2015年1月25日日曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-8


2. 1988年経営トピックス-3;韓国油公
NJでのIBM ACSセミナーを終えた後、55日トロントへ向かう。用件はそこにあるIBMのソフト開発センターでACS機能拡張に関するプログラム開発を当社が請け負うことの最終審査に臨むためである。ACSビジネスが日本で突出していることもあり、チャンスが巡ってきたのだ。審査は形式的なもの。開発センターは日本IBMから既に情報を得ていたので、主にマンパワーや納期に関する確認程度で済んだ。これは海外ビジネス北米第1号であった。
SPINの海外ビジネス展開はTTEC(東燃テクノロジー;エンジニアリング会社)システム部時代、ERE(エクソンのエンジニアリングセンター)から要請を受けてエッソ・シンガポールへのACS導入サポートをしたのが始まりで、次いで1987年韓国油公(ユゴン;前身は大韓石油公社;現SKエナジー)の蔚山コンプレックス(石油精製+石油化学)へのACS導入技術支援業務を請け負うことになった。このビジネスは売込み段階から、日本IBM・韓国IBMに積極協力、採用は和歌山工場への要人見学が決め手となったもので、当社に依る技術支援も油公の強い要請で実現したものである。
実は海外ビジネスに関しては会社設立検討時必ずしも方針が確り出来ていたわけではない。シンガポールの仕事はエクソングループン内の技術相互支援の一環としていくつも事例があったからリスクはほとんどなかった。しかし、油公のケースは両国のIBMが元請になるわけでもなく、SPINと油公の直接取引だから手こずれば損害はこちら持ちである。当時営業部長であった私は、実質的な最終責任者であるとMTKさんと受注可否について随分議論した。結局前向きの結論に至った最大要因は、当社の最終調査に来られた蔚山コンプレックスの技術部長(のちに理事副所長)崔東一(チェ・トンイル)さんの人柄だった。私と同年、辛い植民地時代を体験した人であるがそれ故に日本語は完璧、誠実な人であることが直ちに伝わり「この人の下なら大丈夫」と断を下した。
実質的な業務は、営業はもともと制御技術者で技術システム部門を担当しているYMTY)さん、技術はTCSの中核メンバーで当該部門の課長をしているYNGK)さんを責任者に据え、現地常駐スタッフにはHSYさんを送ることにした。YMTさん、YNGさんは英語が達者、先方も公社が民営化した後Gulf Oilの資本が入っていた時期があるので、管理者は英語で問題なかった(役員クラスは英語より日本語だが)。問題は最前線で仕事をするHSYさんである。この人はTSK(東燃石油化学)が初めてプロセスコンピュータを導入する際、プラント運転員からSEに転じた人である。SEとしての力量は申し分ないし山登りが趣味で体力にも問題なかったが、英語はマニュアルを読むことには長けていたものの、会話はほとんど経験が無い。しかし異国でかなりの時間(1年近く)一人で外国人と仕事をする精神的なタフネスの面も考慮するとこれだけの人材は居ない。「英会話は未熟でもコンピュータ言語が達者なら良い!」と本人説得し、送り込んだ。
現地でのキックオフ・ミーティングには上記のメンバーの他MTKさんにも参加、前年後半から取り組んでいたプロジェクトも19887月には順調に稼働し、無事プロジェクトをクローズアウトすることが出来た。MTKさんが役員を去った今、出かけて油公関係者にお礼をするのは私の役目。ソウルオリンピックを控えた8月下旬初めて韓国に出張した。

(次回;1988年経営トピックス;“韓国油公”つづく)


0 件のコメント: