2014年4月30日水曜日

今月の本棚-68(2014年4月分)


<今月読んだ本>
1) 絶景鉄道 地図の旅(今尾恵介);光文社(新書)
2) 裁きの鐘は(上・下)-クリフトン年代記第3部-(ジェフリー・アーチャー);新潮社(文庫)
3) 闇のファイル(吉田一彦);PHP研究所
4) 人にはどれだけの物が必要か(鈴木孝夫);新潮社(文庫)
5) イタリアワイン㊙ファイル(ファブリツィオ・グラッセッリ);文芸春秋社(新書)

<愚評昧説>
1)絶景鉄道 地図の旅
子供のころから地図を眺めるのが好きだった。未知の世界を知る入り口だったからだ。今でも地図帳はよく眺めるし、最近は孫と地球儀を回して遊んだり、グーグルマップで旅行予定地を調べたりしている。所持する各種内外の地図はかなりの量でとても書架には収めきれず、古いものは段ボール箱に詰めて小屋裏に保存している。地図を見る楽しみを体系的に教えてくれた本に地理学者堀淳一著の「地図のたのしみ」(1972年河出書房新社刊)がある。そのポイントは“地形図”にある。地形図とは、等高線、人工構造物、植生などを記号化して描き込んだ地図、身近には国土地理院作成の25千分の1の地図が代表的なものである。「地図のたのしみ」はこの地形図からその土地々々の景観をつかみ楽しむところに一つの特色があった。本書「絶景鉄道」は当にその仮想体験を、鉄路を辿りながら味わうことを目的に書かれたものである。
紅葉したV字谷を進むトロッコ列車(黒部鉄道)、急勾配に設けられた幾段ものスウィッチバック(旧奥羽本線)、突然空中に放り出されるような高い鉄橋(山陰本線余部鉄橋)、強風で波浪の飛沫が飛んでくる海岸沿いの“波かぶり線”(五能線)、長時間防雪森林の中をひた走る北の鉄路(函館本線)、直線なら僅かな距離を大迂回する線路(大井川鉄道)、トンネルを超えると川の流れが逆行する分水嶺越え(陸羽東線、磐越西線)、果樹園の記号があるがこれは蜜柑か梅か(紀勢本線)、リアス式海岸を串刺しにするトンネル(三陸鉄道)、技術(トンネル掘削、動力集中型の機関車から分散型の電車・ディーゼルカー)や経済情勢で変わったルートや駅の配置(中央西線、北陸本線、飯田線)、こんな話が40編ほど紹介される。これは本書の出典が「週刊 鉄道絶景の旅」(集英社)に連載されたことによる。つまりひと話ごとに完結しているので電車内や短い空き時間にチョコッと読むのに都合がいい。
取り上げられる地形図は現在のものばかりではなく、数十年前との比較なども行われ「こんな長いトンネルを蒸気機関車で行くのは機関士も乗客も難儀だったろうな~(豊肥本線)」などと往時を偲ぶこともできる。この歴史的変化の中には、町村合併など行政方針によって国境(くにざかい)が変わり、駅名などが現在では不適切になったものがある。こんなところは“鉄道で知る身近な近現代地史”の趣もあり、そんな読み方を楽しむこともできる。
私にとっての本書の意義も、結果としてこの点にあった。行政に関わる例の一つとして、赤穂線の備前福河駅に関する話題が取り上げられる。この駅は岡山県備前市から兵庫県赤穂市に越境合併させられて“備前”ではなくなってしまったのである。その説明地図(20万分の1;姫路)の北東、山陽新幹線赤穗トンネルの直ぐ北側に“真殿”という地名が見つかったのである。それも最終ページの一ページ前。わが一族の本籍地は兵庫県竜野市、姫路から姫新線で4駅目、本竜野が最寄り駅でここの一帯も岡山県に近い。絶景とは言えないが“赤とんぼ”が生まれた穏やかな田園地帯、「アッ!」と絶句して地図の旅を終えた。

2)裁きの鐘は
既に2回にわたって紹介してきたジェフリー・アーチャー“クリフトン年代記”の第3部である。貧しい労働者階級の子として生まれた主人公の波乱に富んだ人生を、抜群のストーリー展開で読まされてきた。「さすがジェフリー・アーチャー!」と叫びたくなる作品である。前回は産業資本家一族出身の、少年時代からの親友との異母兄弟判断が、爵位相続のために議会で問われるところで終わる。
今回も出だしのその裁判劇(議員投票が同数だったことから大法官が決する)から一気に惹き込まれ、英国の養子縁組の手順や遺言状の有効性判定などを交えながら、主人公の長男(クリフトン家の3代目)がケンブリッジ大学へ進むところまで時代は過ぎていく。第1部の訳者あとがきに英国では第3部が既に出版されたとあったので、てっきりそれで終わりと早とちりをしていたが、読み進んでもその気配が無い。今回のあとがきで初めて、オリジナルは5部構成で予定されていたものが7部まで続くことが明らかになった。いくら話が面白くても「このような引っ張り方は“あざとい!”」と感じてしまった。
私の読書傾向としてフィクションは軍事・スパイサスペンスを除けばほとんど読まない。また読んだとしても長編は史実をベースにしたもの以外は先ず読まない。長編を得意としてきた司馬遼太郎、山崎豊子は12作読んだが、それらの作品も読後にその量に匹敵する充足感は得られなかった(司馬の随筆・評論・紀行は大好きだが・・・)。唯一の例外は塩野七生の「ローマ人の物語」だけである。ただの通俗小説「クリフトン年代記」がとてもこれと比較できるほど奥の深い作品とは到底思えない。
これからどうするか?「中途だが、もうこれでお終いにしよう!」と言う気分が勝ってきている。

3)闇のファイル
著者は神戸大学名誉教授、専門は情報論。この人の書く欧米の諜報・スパイ・暗号関連ノンフィクションは日本人の書くものの中では出色である(引用・参考の出所が確りしている)。本欄で紹介したのはかなり以前で、20091月に「知られざるインテリジェントの世界」を取り上げている。
今回の作品は同じ出版社から出ている月刊誌「歴史街道」に連載してきた、主に第2次世界大戦時の記事から15編を選んで一冊にまとめたもので、“ファイル”はここからきている。得意分野のスパイ、暗号なども取り上げられてはいるが、どちらかと言うと戦史でも扱われている作戦・戦闘の裏面や後日談に踏み込んでいるところに面白さがある。
例えば、第話の“原爆輸送艦インディアナポリスの最期”はこの巡洋艦が長崎に投下される原子爆弾をサンフランシスコからテニアン島まで運んだあと、フィリピンに向かう途中で伊58号潜水艦に撃沈される(1945729日)。このこと自体は単独の書物も何冊か出るほどよく知られたことだが、その通報・発見が大幅に遅れ、サメの遊弋する海で乗組員が苦闘し、助かるべき命が多く失われる経緯に触れたものは少ない。ここでは“何故通報・発見が遅れたか”に焦点を合わせてこの事件を掘り下げていく(米海軍内の命令通信文書の杜撰な管理が原因;何故杜撰になったか;戦争終盤における陸海軍の主導権争いと本土上陸以外に大作戦の無い安堵感)。
また、第一話“独の仮装巡洋艦アトランティス”のように日本ではあまり知られていない戦闘や兵器の話も本書を特徴づけるものの一つだろう。商船を改造した戦闘艦9隻で134隻の貨物船・貨客船・タンカーなどを沈めている。戦域は大西洋に留まらずインド洋まで及んでいる。アトランティスはその内2215万トンを沈めるか捕獲している。作戦距離は16万㎞、622日間無寄港で任務に従事する。艦長は生粋の海軍軍人だが仮装巡洋艦一筋、最後は中将まで昇進し終戦を迎える。戦後もNATO軍の(ドイツ北部)司令官を務めている。
これ以外にも、“ソロモン沖から生還したケネディ”(PTボート;魚雷艇が如何に役立たぬ兵器であったか)、“風船爆弾の威力”(生産数;約1万発、放球;約93百発、北米到達確認数;285発)、“緑十字船「阿波丸」の悲劇”(死者2千数十人、生存者(下級船員)1名;この人は終戦直後マッカーサーに呼ばれる。口止めされたのか何も語らない)、など「そうだったのか!」と括目させられた。一方で有名作戦を正面から取り扱った“マレー沖海戦の真相”、“レイテ沖海戦の真実”、“ドイツがソ連に侵攻した日”などは著者の真価(綿密な文献調査による知られざる事実の解明)が発揮された作品とは言えない。
私にとっては各章ごとにまとめられた参考文献リスト(欧米の物が多い)に価値がある休息・気分転換用読み物と言ったところである。

