2014年7月16日水曜日

みちのく山岳ドライブ-10


-八幡平・十和田・奥入瀬・八甲田・白神山地・鳥海を駆け抜ける-

7.八甲田山
新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を読んだのは1970年代中頃だったと記憶する。山好きの同僚に「是非」と進められたからである。それまでにも“雪中行軍遭難事件”について断片的には知っていたが、この本で初めてその全容が分かり、爾後“八甲田”と聞くとその悲惨な情景が連鎖的に蘇る。今回のドライブ行で奥入瀬から弘前に至るルートを検討する際、真っ先に浮かんだのがあの小説であった。本は借り物であったから所持していない。そこで出発前にWebであれこれ調べてみたところ、事実とはかなり異なることが分かってきた。
小説では、厳冬期青森を出発し八戸に抜けるルートを開削する(実際に八戸まで行くわけではなく、最もきつい山岳路部分を行軍)青森歩兵第5連隊と弘前から寒冷地行軍研究のため、十和田・八甲田・青森を経て弘前へ戻る弘前第31連隊が山中で行き交うストーリーになっているが、実際は全く別の目的で、たまたま実施時期が重なっただけなのである。日露戦争前、両者ともロシアとの戦争を想定した訓練ではあるが、青森隊は沿岸部をロシアの軍艦に抑えられ時の物資輸送ルートを内陸部に求めることの探索にあり、輸送用そりを多用し中隊規模(211名)であったのに対し、弘前隊は主に冬装備の評価が目的で小隊規模(38名)での行軍であった。小説では全員無事帰還した弘前隊と199名の死者を出した青森隊の対比が、ストーリーの一つのポイントになっているが(青森隊の悲劇性を高める)、それはあくまでもフィクションとして新田が作り上げた話なのである。それにしても199名の山岳遭難死は事実であり、ドライブ用地図に遭難碑の所在が記されていたので、迷わずそれのある県道40号線を採るルートを決めた。
奥入瀬の下流拠点石ヶ戸の休憩所を出たのが1時過ぎ5kmほど走ると、道は再び八戸方面に向かう102号と八甲田を経て弘前・青森へ通じる103号に分かれる。この分岐点から青森までの道は十和田ゴールドラインとも呼ばれる山岳ドライブウェイで今日の第3ステージになる(第2ステージは鹿角から十和田湖へ登り、奥入瀬に沿って下る道)。国道ではあるが幹線路ではないし、八甲田山以外は見所もないので道は空いている。冬期は通行止め、連休前に八幡平同様雪の壁が見ごろになるようだが、今は林の中や日陰に僅かに残雪が散見できる程度で、むしろ高く伸びた白樺の緑が美しい。トップをオープンにしてヒルクライム(山登り)走行の楽しさを存分に味わう。十和田を経由した弘前隊はここを通ったのだろうか?
分岐路から10kmほど山道を登ると八甲田山系(八甲田山は大岳を中心にいくつかの峰から成っている)を前に道は時計回りと反時計回りに分かれる。時計回りが国道103号、反時計回りが県道40号線、このさきに青森隊が目指した田代元湯(ここで1泊を予定;現在廃湯)が在るはずだ。狭い道だがクルマは全く走っておらず、比較的平坦な土地なので運転に緊張するほどではない。左手には明るい日差しの中に八甲田の峰々が見える他は、まるでアメリカ西部の平原地帯を走るような雰囲気に変わってくる。ここら辺は田代平平原と呼ばれるほど広々しており、一部は放牧地にもなっているようで、とても豪雪と地吹雪を思い描くことが出来ぬほど長閑な雰囲気である。“少年自然の家”と書かれた立て看板の近くに、無人の山小屋風の建物と広い駐車スペースがありSUV2台止まっているが、人影はどこにもない。登山か湿原巡りをしているのだろう。“遭難碑”を探してみたが、案内板には周辺のランドマークのみでそれは描かれていない(写真の地図は“遭難碑”近くに到着後撮影したもの)。トイレ休憩だけして先に進むことにする。
(写真はクリックすると拡大します



(次回;八甲田山;つづく)

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