断を下されるが、その責任は全て四人組に帰せられ、毛の国父としての名誉は生前の願望どおり汚されていない。著者の問題意識はここにある。
 著者は中国共産党中央文献研究室で、周恩来生涯研究小組組長を務めた人。従って党員でも限られた人しか閲覧出来ない資料にアクセスできる立場にあった。1989年に起こった天安門事件(鄧小平が鎮圧指示)で学生の立場を支持したことから実質的に米国に亡命、ハーバード大学に所属して本書をまとめ、2003年にニューヨークで「晩年周恩来」の原題で出版した。
 さすが歴史を重視する国の著作、その中に登場する人間たちの権力闘争の凄さは、ノンフィクション故に、三国志などとは一味違う面白味がある。
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