2014年12月9日火曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部;取締役の一人として)-2


1.   経営陣一新-2
1988年の2月のある日社長室からお呼びがかかった。「NKH社長が会いたいとおっしゃっています」とのこと。SPINに移ってから3年、単独で部屋に呼ばれたことはない。時期が時期だけに「人事に関することかな?」と思いながら役員フロアーに上がり、社長の部屋に案内された。「どうだ最近のSPINの経営は?」と会話が始まり、一当たり会社の経営状況を説明し終えると「ところで今度君を役員しようと思っている」と告げられた。ボツボツかなと期するところもあったから素直に「ありがとうございます」と応えた。次いで「最近MTKさんの具合はどうだ?」とご下問。昨年末の癲癇騒動のその後の経過である。あの件に関しどんな報告が上がっているか不明だったので。退院後は全く異常なく職務に励まれていること、原因は後天性のもので薬をきちんと服用していれば問題の無いことを説明した。それで納得された様子だったが次の言葉は全く予期せぬことだった。「実は社長はSMZさんを予定している。MTKさんと上手くやっていけると思うか?同期だからな(昭和28年入社;この年は新制と旧制が重なったので卒業生が多く就職が大変だったらしい。SMZさんは旧制、MTKさんは新制。だけど二人は麻布の同級生。MTKさんは海軍兵学校に行ったため1年遅れ)」とやや心配げに聞いてこられた。
役員登用を告げられ、MTKさんの健康を問われた段階で、私は「MTKさんが社長に昇格だ」と勝手に思い込んでいた。その直後に次期社長SMZさんと聞かされ思わず絶句した。しかし直ぐに気を取り直し、二人の関係についてコメントした。「MTKさんとSMZさんは同じ情報システム室に勤務し、MTKさんは室長付き、SMZさんは次長という時期を経験され、ご一緒に力を合わせてやってこられました。元々バックグラウンドも技術系・事務系も異なるのでSPINでも補完し合って経営に当たられるでしょう」と応えた。
SMZさんは経理・財務畑出身、私の川崎工場勤務時代情報システム室機械計算課長(事務系システムを扱う課でコンピュータ関連組織では最も古い歴史を持つ)も務め、その後経理部予算課長の後情報システム室次長、経理部長を経て役員になった人である。機械計算課長時代工場の税務関係のシステム開発でお世話になっていたから、人柄もよく知っており、「この人なら大丈夫!」と思っての回答である。「そうか」とNKHさんも納得した様子であった。
次の質問は「他にSPINの役員に相応しい候補者はいないか?」 これはさらに予期せぬ出来事だった。何故ならば、現在の役員は3名。SMZさん、MTKさんと私で新陣容も3名でいいはずである。会社は順調に発展しているものの従業員100人程度の会社で4人は多いと思った。しかし答えないわけには行かないので二人の現職部長の名を挙げたが「まだ若い」と一蹴されてしまう。「他に誰かいないか?」と続けられる。直ぐには私にも良い候補者案は浮かばなかったが、「まだ若い」の断言から年齢を上げてシステム関係者を頭の中で高速スキャンした。「(居た)」「MYIさんもシステム経験者ですね」と現職で同期入社(昭和37年入社、しかも一時期本社情報システム室の課長;MYIさんは機械計算課長、私は数理システム課長)の広報部長の名を挙げた。「MYI君か」と受け止めて、やっと欲しいものが得られたとの表情になり、私との面談が終わった。
その後役員人事に関する二つのことが頭に残った。一つはMTKさんは残念ながら社長にはなれないが、役員としては残るだろうと言うこと(「常務かな?」)。もう一つは4人体制になるのだろうかと言う疑問である。確かに上級役員の二人が同期、我々二人も同期。しかも技術系と事務系2名ずつ、バランスは悪くない。ただ利益率の薄い情報サービス業でオーバーヘッドコストが大きくなるのは好ましくないなとも考えた。

(第Ⅱ部“経営陣一新”つづく)


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