4)人にはどれだけの物が必要か
この著者の本は2010年に初めて読み、本欄-1820102月)で紹介している。書名は「日本人はなぜ日本を愛せないか」。中国文化や欧米文化に学びそれを独特な日本文化に昇華していった我が国が“グローバル化”の中で露呈している問題点の根源を探る興味深い“日本論”を展開したものであった。「なるほど」と思われる点が多々あり、次作を期待していたが、本書が出るまでそれを目にすることは無かった。新潮社が送ってくる新書案内メールでそれを知り直ちに購入した。
題名から見てバブル経済末期のベストセラー「清貧の思想」(中野孝次;生活は能うるかぎり簡素単純化し、心の世界を豊かにしよう;西行・兼好・光悦などに通ずる生き方)を連想したが、書き出しで「美徳としての『清貧の思想』などとは、全く性質を異にする立場で書いたものである」とその予想を断ち切る。確かに読み進むとただのケチケチ生活を書き綴ったものでないことが明らかになっていく。根底にあるのは、“地球を救う”(地救人になろう!)と言う考え方を少しでも広めたいことにあるのだ。
経済(科学技術、生産活動、地域開発などを含む)は発展拡大する(させる)ものだと言うのが近代社会存立の前提条件にある。一方で世界の人口は発展途上国を中心に、爆発的に増加しており、あらゆる資源はその限界が見えてきている。従って少しでも資源を無駄遣いしないよう一人一人が今からそれに向け努力しよう。これが本書の要旨である。
著者は慶応大学文学部名誉教授(言語社会学;1926年生れ)、このような問題に関して学者の書くことは抽象論・観念論になりがちだが、全くそれと異なる内容が書かれているところが本書の見どころ(写真)・読みどころである。まえがきが終わって1ページめくると著者が朝の散歩の途上街路で空き缶(鉱物資源浪費)を集めている写真が現れる!連れ歩いている犬のえさも残飯(食料資源浪費)を集め整理して与えていたことが文中に記される。ペットフードの原料は充分人間の食糧になるのだからそちらに回すべきとの考え。ひところ古紙の値段が下落し回収されぬ新聞紙(森林資源浪費)が路上にあるとそれを持ち帰り・保存し・まとまると知り合いの古紙商にクルマで届ける(無料)。日常使うカバンは父親の遺品、何度も修理して今でも使っているし、腕時計も50年以上修理・整備をして使い続けている(新品を買うより高くなっても)。また修理なども出来るだけ自分でやる。以下「そこまでやるか!」のオンパレードだ。しかし、著者はこのような活動を他人に強要する気はない。「できるところからやろう。そうでなければ長続きしない」こんなところに共感を覚える。
読んでいくと、この人が少年時代からかなり経済的に豊かな環境で育った人であることが分かってくる。子供のころから生物観察、中でも野鳥観察が趣味で関係団体の早期のメンバーの一人として活動するうちに、その種・数が減じていくことから環境問題に目を向けるようになる。恵まれた生活は夫人にも共通する(夫人の母が戦前パリで仕立てたコートは妻に引き継がれ、さらに娘が喜んで着るシーンがでてくる)。しかし家庭内にこのような生活を嫌悪・卑下するような雰囲気は全く感じられない。否、今や孫まで巻き込んで一家でこの地救運動を率先垂範している。
本書は2部構成、第1部が主として身の回りから発する資源有効活用のすすめ。第2部は環境問題に関するいくつかの講演を転載したものである。オリジナルは20年前に出版され(そこにはエネルギー資源浪費と原子力に頼ることへの警告が示されている)、その後中公文庫に収められ、今度が3回目の出版となる。今回の文庫版“20年後のあとがき”に「残念ながら地球の環境はさらに悪化の一途をたどっている」と結び、現在の経済活動の抜本的な見直しを訴えている。併せて本書のドイツ語版が出版準備中であることも記され、著者の地救活動にかける情熱に、非難の対象となるホモ・エコノミクス(経済人)と並ぶホモ・ファベレ(技術者)の一人として考えさせられること多であった。

追記;生年から計算すると今年88歳、文庫版あとがきが書かれたのは本年2月、この歳でまだ本当に現役なのだろうか?どんな人か調べてみることにした。先ず経歴がユニークだ。生物好きが嵩じて戦中慶大医学部へ進むが、予科終了で文学部へ転部、言語学を修める。フルブライト留学の第一期生(昭和20年代半ば)として米国留学、帰国して母校で教鞭をとる。その後オックスフォードやケンブリッジで客員教授を務めるほど国際的にも活躍してきた人である。江藤淳は教え子の一人。本年2月京都大学の特別シンポジウムで1時間立ったままで講演を行う姿がユーチューブで公開されていた!演題は「グローバル人材と日本語」 内容は小学校から英語教育を行うことへの批判を含むものであった。さらに調べると “英語帝国主義批判”の論客として内外で知られ、岩波書店から全6巻の著作集も出ている大先生である。地救人以外にも興味が尽きない人物であった。

