2012年6月3日日曜日

今月の本棚-45(2012年5月分)



<今月読んだ本>
1)格安エアラインで世界一周(下川裕治);新潮社(文庫)
2)イギリス-矛盾の力-(岐部秀光):日本経済新聞出版社
3)「すみません」の国(榎本博明);日本経済新聞出版社(新書)
4)報道の脳死(烏賀陽弘道);新潮社(新書)
5)ゲーテの警告(適菜収);講談社(新書)

<愚評昧説>
1)格安エアラインで世界一周
年初から続いて、これで4回目になる同じ著者の作品だが、私としては初めて読む飛行機旅行物である。それに最近わが国でも話題を集めつつあるLCCLow Cost Carrier;格安航空)がテーマなので読んでみたくなった。ただし実施時期は2009年だから、国内では全く実績が無い時である。
Amazonから届いた本書にパラパラと目を通し航路図(運賃記入)を見たとき、「オヤッ?」と思った。ロスアンジェルスから成田への運賃が、格安ではあるが他に比べ目立って高いのだ(6万円弱)。結論から言うと、太平洋横断航路にはLCCが飛んでおらず、それは今も変わらぬらしい。この料金は格安チケットではあるがLCCによるものではないのだ(既存のエアライン格安チケットとLCCは全く別物)。従って“世界一周”は厳密には正しくは無い。しかし、多様な世界のLCCを紹介する本書の内容の深さから、許されていい“羊頭狗肉”であろう。
最初のフライトはLCCとしてスターとしたばかりのセブ航空(フィリッピン)による関空→マニラ・アキノ国際空港から始まる。機内サービス、座席ピッチなど通常便との違いが具体的に語られるが、この辺りのところは米国サウスウエスト航空が開発したビジネスモデルから想像できる範囲で、それほど驚くほどではない。しかし、翌日のマニラ→クアラルンプールを前に厳しい現実に直面する。マニラの出発空港は何とアキノ空港から80km北に在る元米軍基地(現フィリッピン軍基地)だったクラーク空港、出発時間は9時過ぎ、市内泊では朝の交通渋滞をかわせない。やむなく基地周辺のいかがわしいホテルに泊まる羽目になる。そこまでの移動(夜間)も治安が悪く、高い空港タクシーを雇わざるを得ない。朝空港に向かえば、ロビーは格納庫前のテントである。南国の強い日差しに辟易とさせられる。
LCC利用の問題点の一つが空港およびその施設にあることはこれ以降の行程で毎度語られることになる。利用頻度の低い不便な空港からの発着や大空港でも特別離れた場所に安手の施設が設けられ(例えば、シンガポール・チャンギー空港では一旦メインのターミナルを出て路線バスで移動;つまり出入国が伴う)、差別される。これは空港利用料が安いこともあるが、既存の航空会社の圧力もあるようだ。
第二の問題点は搭乗券の入手である。低価格実現のカギのひとつに旅行代理店を中抜きにする独自の販売方法を採っていることがあるからだ。これだと空港の発券カウンターかインターネットの利用しかないので、インターネットの利用できる環境が整っていないと、現地でぶっつけ本番ということになってしまう。著者らは、発券の基本はプリントアウトだが、プリンターを利用できず、画面を見せるだけで搭乗し、入国に際し出国の航空券をPC上で提示するようなことまで体験させられる。
この他にも、航路の制約(基本的に比較的短距離で乗客数が多いところを飛んでいる)や過疎空港での入出国管理(時間外閉鎖など)、乗り継ぎ(他社便との接続保証がない)など、LCCならではの障害が次々と現れ、何とかそれを克服していく。
LCCを具体的に理解するには“世界一周”も意義があるが、基本的に短・中距離の二点間移動に特化したサービスであることを、あらためて学ばせてくれた。上述の条件を満たし障害の少ないEUで急速に発展し、いまやこちらがメインになったことは当然である。東アジアそしてわが国ではどうなるか?

