2017年5月10日水曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-11


7.東燃の経営環境-2
1994年に発足した東燃の新経営陣が先ず取り組んだのが新規事業開発の縮小と1995年から始まった“チェンジプロジェクト”による本業の石油精製業におけるさらなる効率改善であることを前回紹介した。この間SPINの経営はこの本業回帰によって直接大きな影響を受けることはなかった。経営に大きなインパクトを与えたのは、このシリーズ(SPIN経営-3)の書き出しで触れた、出資会社SBCの経営行き詰まりや、総代理店として契約した米国ROSS社の基幹系統合経営管理ソフト(ERP)、ルネサンスの売り込み・ユーザー導入に関する苦戦(売れなくても契約ノルマの仕入れは確実に回収していく)やトラブルだった(複雑なソフト、なじみのない顧客業種)。それでも’94年度、’95年度と売上も利益も順調な伸びを見せていた。バブル経済は弾けて数年経ていたものの、依然としてIT環境の変化は急で、ユーザーの多くはネットワーク化やダウンサイジンに取り組んでいたからである。
しかし、’96年東燃グループ全体の経営に関わる思いもよらない話が起こる。分散している関係会社を一つのビルに統合すると言う計画である。東燃本社が1966年の新設来居を定めていた、皇居を望む一等地に在ったパレスサイドビルディングを引き払うほか、築地の東劇ビルを長く使ってきた東燃化学もここを解約、SPINも関連会社で一棟借りしていた秀和飯田橋ビルを出て、広尾に建設計画が進んでいたプライムスクウェア―タワーにまとめるとのだという。一体何のために?誰が言い出したのか?どう考えても新経営陣の発想とは思えない。いろいろな憶測が駆け巡る。
外資系の会社は並べて自社ビルを持たない。事業の中核である工場は別にして、オフィスどころか社宅なども最低限に抑える。資産化せずに経費で賄う発想である。東燃の場合もいくら内部留保があるからと言って、都心のビルのオーナーになる発想はなかったが、新事業関係ではそのための研究施設を、総合研究所の在った埼玉や工場用埋め立て地が石油危機の影響で未使用になっていた清水工場などに建設していた。これらが本社統合と直接関係するわけではないのだが、「不動産管理が杜撰だ」とE/Mに取られていたふしがあるのではないか?オフィスが分散していると、全体の人員数把握が難しく、“隠れ新事業要員”をあぶりだせないと考えているのではないか?いや、そんな複雑な背景ではなく、統合することによって、グループ全体の要員合理化が図れるのではないか(例えば先行している経理センターのように)?お堀前や銀座に比べて恵比寿は賃料が安いからだ、心機一転新しい会社・グループに生まれ変わるためだ、等々。
SPINの経営者として先ず思ったことは、今や社員数も200名を超え、プロパー社員が出向者上回るところまできて、再び一ヶ所にまとまることの士気への影響である。竹橋から飯田橋に出たとき、プロパー社員がどんなに喜んだことか(逆に出向社員の中には不満を持った人もいたようだが)。何とかこのまま飯田橋に居たい。しかし同居する他の関係子会社にそんな考えは全くない。経営者を除けば皆東燃や東燃化学からの出向者だからだ。こちらの意向に関わりなく移設統合計画は着々と進められ、’975月結局SPINもここに移ることになる。
現在に至るまでこの移設統合計画の最大因子が何にあったか不明であるが、漠然と感じ始めたのは、「(外資でありながら、自主性のあった)かつての東燃経営が大きく変わり始めている」と言うことであった。「ならばSPINをどうするか?」


(次回;SPINの将来を考える)

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