2011年3月17日木曜日

決断科学ノート-64(東北・関東大震災-3)

 阪神淡路震災の2ヵ月後、当該地区担当の陸上自衛隊第三師団(司令部伊丹)師団長の話を、こじんまりした勉強会で聞く機会があった。3月末停年退官することもあり、当時の状況を近しくうかがうことが出来た。
 当日師団長は朝食も終わり官舎から出勤直前であった。直ちに電話連絡で出動準備態勢を整えるように指示。司令部に到着したときにはほぼ各駐屯地とも準備を完了していた。しかし、いくら待っても県知事からも政府からも出動要請・命令は来なかった。
 マスコミはこの出動の遅れを責めることになるのだが、事実は以上のような経緯なのだ。当時の総理大臣は社会党の村山富一氏である。自衛隊を「暴力装置」と断じた前官房長官と同類である。県知事もそれを慮ってか、出動要請に躊躇したようである。世論・マスコミ叩かれ政府もやっと出動命令を出す。その後の第三師団は福知山や姫路の部隊、八尾の航空隊などが3ヶ月以上にわたり救難活動に当たることになった。
 今回の震災では県知事・政府の出動要請・命令も早く、あのときに比べればかなりましだが、5万、10万を軽々しく口にする首相は、長期的な作戦を考えたのであろうか?自衛隊は後方も含めて総数(空・海を含む)40万弱である。拙速は良いのだが、これでは第一線が崩れたら後に予備は無い(初めて召集のかかった予備役は数が知れている)。ここにも戦略を考えるスタッフ(知恵袋)の無きに等しいことを痛感させられる。

0 件のコメント: