2016年2月29日月曜日

今月の本棚-90(2016年2月分)


<今月読んだ本>
1) ホンダジェット(前間孝則):新潮社
2) チューリング(B.ジャック・コープランド):NTT出版
3) 暗号化-プライバシーを救った反乱者たち(スティーブ・レビー):紀伊国屋書店
4) 毛沢東(遠藤誉):新潮社(新書)
5) 隠居志願(玉村豊男):新潮社(文庫)
6) 工学部ヒラノヒラノ教授の介護日誌(今野浩):青土社

<愚評昧説>
1)ホンダジェット
中・高生の頃は航空エンジニアが夢だった。幼いころからの変遷は自動車→鉄道→航空となるのだが、鉄道から航空への心変わりは、講和条約発布で空の世界が自らの手に戻り、一気に多くの航空関連書物が現れたことが動機になっている。憑りつかれた第一の理由は美しさだが、開発者の個人名が前面に出ることも大きな理由であった。先年「風立ちぬ」の主人公として取り上げられたゼロ戦の主任設計技師堀越二郎の名は中学生時代から知っていた。メッサーシュミット、ハインケルは会社名にまでなっているし、山本元帥搭乗機を撃墜した双胴の悪魔ロッキードP-38K.ジョンソン、バトルオブブリテンを勝ち抜いた名戦闘機スピットファイアーのJ.ミッチェル、ソ連のミグ(ミコヤン・グラビッチ)、ヤク(ヤコーヴレフ)も設計局として個人名を冠している。
この夢が挫折するのは大学受験の壁にあるのだが、30代に入る頃にはその苦い思い出をむしろ“幸運”とさえ思うようになっていた。自前の飛行機開発はYS11などごく限られ、あってもエンジンは外国製、独自の軍用機計画など米国から政治的干渉を受けて潰され、軍民に拘わらず米国の下請け作業が航空エンジニアの現実と知ったからである。そしてこの思いは航空工学を学んだ多くの学生にとっても同じだったようで、本書の主人公達も航空学科を出ながらホンダで自動車技術者としてその第一歩を踏み出している。
本書の主役は何と言っても昨年米国で(商用生産を認められる)型式証明を取得した双発ビジネスジェット機“ホンダジェット”である。軍用機や大型旅客機(MRJを含む)と違い、日本での運用には限りがあることもあって、今ひとつ話題性は地味であるものの、“独自開発”と言う点では、戦前列強の一角を占めた航空技術復権を期待できる一作と言って良いものだ。何と言っても今までの我が国自主開発機との決定的な違いは、ジェットエンジンをホンダが独力で行ったことである(商用に際しては販売・アフターサービスを考慮しGEのエンジン部門と提携している。完成までの苦難のプロセスを2週間ほど前NHKが放映した)。機体・空力面でも挑戦的な課題に取り組み、エンジンを主翼の上に置くという、長くタブー視されていた構造をモノにしている。“誰もやっていないからやる”“困難だからこそ挑戦する”。まだオートバイ会社に過ぎなかったホンダで学生時代少人数で宗一郎自身から聞かされた言葉が思い起こされた。F1に続く当に“ホンダ精神ここにあり”そのものである。
飛行機作りは宗一郎の夢であったが、ここまでの道のりは決して平易なものではなかった。宗一郎や同僚にも知らされず密命をおびてこれに携わった20代半ばのエンジニアが30年かけて幾重の技術と経営の壁を乗り越えて、やっとたどり着いた労多き道筋を機体設計と全体計画を推進したリーダーを主役に、エンジン開発者助演で、舞台を、航空技術界、ホンダの経営(試作機開発までは“ホンダ精神”で突っ走れても、ビジネスに踏み込む決断は容易にできない)、ビジネスジェット業界(生産・販売、利用形態;欧米では大空港の弱点を補う手段として、利用が伸びている)に設定して描く、臨場感ある技術開発物語と言ったところが本書の要旨である。
著者はIHIでエンジン開発に携わっていた経歴を持つノンフィクションライター。私はかなり古くからからの読者で多くの著書も持っているし、何冊かは本欄で紹介してきた。ホンダジェットを書くのにこれ以上の適者はいない。
1960年代三菱のビジネスプロペラ機MU-2は一応の成功を見た。それに続くビジネスジェットMU-300は試作機完成段階の1970年代終わり頃、100機を超す仮受注を得ていながら、パリ郊外で起きたトルコ航空機墜落事故後の審査基準強化による改造遅れと第2次石油危機で、一気に経営が行き詰まり、米企業ビーチクラフトに製造販売権を譲渡し、ビジネスから撤退した。ホンダジェットがその無念を晴らし、“国産ジェット機ここにあり”と世界に知らしめてくれることを願ってやまない。

蛇足:エンジンを主翼の上に置くと言う発想はプロペラ機時代に試みられたことはあるが、翼上面を流れる空気の流れが乱れ、飛行の安定性・効率性の点で好ましい配置でないとされてきた。一方利点として地上からの機体の高さを低くできるので、乗り降りのために特別な設備を必要としないこと、燃料タンク(主翼)と直結するので、ビジネスジェットの定番である尾部取り付けに比べ、制御システムを含め配管・配線が機内を通ることがなくなるので、それだけゆとりのある室内空間を確保できる。
ホンダジェットの場合、主翼の空気の流れはシミュレーションと風洞実験を繰り返し、安定性・効率性で問題の無い形態・取付け位置を決め弱点を解決している。

2)チューリング
2009910日のガーディアン紙は「ゴードン・ブラウン首相は昨晩、第2次世界大戦の暗号解読者で55年前にゲイである罪で化学的去勢を受け自殺したアラン・チューリングに対して、政府を代表して「我々は非人道的であった」と率直に謝罪した。」と報じた。
インターネットやスマートフォンの利用は今や世界中の人が行っており、日常生活に欠かせぬ道具になっている。身近なニースでも自動車の自動運転やプライバシーを巡るFBIとアップルの戦いなど、情報技術に日頃は無縁な人達にも興味を惹く話題は尽きない。このような情報化時代を1930年代に予見し、単なる暗号解読者だけではなく、自身“万能マシーン”と名付けた今日のコンピュータから人工知能までIT全般の発展に寄与してきた人物がチューリングなのである。本書はこの天才数学者(本書では数理論理学者)研究の第一人者が書いたその伝記である。
コンピュータがここまで進歩発展した大きな因子の一つが“プログラム内蔵”と言う考え方である。計算手順や判断基準をソフトで柔軟に構成し、記憶させて利用する方式である。電子計算機の始祖とされる弾道用計算機ENIACは配線をめぐらしスウィッチを切り替えてその計算を行ったので汎用性は無かったが、それをソフトで組み上げるコンピュータが出現して一気に普及が進んで行った。このプログラム内蔵方式について、巷間フォン・ノイマンが発明したとする説があるが、発想はあくまでチューリングにあることはノイマンも認めている。ただしチューリングが自ら実機を作ったわけではなく、あくまでも概念・構想提言であったことで実機開発と深く関わったノイマンが前面に出てしまったようだ。
ケンブリッジで数理を学んだあとそれを活かす最初の仕事が大戦中の暗号解読である。連合国側の勝利の決め手の一つは枢軸国の暗号を早くから解読していたことにある。英国はナチスドイツのエニグマを、米国は日本のパープルを解読し“マジック”と称していた。エニグマもパープルも、一種の換字暗号(例えば、IBMを一字前にずらせばHALになる)だがエニグマは複雑で、三つの暗号輪(文字を刻んだローター。陸軍と空軍は最後まで3ローター方式だったが、Uボート部隊は後に4ローター方式に変わるので4段変換)で置換える方式だから組合せは(ローター3個が同じものとしても)1字だけでも26文字の3乗(17,576)になるのでなかなか人力で文章まで詰めるには限りがある。敵の油断で甘いところ(例えば、ローターを入れ替えず定形情報を定形フォームで長期に繰り返す)があると、幸運に恵まれれば人手でも解読できることがあったものの、それでは行き当たりばったり。全くヒントが見つからなくても総当たりで解読できないか?このために開発されたのがコロッサスと呼ばれる、世界初の実用化コンピュータだったのである。暗号解読はタイミングが重要である。分かっても作戦時刻を過ぎてしまっては意味がない。これをコロッサスは可能にした。チューリングの構想に基づき英郵政省のたたき上げ技術者が作り上げ、数々の複雑な暗号解読に成功したのだ。だからコロッサスがENIACより前に知られていても良いはずなのに、英国スパイ組織は機密が固い。60年代以降まで書類開示が許されないばかりか、本人が語ることさえ禁じられていたため、米国にトップをさらわれてしまう。
人工知能研究は、その後1980年代MITなどで花が咲くものの、その時代に実現したものは、所詮生身の専門家の知識を詰め込んだ代役(エキスパートシステム)に過ぎなかった。チューリングは自ら学習・思考する機械を提示していたにも関わらずである。ごく最近ホットなニュースを提供している囲碁の欧州チャンピョンを破ったIBMのワトソンやグーグルが挑戦している自動車自動運転技術でやっとその次元に踏み込み始めたところである。チューリングの先見性は半世紀以上先を行っていたわけである。
チューリングは一応中流の上階級に属する。この辺りの階層はパブリックスクール(専ら男子校)時代にホモ・ゲイになる人が多いらしい。チューリングも両親がインド駐在と言うこともあり、男だけの世界にのめり込んでいったようだ。当時(1940年代)これは犯罪、疑われ逮捕されればあとは女性ホルモンの注射で男性機能を低下させられるのだ。オリンピック長距離選手として有力候補だったチューリングは無論男役である。これが男盛りの時代であったからチューリング自身も些か精神に異常をきたしてしまった。
しかし知力は衰えることは無く、その前後にはチェスなどを指す高度な万能機械出現を予想し、人工知能の行き着く先も生前に示しているのだが、天才は結局自死(青酸化合物の服用)を選んでしまう。この死に関する公式見解に問題は無いのか?知り過ぎた男の抹殺の可能性は?終章はこの謎解きに充てられ、ノンフィクションがミステリー小説もどきに変じていく。
本書は先にも書いたよぅに、チューリング研究第一人者(オリジナルは英国人、同じケンブリッジで学んだ後輩であるが今はニュージーランド・クライストチャーチに在るカンタベリー大学教授)の作品であるから内容は確りしている(例えは死因解析の聴き取り調査など)。しかし翻訳は少々問題だ。一応理工学を修め朝日新聞の科学記者を務めた人だが、軍事用語に全く疎い。軍艦の乗組員(士官・水兵)を“船員”と訳しているのは“Crew”の訳語選択の誤りと一般常識欠如から来ているし、びっくりして「これは何のことだ?!」と思わず発したのは“装甲銃”と言う訳語である。日本語で銃と言えば大体拳銃・小銃・機関銃である。それが“装甲”されている姿が想像できなかった。多分原文は“Armored Gun”ではなかろうか。Armoredは“装甲された”、“Gun”は“銃”という訳があるが“砲”もある。“Armored Gun”は通常“自走砲(戦車の車体に固定砲塔を据え付けた兵器)と訳される。反軍思想を信条とする朝日ゆえなのだろうか、著しく常識を欠いた記者が育つったものである。こんな誤訳は編集者の責任でもある。NTT出版はNTTの子会社、ネームヴァリューはあっても所詮2流であることの証である。それさえ我慢できれば(訳全体は悪くはない)、なかなか面白い本である。

3)暗号化-プライバシーを救った反乱者たち-
前著を読み終わり、先に買ってあった本書を続けて読んでみたくなった。あまり内容を確かめずにAmazonの売込みで購入したものである。しかし、導入部にエニグマが登場するものの、中身は“現代”の日常的に使われている新しい暗号の歴史だった。過去のものとどこが違うか。先ず使う對象が軍事や外交ではなく(ここも利用分野であるが)、インターネットや携帯電話で広く利用されている各種プライバシー保護、セキュリティ確保を目的とした一般向けのものであること、暗号形式が送信者・受信者が同じ秘密キーをもって情報をやり取りするのではなく、発信者は公開キーで暗号化し、受信者は別に保有する秘密キーで復元する方式であること、そしてこの暗号方式に最も関心が強いのが米国国家安全保障局(NSA)とFBIであること、にある。
“公開キー”、これだけで伝統的な暗号専門家はまともに取り上げようとしなかった方式、米国政府は研究を厳しく制限していた領域である。それに若いMIT暗号学徒が挑戦していく。アイディアが発せられてから約半世紀を経た現在、電子取引から個人的通話まで欠かせぬ社会システムの一部になった技術である。
公開キーと秘密キーの組み合わせに依る暗号授受を極めて単純化して例示するとおよそ次のようなことになる。送信側は複数の素数(1と自身以外の数字で割れない数)を掛け合わせた数字を使って平文を暗号化する。ここで出来た暗号文は公開キーでは復元できず、元の素数の一つに依って開くことが出来る。受信側はこの鍵を秘密キーとして保持している。例えば21が公開キー、7または3が秘密キーと言うように、である。むろんこんな簡単なキーを実際に使うことは無い。これでは暗算で簡単に答えが求まる。では1961はどうだろう。基本的に素数は偶数でないからそれを外して35711と順次素数を選んで1961を割って行けば、37でやっと割り切れ3753が秘密キーとして使える。この程度ならコンピュータでプログラムを組めば瞬時に答えが見つかる。しかし桁数を増やし、双方の確認手順などを複雑化していけば(NSAFBIが保有する)スーパーコンピューターで解こうとしても億・兆の年数がかかることになり、解読は不可能なレベルに達する。FBIは過激派イスラムテロリストの携帯電話で利用された“秘密キー”を教えろとアップルに迫っているわけである。
本書はこの暗号化の歴史を、一つは数理・情報通信とその適用手順の面からたどり、もう一つはこの技術が普及していく過程を政府(特にNSA)と個人・企業との関係から追って、両者を縦糸横糸として織り上げたものである。
数理・情報通信では、“一方向関数(計算の可逆性が極端に制約される関数;素数の積は簡単に求まるが、素因数分解は極めて困難)”のような純粋数学に近い世界から、実戦で使われている通信による敵味方識別装置のような軍事システムまで、公開キー方式が実用化される基盤や応用技術に従事する研究者・技術者個人と組織を登場させながら、新方式の成り立ちを物語風につないでいく。面白いのは、こんな特殊な分野でも、アイディアや研究が当初は互いに知らないところで複数走っており、やがてそれらが結びついたり競い合ったりする場面である。功名心、特許権そしてカネ、研究者・学者の世界もなかなか凄まじいものである。
しかし、戦いと言う意味では何と言っても研究者・開発者たちと政府(特にNSA)との丁々発止に尽きる。圧倒的に強い立場にあるNSAに、個人や零細企業が、世論やメディア・議会を巻き込み敢然と立ち向かう姿勢は我が国官尊民卑社会とはまるで違う。「(スーパーコンピューターで解けるように)暗号化桁数を減らせ」「暗号方式をNSA規格に準じろ」「落とし戸(秘密解読キー)を設け政府にそのキーを預託しろ」大企業(IBMを含む)は唯々諾々と命令(要請?)に応じるが、学者やベンチャー企業はつぎつぎとこれを、硬軟取り混ぜて無力化していく。いつの間にか、唯一の暗号機関だった(かつ最高級の当該分野の人材を揃えていた)NSAが先端技術に置いてきぼりにされてしまう。著者もここを描きたかったに違いない。ベンチャー経営者、政府高官(NSA長官を含む)、学者、弁護士はてはアナーキーな反権力主義者まで、様々な関係者を登場させ臨場感を盛り上げていく。最も見苦しいのは大統領候補となるアル・ゴア、世論におもねて持論を二転三転させる(本書とは関係ないが、この男は環境問題でも同様だった)。
読み終わったところでアップル・FBI紛争が惹起した。トランプは反アップルを公言しているが、大衆人気に言を左右する傾向が強い民主党本命ヒラリー・クリントンは未だ見解を明らかにしていない。どんな結末になるのだろうか?
本書の著者はIT分野を得意とするジャーナリスト、構想から出版まで10年を要した読み応えのある力作は、お薦めの一冊である。

4)毛沢東
この本は友人のFBで知った。しかし、毛沢東については既にいろいろなものを読んできたのでそれだけで惹かれることは無かったのだが、著者名を見て「オッ!」となり近くの本屋で即求めた。著者を初めて知ったのは1984年出版された「卡子(チャーズ)」を読んだ時である。テーマは、幼い(1941年生れ)著者が1947に体験した満州国の首都新京(現長春)からの凄惨な脱出行である。私がこの地を離れたのは19467月、もし引揚が1年遅れていれば、あの街で生き残れなかったかもしれない、そんなことを教えてくれた一冊だった。
卡子とは門や関所を意味する言葉。敗戦後新京の支配者はソ連軍→国府軍(国民党)→八路軍(中共)→国府軍と目まぐるしく変わった。私の家族が引揚げたときは二度目の国民党配下であった。あとで知るのだが、中共は国民党に敗れたわけではなく、微妙な国際関係の中で都市部は国民党に引き渡し、周辺の農村部を抑えて両者がにらみ合う休戦状態にあったようだ。そのにらみ合いがやがて包囲戦となり、籠城する側、包囲する側両者が幅数キロの空間を挟んで鉄条網を張り巡らせ、往き来を断じた。都市に居住し食糧不足に耐えられぬ著者の家族はそこからの脱出を願い、国民党に許され第一の関門を通過するが、中共が管理する第二の関所は開けてくれない。この食も住もない地獄での長期にわたる彷徨を書き記したのが「卡子」である。国民党から脱出許可が下り、やがて中共側の関門が開けられるのも父親が製薬技術者だったからである。その代り共産中国(主に北京)に1953年まで徴用拘留されることになる。つまり著者は小学校時代を中国で過ごし、少女なりに確り共産中国を体験した人なのである。だからと言って洗脳された形跡は全くない。
本書のタイトルは“毛沢東”だが、正統な伝記や評伝ではない。副題にある“日本軍と共謀した男”がズバリ内容を示している。毛沢東物はいずれも権力掌握・維持に異常に執念を燃やす特異な人物像を浮かび上がらせるものが多い。党の同志、ライバルの国民党指導部、知識人、軍人その時々で目的のためには手段を択ばず手を組み、古い恨みを忘れず、少しでも危険と見れば粛清する。本書の根底に流れるのもこの特異体質の依ってきたる背景を探るところにあるが、多くの人が「まさか!?」と思う中国と敵対した日本(軍)との関係からそれを分析するところに、既刊の書物にない毛沢東が見えてくる。この「まさか!?」を実証する材料(主に中国語で書かれたもの)を、中国(大陸・台湾)、米国などの公文書館・図書館や大学・研究機関、更にはネット情報から発掘して、それらを毛沢東や後継者達の言動を比較検証して、近現代日中関係史、さらには現代の共産中国観の見直しを迫る内容になっている。
先ず毛沢東にとって最大の敵は国民党(特に蒋介石)それにソ連に指導されるコミンテルン(とその息のかかった中国共産党員)だった。これを叩くためには汪兆銘(国民党左派;日本の傀儡)、さらには日本軍と密かにつながることに吝かではなかった。否、国民党軍の機密情報を日本側に渡していた形跡すらある。
実際、八路軍は日本軍との戦闘はほとんどしておらず、ゲリラ戦も必ずしも八路軍が中心ではなく、国民党軍を含めた抗日活動の一環として種々の組織が行っていた。戦時中八路軍にとって国民党を叩いてくれる日本軍は味方同然の存在だった。1950年大陸を制圧したのち、旧日本軍軍人を招聘し、作戦指導に当たらせることさえ画策した(これは台湾に移った国民党軍の下で“白軍”として編成されたものと同じ主旨)。
毛沢東は存命中“反日”を声高に語ることは全くなかった(反米や反資本主義は唱えたが)。訪中団(特に左翼系)が「お詫び」を繰り返すことに辟易し、むしろ「皇軍に感謝する」とまで語っている。反日が一気に高まったのは江沢民が主席になってからである。彼の父親は汪兆銘政権の高官(宣伝部副部長)だった。“反日”はそれを覆い隠すための反作用(保身策)である(これは父親が日本軍将校であった朴槿恵韓国大統領も同じ)。習近平主席もすっかりこの流れに乗り、それを強化しようとさえしている。
著者の主張は、今日の反日歴史観を正すには「毛沢東が(旧)日本軍と共謀していた事実」を全世界に広めていく以外にない、である。因みに“おわりに”で中国側の資料を基に「毛沢東はどれだけ中国人を殺したか(飢饉の餓死者なども含め)」を試算する。答えは57千万人!
全体として“毛沢東が、日本軍と結託する活動に直接、積極的に関与していた”とする仮説を立証するためにかなりのエネルギーと時間が投入されていることが伝わってくる、筑波大学名誉教授(理学博士;物理学)による入魂の一冊である。ただ、不思議と読後に“毛沢東は極めつけの陰謀家”と言う印象は残らず、あらためて“さすが大国の歴史的指導者”の感を強くした。これは共産中国誕生前後彼の地で過ごした人の体験や感性が筆致に反映しているのであろうか?

5)隠居志願
私の読書の動機のひとつに息抜き・気分転換がある。考える必要のない物、途中でやめて少し時間が経ってから再び読み始めても構わない物、当然一つの話が長くない物になる。つまり軽い内容(社会・政治・経済・国際関係ではない)のエッセイが最も適している。中でも望ましいのは紀行文・旅行記、沢木耕太郎、下川祐治、藤原新也などと並んで本書の著者、玉村豊男も処女作「パリ 旅の雑学ノート」以来のファンである。もともと東大仏文学生時代にフランスに留学、研究・学習の合間に現地で観光ガイドや通訳をしていた経験を基に、卒業後旅行企画・案内を生業にし、それを素材に多くの旅行エッセイをモノにしている。
しかし十数年前住居を長野県に移し、農業主体の生活に転じ、田園生活を中心に書くようになるものの(それはそれで息抜きには絶好)、旅ほどは単行本としては売れないのか、なかなか新作を書店で目にしなくなった。それが久々に新潮社から出版され、平積みになっていたので手にすることになった。
本書の素になる材料は共同通信社が全国地方紙に配信する一週一話のエッセイである(2010年~11年)。内容は、八ヶ岳の麓に在る自宅周辺の四季の変化、今や本職となったワイン造り、そのワイナリーに付帯するレストラン経営にまつわる話、それにときどき昔の海外旅行・生活が絡む。そして53話すべてに共通する通奏低音は“老い”である。
先ず好ましいのは、好き嫌いや自己主張を抑えた、肩の凝らない都会育ちの洒脱な作風である。読みながら「こんな日常を送れたらな~」「レストランを訪れてみたいな~」と言う気分にさせてくれる。加えて季節感の表現が見事だ!当に息抜き・気分転換のために書かれた作品と言って良い。
更に素晴らしいのは、一話一話に加えられた話の内容に相応しい自作のカラー挿絵である(対象はすべて草花・果実、可憐なものが多く文庫本でも充分楽しめる)。この人が優れた写実画家であることを今回初めて知った。父親は本職の日本画家、血筋が良いのである。この53葉の挿絵だけでも630円以上の価値がある(本文とは別に解説付き)。
私よりは6歳若いが「良い枯れ方をしているな~」これが読後感である。

6)工学部ヒラノ教授の介護日誌
身近な介護問題の発生は世紀の変わり目だった。80歳代後半の老後を比較的平穏に過ごしていた両親に異変が起きた。母が突然父を認知できなくなったのだ。母の認知症には予兆があり、既に孫たちとの話はしばしば頓珍漢なやり取りになっていた。しかし、我々子供や父との会話は多少おかしなところがあっても「歳だから」と片付けられる程度だったし、家事も何とかこなしていたので、それほど重度とは考えていなかった。それがある日「家に変な人が居る」と隣家へ駆け込み、父が連れ戻そうとすると激しく抵抗し、パトカーの出動になってしまった。我が家へ引き取り、デイケアやショートステイで過ごした後脳出血を起こす。手術は成功したもののしばらく寝たきりで足腰が弱り、認知症と併せて自宅での介護は限度となって、介護付き老人病院にお世話になり、91歳の時私が見舞った目の前で息を引き取った。老人介護の典型的な一例と言っていいだろう。しかし、本書の“介護”はこれとは全く異なる状況下の出来事であり、読み進みながら「もし自分にこんな運命が降りかかれば、とてもここまでできない」と何度も心の内でつぶやき、さらに“夫婦とは”“生死とは”を深く考えさせられた。
ヒラノ教授の介護対象者はその愛妻である。幼馴染(とは言っても知っていたという程度だが)、高校の同期生(この辺りで恋心が芽生えたようだ)、院生時代に周囲の反対を押し切って決行した学生結婚。専ら熱を上げていたのはヒラノ教授の方で、結婚後も時々「愛してる?」と確認せずにはいられない。答えは「そんなこと聞くなんておかしいわ」とか「愛していると言う言葉が、好きじゃないの」といつもはぐらかされてしまう。しかし、病状がジワジワト悪化し、介護負担が日々増す中でついに「分かったのよ。あなたをずっと愛していたことが」と本心を明かす。真に血の通った介護と言うのは、このレベルまで深いものなのだ。羨ましいほどの夫婦愛である。
さて病気である。相互に全く因果関係はないが、最初の病は19923月(ヒラノ教授は1941年生まれ、同期生なら同じ年だから51歳か?)に発症する“心室頻拍”(悪性の不整脈)、これは何とか薬で日常生活に戻ることが出来るのだが、1996年第二の病“脊髄小脳変性症”と言う難病が発見される。発症は1万人に一人の奇病、小脳が時間とともに委縮していき運動機能が低下していくのだ。ある種のたんぱく質が小脳に蓄積することが原因なのだが、遺伝的な要素が強く効果的な治療法は見つかっていない(死亡当時分かっていなかったが、母親も50代で同じ症状を経て死亡している。さらに教授の長女が2000年頃から自転車に乗れなくなり、やがて同じ病に侵されていく)。進行を遅らせるのは点滴と運動をすることであるが、心室頻拍では運動というわけにはいかない。先ず歩行機能の低下、次には眼球を動かす機能が不調になり、物が二重に見えるようになる(片目をつぶって本を読む)。3人の子供の内上二人は自立しているが、次男は大学生の時である。ヒラノ教授は毎朝5時前に起き3人前の朝食と夫人用の昼食を用意し大学(東工大)に出勤、6時に自宅に戻り、クルマで夫人を点滴のために病院に連れていく(週3回)。2001年停年退官までこの生活を続けるのである。
運動機能は低下を続け、要介護度22004年);車いすと電動ベッドの生活を余儀なくされる。幸い私学(中央大学理工学部)に次のポストを見つけたが介護といかに両立させるか。ここで有料の介護サービスを求めることにする。しかし、介護サービス会社の経営トラブルで、結局このサービを受けられなくなってしまう。介護に当てる時間は早朝・深夜を含んでウィークディで5時間余り、週末は78時間!こんな中でレフリー付論文100編を達成するのだから、その精神力と体力に圧倒される。要介護度32006年);睡眠障害が出て昼夜逆転が始まる。睡眠薬の副作用で一晩中泣き叫ぶこともしばしば起こる。教授の心の奥底に妻を疎ましく思う感情が沸々を湧き上がり、ついに平手打ちを食わせるところまで行く。要介護度42007年);この段階からヘルパーが入り、墨田区(教授の自宅は錦糸町のマンション)のボランティアが話し相手を務めてくれる。しかし、ヘルパーはころころ変わり、「手がかかる」と不満を述べる。話し相手はそれ以上のサービスは提供をできない。ついに介護つき有料老人ホームを探すことになる。
希望した有料老人ホーム(白山、大学までは一駅)は受け入れ諾否に当たって体験入所を求め、その結果で判断する。ここで極めて特異な決定が行われる。「ご主人様に強く依存されているのでご一緒に入所するなら」との条件である。全く介護不要なヒラノ老教授も要介護老人として入所する羽目になってしまう(無論費用をとられる)。施設の食事になじまない妻のために4時に起きて朝食用コールドプレート(果物、ソーセージ、チーズなど)を用意、6時に施設を出て大学に向かい、6時半から11時半まで学内で過ごし、一旦施設に戻り昼食を手伝って再び大学に出かけ、退校後二人分の夕食を外で調達6時に戻って一緒に食事。就寝は8時。夜泣きは相変わらず続く。こんな厳しい毎日の中でついに教授が排便時に大出血、大腸憩室(老化した大腸壁の血管切れ)入院を余儀なくされる。
結局夫人はこの介護施設で嚥下機能低下から誤嚥性肺炎になり、大学病院救急医療センターに急送され気管切開手術を受ける。しかし、術後病室に空きがないことを理由に別の病院に転院させられ、さらに別の病院付属介護施設に移り、そこで最期を迎える(20114月)。教授は同じ年の3月に定年を迎え大学生活を終えており、夫人が時々漏らしていた「あなたが定年を迎えるまで生きられるかしら」は達せられるが、うかつにも少し前「この3月で定年だ」と語ったことに忸怩たる思いが残る。
ここまで粗筋を書いてきたように、本書は19年間にわたった介護をテーマとする夫婦愛の物語である。それだけでも一読の価値があるし、老い先短いわが身にとって夫婦、生死、介護を身近に考え直す、読み応えのあるものだった。
次に感銘を受けるのは教授の頑張りである。それは介護ばかりではなく、こんな個人的に多難な状況下で、弱音も吐かず、愚痴もこぼさず、学問の世界にも人一倍情熱と努力を重ねている点である。本書に詳しく書かれてはいないが、金融工学の立ち上げ、数理解法特許に対する特許庁を相手とする訴訟(特許を認めるべきでない)、OR学会会長など、すべてこの時期に重なるのである。

最後に述べておきたいことは、本書には介護に関する役立つ情報が満載されていることである。介護のための費用・補助、介護施設経営の実態、介護に関わる医師・看護師・介護士あるいはケアーマネージャ・ヘルパーの職業意識や処遇、介護関連法制度などなど、実際の数字や実名がふんだんに出てくる。これは介護問題を自己の環境に引き付け、近い将来に備え何を今からすべきかを具体的に検討する貴重な材料となる。心配なのは、ヒラノ教授シリーズ全般に言えることだが、「ここまで書いてしまっていいのかな~?」と言うことである。

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