2013年12月11日水曜日

フランス紀行 南仏・プロヴァンス・パリを巡る-(18)



15. アヴィニョンの町
アヴィニョンの町は北から流れてくるローヌ川が南西に向きを変える湾曲部の左岸にあり、大きな中洲が北西方向ある。全周4.3㎞の城壁で囲まれた旧市街は三菱マークの左下のような菱形で上と左が川に沿っている。童謡で有名な“アヴィニョンの橋(サン・ベネゼ)”は左上の角から川に突き出すように延びていく。しかし、この橋は戦乱や洪水で何度も破壊と復旧を繰り返し、17世紀以降修復されず、現在残っているのは中洲にも届かない短い部分だけである。そこだけ見ると、とても大勢の人間が“輪になって踊る”ほどの大きさではない。
東からこの町に近づいて目につくのはいかにも堅固な造りの城壁である。ヨーロッパ大陸を旅する機会がほとんどなかった私にとって、城塞都市の評価は難しいが、英国で訪れたヨークの城壁と比べ高さも厚みもこちらの方が倍くらいある感じだ。町の歴史はローマ時代にさかのぼるというから、シーザーのガリア遠征時代に拓かれたのであろうか?もしそうなら何度も蛮族との戦いがあったはずで、町を守ることの知見は相当蓄積されているに違いない。とは言っても現在の城壁が当時からあったものでは無論ない。法王庁が置かれた14世紀以降築かれたものなのだ。「これだけの城壁があればそう簡単に落とせまい」と思うのだが、そうでもなかったようで、独立都市だったり、地方領主に所属したり(それもフランスだったり、イタリアだったり)、教皇領だったりと主を変えている。
アヴィニョンには2泊したのだが法王庁を除けば街中の観光はほとんどしていない。菱形の上から下へ走る“共和国通り(Rue de la Republique)がメインストリート、ホテルもこの道筋に在るので自由時間(ディナーまでの時間)にこの通りを歩いてみた。両側の商店街はほとんどファッション関係、市庁舎前の広場を除けばカフェやレストランなどはなかった。この通りを、城壁を抜けてさらに南へ進むと在来線の駅に出る。しかし、ここにはTGV(新幹線)は来ていないし、接続線もない。(TGVについては別途報告)
メインストリート以外にも車が通れる道はあるが、城壁内の道は碁盤の目や放射状にはできておらず、大方は一方通行。曲り分岐し行止まるので、土地の人でなければ運転するのは難しい。建物は皆石造り、34階建てで一階は商店になっているところが多い。住居はその上の部分になるが、上下水道の整備などはかなり後世のことと思われるのに、表から工事の跡のようなものは見えない。パリの下水道同様ペスト対策で徹底的に整備したのであろうか。あるいは日本の勝手流と違い“自由の本質・限界”を歴史の中で自ら作り上げてきた違いであろうか。
アヴィニョンの町を、西側の中洲、つまり外側からから見る機会があった。街中のごちゃごちゃした景観とは異なり、どっしりした重みのある眺めである。取り巻く城壁は近代兵器の小銃や機関銃ではとても壊せるとは思えない重厚なものである。一時期(13世紀)キリスト教の異端、カタリ派が支配し、それを征伐する十字軍(アルビジョア十字軍;ここに法王庁を設けたルイ8世が最高司令官)によって征服され、罰としてそれ以前の城壁が破壊されたと説明されたが、今ではその痕跡はどこにも見られない。つまり現在在る城壁や塔は法王庁とともに造られたものなのだ。
法王庁に始まり法王庁に終わる。それがアヴィニョンであった。
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(次回;ポン・デュ・ガール水道橋)

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