2013年5月11日土曜日

遠い国・近い人-26(友朋自遠方来 不亦楽乎-7;シンガポール)



1999年以降も年賀状やメールの交換は続いた。Cheah家の方も我が家もいろいろな変化があった。2003年私は9年務めたSPIN社長を退いた。横河グループにいくつもあった情報サービス会社の整理統合で、SPINは他の3社と合併、横河情報システムが誕生したからである。この後横河本社の海外営業部顧問となり、主にロシアの市場開拓に当たっていた。私が東燃時代と全く縁のないロシアに出かけたように、彼も東レデュポン・シンガポールの事業が合成繊維だったから、そのユーザーが多い印度やパキスタンに出かけていた。
家族の方も状況は刻々変わっていた。夫人のRubyが国立図書館を定年退職していた(彼より随分早いのは姉さん女房か?;未確認)。しかし、彼女の経験は貴重なもので引き続きパート職員として以前と変わらぬ勤務を継続していた。両家とも子供たちは大学進学、更には就職、結婚と両親以上に大変革を遂げていたのである。
2007年、私は45年にわたるビジネスマン人生に別れを告げ、念願だった英国での“OR歴史研究”にあたることを決意、その年の賀状でそれをIt Chengに伝えた。折り返し来た便りには「Jiayingがインペリアル・カレッジを卒業し、エッソ・シンガポールに就職した」というものだった。彼女は父親と全く同じコースを歩むことになったのだ。そして、それは我が家も同じだった。大学・専攻は違うものの長男は東燃に就職しやはり川崎工場で、彼女より一足先にオイルマン人生をスタートさせていた。これでCheah家と我が家の関係は2代続くことになった。残念ながら若い二人が、グループ内での教育訓練や技術会議で一緒になることはなかったが奇縁である(昨年エクソン・モービルは東燃株を大量に売却、それに伴い技術提携も解消されたので、もうそのチャンスはない)。
2008年、賀状で英国生活を伝えると、「もう直ぐ自分も引退する。そうしたら唯一の肉親である姉を訪ねたい」とあった。これは今回の来日で詳しいことが分ったのだが、姉さんは結婚後早くに、両親(既に故人)と彼をシンガポールに残し英国に渡り、彼が留学中は彼の地で大いに頼りになる存在だったらしい。現在は英国籍でケント州に在住、既に80代だが元気に暮らしているとのこと。
その後も賀状の交換は続くが「もう直ぐ引退」と言っていたわりには、それは直ぐには実現しなかった。11年の大震災の直後には「被害はないか?」とお見舞いメールも送られてきた(これは彼以外にも随分あり、原発事故を含めた少し詳しい説明文を作り、返事として送った)。
昨年は家族の不幸(義母と妹の死去)があったので、今年の近況報告はメールのみにした(クリスマスカードが送られる前と考え12月初旬に発信)。これに対して、元旦It Chengから返事が来た。そこには「昨年4月に引退した」とあり、これからは時間が自由になるので、日本を含め各地を旅行したいとあった。「まあ、挨拶代わりだろう」くらいに受け取っていたところ、1月中旬「Jiayingが日本旅行を一緒にしようと言ってきた。彼女は大阪を中心にした計画を考えているようだが、折角の機会だから東京訪問にし、横浜も訪れたい。2月初旬の都合はいかが?」との内容。「一番寒さが厳しく、観光には適さぬ時期に何故?(多分旧正月の休み)」と思いながらこちらの都合を急ぎ返信すると、「26日~11日で訪問する」と折り返し返事が来た。今回はRubyは同行せず、父娘の二人旅、ツアーではなくこちらに来てから適宜観光先を決めるとのこと。結局29日(土)に横浜で会うことになった。

(つづく)

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