2)イギリス-矛盾の力-
20075月から10月、約半年英国で生活をした。大学での研究・調査は一週一日だから家に居ることが多く、日本ではほとんど観ないTVをよく観た。英語をきちんと理解できたわけではないが、面白かったのは国会中継である。与野党が演台を挟んで戦わす論戦、党首対党首、担当大臣対影の担当大臣が、あるときは激しくあるときはユーモアを交えて、議場の関心を自分に惹き付けようとする。たまにニュースで散見したNHKの国会TV中継とはまるで雰囲気が違い、お互いの呼吸が合って血の通った議論が行われていることが伝わってくる。それに比べこちらのやり方は議論ではなくその場しのぎの答弁に過ぎない。こんな感想をある時指導教授(察するに労働党支持者)に話すと、ニヤニヤしながら「選挙は相手の欠陥をあげつらい、スキャンダルを暴きだす低次元の戦い。政策も方針がころころ変わる」と嘆いて見せた。
秋になると保守党大会、続いて労働党の大会が行われ、労働党大会でブレアの退任とブラウンの後継が決まる。帰国直前ブラウン内閣が発足して、その政策が発表されて驚いた。少し前に保守党が示した政策案と見紛うばかりである(例えばNHSNational Health Service;医療保険機構とそのサービス)の改革;“ゆりかごから墓場まで”で有名な高福祉政策はもはやなり行かず、国家財政再建の最大の課題となっている)。本来の支持層である医療・警察・郵便などの従事者が批判の声を上げ、保守党も(保守系)新聞もこの“パクリ”を激しく非難していた。いったいこの国の政治はどうなっているんだろう!?教授の話に納得すると伴に日本でも参議院選挙で自民党が敗北し、“ねじれ”の生じた時期、本格的な二大政党による政治が始まろうとしている時だけに、この融通無碍・変幻自在(ある意味いい加減)な振る舞いに、何か惹かれるものがあった。
これに遡ること14年、19931月、まだ若きブレアとブラウンは就任直後のクリントン大統領を訪れ、長く続いた共和党政権からの政権奪取について学んでいる。結論は「何でも反対!反対!ではないこと」であった。下って2009年の総選挙前、世論の動向を先読みした小沢や菅も政権交代後を予見し、学ぶため訪英し二人に会っている。しかし、学んだのはシステム(入れ物)だけで運用(中身)の重要性には気がつかず、関心も示すことも無かったようだ。
2010年久し振りで保守党が第一党になるが、過半数は獲れず自民党との連立内閣が成立する。それまでの長い二大政党制が崩れて新しい統治体制がスタートできるのは、小党の存在を考慮しない選挙制度に不満の多かった自民党の改革案にキャメロンが賛成し、キャスティング・ボードを握った自民党党首、グレッグが連立に際して「われわれは異なっている。もし同じだったら同じ政党に所属していただろうが、それが連立の現実なのだ。われわれは時には同意しないことに同意するだろうし、反発を恐れずに言えば、自分たちの考えを変えるかもしれない」と覚悟を示して、現実的な対応を受け入れたところにある。もともと実現不可能だったマニフェストに自縄自縛になって身動きの取れない民主党指導部には思いも及ばぬ柔軟性(変節)である。
この様に、時として周辺を驚愕させる大胆な方針転換や法律運用の妙は国内政治に限らず、国際関係でもしばしば見られ(米英は兄弟と言われるが、日米安保条約のように、二国の同盟を定めた条約は全く存在せず、アフガン派兵も暗黙のルールの下で行われた)、EUへの参加にしてもイデオロギーや理念はひと先ず置いて、経済政策重視の対応に留まっている。
この“矛盾”は文化においても同じで、古き伝統を大切にする反面、ビートルズやミニスカート発祥の地となるような新規なものを生み出す素地となっている。
大英帝国は遠くなったが、したたかにその影響力を残すこの国から、日本が学ぶことは多い。
著者は英国滞在が長い国際政治記者、文化・経済・社会にもよく通じ、読み応えのある本だった。

