2011年1月10日月曜日

決断科学ノート-55(ドイツ軍と数理-4;電撃戦と兵站-3;西方作戦)

 ポーランド侵攻の三日後、9月3日、英国とその連邦国がドイツに宣戦布告、フランスもそれに続く。ドイツがもっとも恐れる東西二正面での戦争が現実のものになる。この通告を総統官邸で聞いたヒトラーは「さて、どうなる?」と外相のリベントロップを睨みつけ、しばし無言であった。ドイツ帝国が第一次大戦で失った領土を回復する行動にはこれまでも抗議はあっても、西側(英仏)が軍事行動を起こすことは無かったからである。ポーランド作戦の予想外の成功に、ヒトラーは9月末、返す刀で西方作戦を行うと宣言するが、国防軍の強い反対で延期になる。英爆撃機による軍事施設爆撃、同海軍による海上封鎖、独海軍の通商破壊は行われるものの、予期した英仏陸軍のドイツ本土への進撃は始まらない。
 結局戦端が開かれたのは翌1940年5月10日、この間の8ヶ月はのちに“まやかしの戦争(Phony War)”と揶揄されるように、両軍ただ睨み合うだけの状態が続いたのである。ドイツにとってはまたとない時間稼ぎが出来、兵器生産、資材備蓄、人材育成の充実は目覚しいものがあった。ポーランド戦で主力だったⅠ号、Ⅱ号戦車はいわば軽戦車であったが、それ等は中戦車のⅢ号、Ⅳ号戦車に置き換わり、支援車両も多数揃い、装甲軍が単独で作戦出来るような部隊編成も出来上がっている。しかし、それでも連合国側の兵力・装備(特にフランスの機甲力)はドイツを上回るものがあった。
 ドイツの戦略・戦術が最終的に決まるまでには紆余曲折がある。第一次世界大戦前からドイツがフランス攻略のために考え出したシュリーフェン計画(大鎌で刈るように、ベルギー・オランダ・フランス北部を席巻し、パリを西側から包囲する)採用の可否、従来の歩兵中心に装甲軍はそれを支援する戦術にするか、装甲軍を槍のように突進させるかなどが激しく議論される。結局、A軍集団(この他にB、Cがあった)の参謀長マインシュタイン中将と装甲軍生みの親、グーデリアン大将の意見をヒトラーが容れて、シュリーフェン計画を装甲軍先頭に実行することになる。加えてベルギーの要塞地帯には空挺作戦、フランスの北の守り、セダン攻略には急降下爆撃機による空陸直協作戦が加わる。第一次世界大戦にはなかった兵器と戦術を駆使した新しい戦術、これが電撃戦である。英仏海峡ダンケルクでの停止命令は5月24日、6月10日パリ無防備都市宣言、6月22日休戦。1ヵ月半で大西洋に至る全ヨーロッパはドイツが支配する所となった。
 それではこの新しい戦い方の兵站はどうだったか?結論から言えば大成功であった。作戦計画に合わせて綿密な兵站計画を作り、装甲集団の兵站面での独立性と作戦面での自由裁量権を実現すべく、装甲集団が重要資材全てを携行する「リュックサックの原則」を採ったのである。装甲軍に随伴する輸送用トラックの大量生産、鉄道輸送計画、補給施設・貯蔵所の設置、給油方針・スケジュール、ポータブルな携行具の開発(その後各国で採用される燃料用携行タンク;ジェリ缶もこの時の発明;トラックにこの小型タンクを満載し、併走しながらそれを戦車に渡していく)など、細部までよく整備されているのに感心する。フランス軍戦車が多数燃料切れで動けなくなったのと対照的である(タンクローリー給油方式)。
 進撃速度が速かったので弾薬の消費量は極めて少なく、兵棋演習(ある種の数理)で求められた数値を大幅に下回っている。
 ただ見込み違いは道路であった。中央を突破するクライスト装甲集団は戦車1200両を含む41000台の車両より成っていたが、これに割り当てられた幹線道路はたったの4本である。分列移動するその長さは400kmに達する。これでは敵の攻撃の好餌となってしまう。クライストは「せめてもう一本」と懇請するが受け入れられない。歩兵部隊が既得権を離さないのである。これは数理以前のいかにも人間臭い決定であった。
(つづく;三つの電撃戦;東部戦線)

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