2012年6月15日金曜日

歴史街道を行く-吉野・高野・龍神を走る-(12)




12.高野山名所巡り-1;奥の院
420日は朝から雨だった。9時半頃チェックアウトを終え、お坊さんに今日の観光予定を話し、先ず奥の院を訪ねるというと「チョッと距離もあるので、近くの駐車場まで車で行かれたら」と言われたが、雨の中の寺町のたたずまいを見るのも悪くは無いと、荷物や車は宿坊に置き、“一乗院”と黒地に白書きされた傘を借りて歩き出した。まだ団体客がやってくるには時間も早く街は静かだ。途中にもいくつも寺があり、美しい庭が道路に向けて開かれているところもある。雨も小降りで、徒歩で正解であった。
20分程度で参道入口に着く。杉木立に覆われた霊場(墓地)には20万基以上もの墓石や供養等が林立し、2km先の最深奥部には1200年前に高野山を開いた弘法大師の御廟がある。全体が世界遺産だ。格別信心深い人間でなくとも、ここに踏み込んだ途端、俗世と切り離される緊張感を覚える。
弘法大師の霊が参詣人をここまで送り迎えすると言われる一の橋を渡ると、直ぐ右側に新しい石碑がある。高野山開創1200年を記念して司馬遼太郎が書いた“高野山管見(個人の見方) 歴史の舞台 一文明のさまざま”だ。参道に歩みを進めると当にその“さまざま”が目の前に現れてくる。曽我兄弟供養塔、平敦盛墓、武田信玄・勝頼墓、宿敵上杉謙信廟(謙信は法名、天正2年(1574年)ここを訪れたとき贈られたものである)、苔むし、落ち葉に半ば埋もれ、傾き、欠損した塔墓が連なり、故人たちの歴史上のあれこれを思い起させてくれる。
参道は入口から北東の方向に向かって延びており、左側は傾斜が上り、右側は下りで先の方に並走する本街道が木立の間から見え隠れする。雨空もあるが日中でも足下が暗くなるほど杉の大木で覆われている。入口と御廟を結ぶメインの石道は歩き易いが、少しわき道へ入ると落ち葉も積もるにまかせ足下が悪い。恐る恐る踏み入るのだが、それがかえって歴史回帰の舞台廻しに役立っている。
朽ち果てた歴史上の人物たちの墓と対照的なのが、立派な企業墓所である。50年前に見たとき松下電器とあったものが“パナソニック”に変わっていた。
道半ば、戦国時代の武将たちがそこここに佇んでいる。石田三成墓の直ぐ近くには明智光秀墓、仙台の雄伊達政宗の墓は堂々とした五輪塔だ。朝鮮征伐の戦死者を祀る高麗陣敵味方戦死者供養塔などと言うのもある。
やがて御廟橋に近づくと、秀吉そして信長の墓が現れる。秀吉(高野山攻めを行ったが説得され、庇護者に変じた)の墓が母、弟秀長など一族も葬られる広い墓所であるのに対し、信長の墓は注意深く探さねば分からぬほど小さなものだった。
御廟橋から先は脱帽・写真撮影禁止の霊域。ここだけは木々が払われ明るい。正面には半地下形式で多数の献灯を燈す燈明室を備えた大きなお堂がある。ここをお参りして帰りかけたとき、フッと昔ここへ来たときのことが思い起こされた。「御廟はこんなに大きくなかったはずだ」 しばらく参拝者の動きを観察していると裏手に廻る人がいる。付いて行くとお堂(実は燈篭堂)の真後ろに小さな御廟が在った。

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(次回;高野山名所巡り-2

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