2012年12月28日金曜日

決断科学ノート-129(メインフレームを替える-23;情報システム室長交代)




前回の予告で今回を“本格化する次期システム検討”としたが、その前にこれと深く関わる、室長交代に触れておきたい。
情報システム室の歴史は、経理部機械計算課と製造部数理計画課に発する。1969年この両課が合併、機械計算室が誕生する。その後、1974年技術計算に関わる業務と人を取り込んで、情報システム室へと発展する。さらにその後工場管理やプロセス制御コンピュータの基盤技術を取り込み、コンピュータと名のつくものは全てここが取り扱うようになってきていた。しかし室長は長く機械計算課あるいは数理計画課出身が務めてきており、この時は数理システム課発足時のオリジナルメンバーの一人でであったOTBさんがその任に当たり、次長は技術部(計測・制御)出身のMTKさんであった。
OTBさんは全社の生産計画を行う製造計画課のメンバーであり、1961年に渡米、東燃初の和歌山工場LPモデル開発に関わって以来情報システム一本でやってきた人、社内外にその道の先駆者として知られた人である。OR学会の創設にも貢献、OR学会副会長も務めており、学究肌のタイプである。元々が応用化学出身で数理計画と言うアプリケーション主体のバックグラウンドもあり、コンピュータ技術そのものには必ずしも関心も経験も深くなかった。従ってそれまで付き合ってきたIBM以外にメーカーや機械に興味を示すことは無かった。
これに対して、MTKさんは若い頃からプラント建設部門の計測・制御分野で重責を担ってきており、空気式アナログ→電子式アナログ→デジタルと急発展する制御システム技術を消化し、輸入→海外製品国産化→国産オリジナルと変化する開発・製造体系を評価することが重要な役割であった。つまり、種々のメーカーや機種について日頃から関心が高かったのである。特に、情報システム室に移り、工場管理システムやTCSで汎用機(MF)にも関わるようになってからは、MFの知識も豊富でかつIBM以外へも目を向けることにネガティヴでなかった。
これは本欄“迷走する工場管理システム作り(カテゴリー;工場管理)”に詳しく書いているが、第一次石油危機後、川崎工場の工場管理システム作りに悪戦苦闘していた私は、費用が嵩み取り扱いに専門家を必要とするIBM汎用機の導入を避け、スーパーミニコンと称していたHP3000の採用を決めたが、既に和歌山工場がIBM汎用機を同じような用途に使っていたこともあり、本社・工場幹部を含め反対意見が多い中、それを強力にサポートしてくれたのもMTKさんであった。
MTKさんにとって1983年は、年初から諸事多忙であった。先ずTTECTCSを外販するためのシステム部が発足し、形の上ではその部長職を兼務する(4月から私がその任に当たるのだが)。しばらくすると私の短期海外留学、TKWさんの慶応ビジネススクールへの派遣が決まる。二人が不在の間はその一部業務もMTKさんが代行しなければならない。
そんな中で次期システム検討が本格化する19834月、それまでの主務者であるOTBさんが定年退職を迎えMTKさんが室長に昇格する。このことは既に前年から予想されたものとはいえ、職場の空気はやはりリーダーの資質で大きく変わってくる。まだMTKさんがIBM以外を対等に考えていることを明言したわけではなかったが(そして、あとで知ることになるが、この時点では本心はIBM路線継続だった)、富士通・日立の互換機調査がこの頃から本格化し、その調査活動が“オペレーションX”と名付けられるのである。

(次回;本格化する次期システム検討)

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