3)「すみません」の国
われわれは日常、こんにちは!ありがとう!より“すみません”をより多く使っているのではなかろうか?中でも「チョッと失礼します(本当は発言者に失礼がなくても)」の意で頻繁に用いている。日本人社会に欠かせぬ潤滑剤なのだ。一方で最近目にするのが「済みませんでした」と会社の役員や地方自治体の役職者がTVカメラの前で頭を一斉に下げるシーンである(中央官庁の官僚や政治家がこのように謝る場面は滅多に無い)。こちらの方は何か胡散臭さがつきまとう。同じ言葉でも使い方や場面によって意味が大きく違ってくる。
前者の例(失礼しました)は相手を慮るために直ぐ(軽く)謝るのだが、この習慣があるのは、日本人の他にはイヌイット(エスキモー)とモニ族(ニューギニア)だけだと言う。異民族の侵犯を頻繁に受けたところほど、簡単に謝罪の言葉を発しないらしい。彼らは原理原則やタテマエで自己主張しないと生き残れない環境下にいつも置かれていたので、この様な(簡単には謝らない)体質を醸成していったのではないか。これを一つの仮説(本人の説ではないが)として、日本人のコミュニケーションの特徴、さらには日本社会の特質へと進んでいく(コミュニケーションに基づく日本社会の分析が著者の研究分野;(自己)心理学)。
日本人のコミュニケーションは、相手を“察する”ところに重点を置く特色がある(これを著者は“状況依存社会”と名付けている)。そこにはタテマエや正論・自論をいきなり開陳するのではなく、相手の出方に応じてその場の雰囲気を、衝突が起こらぬよう、作り上げていくスタイルをとる。反対を表明する際にも、一見賛成するような発言をしてから、懸案事項を並べ棚上げにして行く。従って結論を下すまで時間がかかるし、誰が決めたのだか分からないようなことになっていく。これに対して欧米のコミュニケーションは“自分の意見や思いを正確に相手に伝えること”にあり、その役割が全く違うのだ。国際政治やビジネスの世界で「日本人は相手の出方ばかり窺っている」と批判されるのはここに因がある。私もかねがねそう感じてきたし、それを革めないことにはこれからの国際競争に生き残れないとの危機感を感じてきた。
しかし著者はさらにこの特質追究を深め「(改善しなければならない点は多々あるが)本当に、ボーダーレス化する国際社会においてこの特質はマイナスなのか?」と問い質していく。そのプラスの例として、大震災時の被災者たちの秩序ある行動が海外メディアの驚きと賞賛をよんだことをあげ、「日本的な曖昧さや緩さは、自他の共存、異質な文化・価値観の共存にとって、非常に都合のよい性質とも言える」としている。自らの資質をプラス評価しながら、新しい生き方を模索する姿勢に共感をおぼえる。
“おわりに”で「日本的コミュニケーションの深層構造について自ら理解し、説明できるようにならないかぎり、海外の人々から疑問符を突きつけられるばかりだろう」と結んでいるが、至言である。