5)イタリアワイン㊙ファイル
大学時代の親しい友人にもらった本である。同じ著者による「イタリア人と日本人、どちらがバカか?」を本欄-52201212月)で取り上げていたことを覚えていてくれたことによる。友人がこの本を読んだのはワインに精通しようとの思いからではなく、著者が主宰するイタリア語学校の助教のような立場にあり、著者と親しいことが理由のようだ。もらった私もワインは好きだが、家で飲む習慣は無いし、産地・醸造家・銘柄に興味なども無く、外で飲むときは専ら一番安いハウスワインで済ませている。だから-日本人が飲むべき100本-と言う副題が、小理屈を語りたがるワインオタク向けの様な気がして、直ぐには開いてみる気にならなかった。
持ち歩く小型本(文庫・新書)が残り少なくなったので、本書に目を通した。どこにも“100本”が無い!よく見ると最後に付録のように一覧表が載っているだけだった(因みに、この表のページ付け(通し番号にはなっているが)は明らかに本文とは独立してまとめられたことが分かる杜撰なもの。とても一流の出版社の編集とは思えない。本文の終わりころにこの表が著者の意図ではなく、編集者に懇願されて付加したことが明らかにされる)。目次を見ると第1章は「かつてのワインは『親父の味』だった」とある。「これは面白そうだ!」と読み始めた。面白かった。しかし安直なハウツーもののような題名(特に副題)が著しく印象を異なるものにしている。「ワインで知るイタリア文化史」これが本書の“正しい”内容である。
ワインの起源は中央アジア説が有力だが、普及はバルカン半島、特にギリシャに発しその植民地に拡大、さらにローマ帝国の版図に広がっていく。つまり今日のワインはイタリアが発祥地ともいえる。しかし、ローマ帝国崩壊後イタリアは小さな教皇領・領邦国家・他国の植民地としてまとまりを欠き、小国分裂の状態が長く続く。人の行き来も著しく制約され、物産の交易は地域内に留まり、ワインも農家の自家生産・消費がベースで、余ったものを集落内で分譲する取引形態が一般的であった。これが19世紀のイタリア統一まで続くのである。つまりイタリアワインは地域性が極めて強く、また南北に長い地形から土地の性質の違い、それに適したぶどうの種類も多様で、品種が無数に存在していた。これが中央集権国家フランスのワインとの大きな違いである。
このようなイタリアワインの特色を、品種に留まらず、階層需要(貴族や大商人が愛でる高級ワインvs農民・職人のカロリー補給としてのワイン)、主食や料理との相性、ワイン醸造プロセスの変化など多面的に解説して、“イタリアワイン”を一括りにすることの難しさ、問題点、楽しみ方を教えてくれる。
著者が問題点としているのが、1)大資本による集約化と生産プロセスの工業化推進、2)ワインが投資・投機対象として扱われるようになってきていること(金融資本の参入)、3)米国主導のワインジャーナリズムが過度に影響力を持ち始め(日本のソムリエや愛飲家はこの傾向が強い)、アメリカ人好みのワインが“グローバリゼーション”の中で高い評価を得るようになってきていること、いずれも一部の高級ワインを除き、特色のないワインが主流になる傾向に組することになり、地域性を特徴としてきたイタリアワインの変化に危機感を募らせている。
日本のワインについては「まずまずの出来と言えるものは、値段が信じられぬくらい高い。大部分の『国産ワイン』は、今のところ、悲しいくらい『工業製品的な』ものだ」としている(我が国最大のワイン生産地はぶどう栽培など行っていない神奈川県!輸入原液ベースのブレンド商売)。
“そもそもワインは「知る」ものでも「覚える」ものでもなく、飲んで「愛する」ものだ(恋愛もそうだろう!)”が、4歳から(祖父や父が祖母や母に知られぬように一口飲ませてくれた)嗜んできた著者のご託宣。
読後感;「さて、スーパーへ安いイタリアワインを買いに行こうか」

追記;この本を読んだ直後に、実家が日本酒の醸造元だった会社の同僚に酒席で会った。日本酒も地域性が強い酒とのイメージを持っていたので、イタリアワインとの類似性を質してみた。意外な答えが返ってきた。「発酵菌種・米種は早くから農林省の指導で絞り込まれているので、それほど地域としての多様性は無い」とのこと。味の違いは水や製造プロセスにあるらしい。


以上
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