2012年12月11日火曜日

決断科学ノート-126(メインフレームを替える-20;富士通のパワー・ストラクチャー分析)




先にIBMが行う顧客の意思決定構造調査分析(パワー・ストラクチャー・アナリシス)に触れた(-11参照)。これはいずれの会社でも業態に依らず行っていることで、後年お世話になった横河電機でもやっていた。当然富士通もこの種の情報収集・分析を行っていたことは想像に難くない。
この、会社を代表するメインフレーム(MF)の次期システムの話が出たのは、まだ私が川崎工場に居た1981年春先であったことは既に述べた。しかし、誰も本気でIBM以外のシステムを導入することは考えておらず、「最近の国産機の状況はどうなっているんだろう?」位の軽い気持ちだったように思う。それでもヒアリングを受ける方は、当然「チャンス!万が一にも!」と取ったに違いない。私が本社に転勤する前から、本社関係者とのコンタクトが始まっていた。
私と富士通の関係は既に述べたが、ここで本社情報システム室と富士通の付き合いについて、私の知るところを述べてみたい。
ひとつは本社情報システム室数理システム課の前任課長であるISKさん絡みの関係である。ISKさんは当時の東燃では珍しく途中入社である。入社年度は私と同じ1962年ながら、卒年は1960年。東燃がIBM汎用機導入(S360)を検討し始めた時、一足先に富士通の代理店であった有隣電気から移ってきたのである。コンピュータ利用が緒についたばかりの時代、専攻(数学科)したプログラミング技術を直ぐ生かせる職場は限られており、この会社に就職したようだ。その後義父(SNPさん)が東燃の常務であったことから、転社することになる。東燃でも若い頃の仕事はプログラム開発に専念、LP(線形計画法)のデーター入力システムとして、IBM標準品(確かHASPと呼ばれていたように記憶する)を大幅に改善したものを開発、それを富士通にもライセンス販売したりしている(FASP)。
このFASP販売の話は、和歌山工場が工場管理システム構築プロジェクトを進める中で、機種検討を行うに際して、IBMの他東芝、富士通にも照会したことに端を発している。「本社に比べるとチャンスあり」ととらえた、国産二社がトップセールスを含む激しい売り込み行っている最中のことである。しかし、ISKさんは管理職になってもあまり政治的な動きをする人ではなかったから、彼を通じたチャネルはそれほど太いものではなかった。
もう一つのコンタクト先は、この和歌山工場向けシステムを担当する石油・化学営業本部長、OBTさんと東燃の企画課長(のちに企画部長)のSITさんが大学同期であったことである。SITさんと私は全く職種・職場が違っていたので1980年管理職研修で一緒になるまで口も聞いたことがなかったが、これを契機に大変親しくなっていた。本社転勤後しばらくしてOBTさんが挨拶にみえ「実はSITさんと同期で・・・」と打ち明けてくれた。あとでSITさんにそのことを報告すると「そうなんだ。よろしく」とのこと。しかし、それ以上特に富士通に肩入れするような言動はなかった。両者ともオ-プンな雰囲気が好ましかった。
こんなことがあって、1982年になると富士通の営業がよく情報システム室に出入りするようになる。IBMが従来のコンタクトライン<室長・次長・数理システム課長・コンピュータ技術担当>を専らにするのに対して、富士通は“日本語システム”に関心が高い機械計算課も確りフォローしていた。私がIBMMFをベースとするTCSTonen Control System)の強力な提唱者であること、国産機を含めたMF検討が話題に出たとき「IBMでいいじゃないですか」と言ったこと、一ヶ月余にわたるIBMSTIに参加して、IBM礼賛の出張報告をしたこと、も伝わっており“ガチガチのIBM派”とレッテルを貼られていたらしい(2週間前、当時は全く付き合いの無かった富士通の人と飲んだ。「社内じゃ皆そう思っていましたよ」と言われた)。
分析結果は、次長のMTKさんが鍵を握っていること、機械計算課長MYIさんは積極的な関心を示していること、私を富士通に好意的になるよう活動(些か無理な要求にも対応する)すること、だったようだ。

(次回;1983年初旬までの状況)

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