4)報道の脳死
全国紙・TV・(既存)出版などのメディアの危機が叫ばれて久しい。中でも新聞界の内部からの声が高いような気がする。この本の著者も朝日の報道記者からフリーランサーに転じた人である。辞めた理由の最も大きな理由として、じっくり掘り下げた記事が書けない環境に新聞社全体がなってきていることを挙げている(これ以外にも歳を経て内勤とよばれる管理職になる年齢に達したこともあるようだが)。
書き出しは、大震災時の報道における全国紙の内容にいかに独自性が無いかを例示するところから始まる。例の「陸前高田の一本松」である。そしてしばらく類似記事(写真を含む)の紹介が続く。どの新聞社の誰が書いてもよく似ているのだ。
この様なことが何故起こるのか?パターン化される記事、社内の縦割り組織とニュースソースの断片化、記者クラブの閉鎖性、発行部数低下と経営状況それにインターネットの普及などによる複合的な要因でこれがもたらされることを具体的な身近な例で説明して行く。
例えば、パターン記事の分類として(1)パクリ記事;文字通りどこかで発したオリジナル記事を使い廻しする、(2)セレモニー記事;企業や官庁などが設定した「式典」「儀式」を流すもの、一種の“やらせ”である、(2)カレンダー記事;終戦記念日や御巣鷹山墜落事故のように毎年その時期が来ると繰り返すもの、(4)えくぼ記事;チョッとした良い話(暗い出来事の中の心温まる話のように、事態に直面している人たちの気持ちと矛盾していることを取材している記者も自覚していないことが多い)、(5)観光客記事;地元の実情とはかけ離れた表層的な記事、を主として大震災にスポットを当てて、解説して行く。確かに最近こんな記事が紙面に溢れていることに、あらためて気付かされるのである。
また組織の断片化(複数本社制、本社と支局)が取材活動の柔軟性を如何に制約し、記事に深みやつながりを欠く結果になる(記事の断片化)かも、大震災を含む事例で理解させてくれる。
より根本的な問題は、既存メディアの強みが、コンテンツ(中身)、コンテナ(新聞などメディア媒体そのもの)、コンベア(それを配送するシステム、電波を含む)を全て保有するところにあったが、インターネットの出現でこの3セット独占が崩れてきているところにある。ブログや動画(ユーチューブなど)を通じてフリーランス記者や素人が容易に記事を流せるようになり、パターン化・陳腐化した記事に飽き足らない人々の関心を集め出していることである。結果として「既存メディアは、企業としては存在するが、報道としては限りなく存在しないに等しい」状態になってきていると断じる。
だからと言って著者は安易にインターネットが既存メディアに置き換わるとも思っていない。コンテンツの質・信頼性の維持(ジャーナリズムの存在意義)、良質なコンテンツを提供するための経済的な仕組みなどは未だモデルが出来上がっておらず、次の主流メディアが何であるか、しばらく模索が続くと見ている。
権力の監視役としてのジャーナリズムが不可欠なことは言を待たない。脳死の後の新鮮な報道媒体の早い誕生を期待したい。

5)ゲーテの警告
友人のブログで紹介されているのを見て購入した。“B層(マスコミ報道に流されやすい「比較的」IQの低い人たち)”と言う言葉に興味をもったからである。そしてこの層が“日本を滅ぼす”と本のタイトル下に書かれているのだ!
このB層のオリジナルは、20059月小泉政権下で戦われた総選挙に際し、内閣府が「郵政民営化を進めるための企画書」を民間のマーケティング会社に発注し、その中で使われていることが本書で分かった。つまり選挙活動のターゲットを絞り込むための対象層なのだ。縦軸はIQEQITQ)軸、上が高く下が低い。横軸は構造改革軸で、左がNegative、右がPositiveである。B層は右下に位置づけられている(構造改革に積極的でIQが比較的低い)。ここに属するグループは主婦層&若年層が中心、それにシルバー層が加わる。そしてA層(右上;財界勝ち組企業、大学教授、マスメディア(TV)、都市部ホワイトカラー)の影響を受け易い層で、ここからB層に向けて情報発信を行うことで、小泉支持に向けて世論を操作・誘導できるとしている。因みにA層も道路公団の民営化結果に満足しておらず、その印象を払拭することが大切と指南している。
主目標であるB層については、さらに「具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」「内閣閣僚を支持する層」が付加されている。この企画書に基づく選挙作戦が効を奏したのか自民党(特に小泉支持派)は圧勝する。
著者はこの層こそ衆愚政治の元凶であり、民主党政権を誕生させ、おそらく次の選挙ではそれを見限り(私の周辺で多い)、政治そして社会の混乱を増長させると断じ、この傾向は政治の世界ばかりでなく文化の面にもおよんでいることを音楽やグルメの世界にも触れて、近代大衆社会の末路を予見してみせる。
このB層を浮き立たせ、批判する規範がゲーテの残した言葉である。当時の優れた教養人であったゲーテは大胆な改革・革命には反対で歴史や伝統を重んじる保守的な人だったようだ(ゲーテの作品を読んだことはない)。大衆参加が政治を主導する民主主義にも懐疑的でこれを批判する数々の考えを示している。こうして比較されると私も典型的なB層であることが明らかになる。
問題は、それならどうすべきなのか?本書ではそれがはっきり示されない。全体主義や共産主義はノーで、(ゲーテのような)エリートによる指導を期待する意見もあるが、明解にそうだと言い切ってもいない。
結局「世も末だ!」と言うこと以外何も言っていないような本だ。生年から推算すると35歳前後、自らを哲学者と称するには「20年は早い!」と言ってやりたい。
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