2017年9月16日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-31


15.新役員と後継者問題
SPIN創設時(1985年)の常勤役員は、東燃常務で技術・購買・情報システムを主管していたMKNさんが社長、情報システム部長だったMTKさんと東燃化学(TCC)の経理次長だったKKTさんが取締役、の3人構成であった。実質この仕事(情報システム)に精通しているのはMTKさん一人だから、下馬評ではMTK社長説もなかったわけではないし、部員たちもそれを望んでいたが、ある役員から「それはないと思うよ。彼は東燃の役員経験がないからね」と言われ「そんな必要条件があるのか」と知らざるハードルを認識させられた。私が取締役に就任した1988年、社長は東燃で経理・財務担当役員だったSMZさんが就任、広報室長で同期入社のMYIさんが加わり、3人体制はそのまま継続した。前回と違い、SMZさんもMYIさんも事務部門のコンピュータ利用をとりまとめる機械計算課長を経験しているので、順当な役員構成と言えた。
1993年も押し迫った頃、東燃のNKH社長に呼ばれ、1994年から社長に任ぜられる内示をうけた。この頃になると、先の必要条件(東燃役員経験者)が崩れる先例が出ており、それが適用されたのであろう。MYIさんは常務に昇格して残ることが決まっていたが、もう一人枠がある。NKHさんにそれを問われたとき、SPIN創設時の技術システム部長でその後本社システム計画部部長を務め、1年ほど前から本社常務付き兼SPIN社長付(実質技術部門担当)となっていたTKWさんを候補として挙げ、内諾を得た。和歌山工場、川崎工場、本社さらにSPIN立ち上げと同じ職場で働き、力量も人柄も熟知していたし、歳は5歳下と言うこともあって、内心「次は彼に」と思ってのことである。その“次の人”が年明け、まだ新体制が固まる前に脳梗塞で倒れてしまう。幸い回復したものの、激務が無理なことは明らか、加えて予想もしなかったNKHさんの東燃社長退任が決まる。社長室から役員候補としてTKWさんの後任システム計画部長であるHRIさんを推薦してくる。HRIさんは本来TCCの社員だが、人事交流で東燃に回って来ていた。私が一時期TCC川崎工場のシステム部門に出向していた時には部下だったこともあり、気心は知れていたから異存はなかった。ただまだ若かったこともあり、転出ではなくTCC社員の身分のままの就任である。私もその方が好都合と思っていた。と言うのも、SPINスタート時のビジネスシステム部長であったYNGMさんをいずれSPIN役員に登用したいと考えていたからである。こうして私の社長時代も3人体制でスタートした。
始めは3部(営業部、技術システム部、ビジネスシステム部)構成だった組織は、業容の拡大に伴い子会社、事業部、部や出先(大阪支店、東燃グループ事業所駐在)も増えて、部長クラスの数もそれに伴い増加していった。東燃自体が早期退職を奨励する中で、本籍に帰る者は限られ、どの部長も経験豊か人ばかりである。しかし、300人程度の会社では常勤役員は監査役(常任監査役はSMZ社長時代MTKさんが短い期間務めたあと空席だったが、私の時代東燃の要請で受け入れた)も含めて45人で充分やっていけた。最初に自ら考えで任用したのは前出のYNGMさん、清水に在った電算機センターは東燃システムサービス(TSS)と言う子会社になっており、2年前に唯一の専任役員として赴任、HRIさんが1998年横河への譲渡が決まり本籍のTCCに戻ったあとを埋める形で登用した。YNGMさんは東燃労組の委員長を務めたこともある、人心掌握力に優れた人、経理をバックグラウンドとする機械計算課の勤務も長く、新役員として申し分なかった。ただ歳は私より2歳若いだけだったから次期社長と考えたことはなかった。SPIN創設時からの戦友ともいえるこの人の役員就任がある一方、もう一人の戦友TKWさんは東燃の早期退職制度を利用して、米系の計測・制御調査機関に移っていった。
横河電機は交渉過程の約束通り、常勤役員はSPINのメンバーだけとし、経営を任せてくれた。非常勤としてその時のシステム事業部担当執行役員だったHRSさんが、監査役に経営企画室のUKIさんが就任した。この非常勤体制は、人は変わるものの、唯一の例外として常務だったNKMさんが会長として加わったことを除いて、2003年グループの情報サービス会社再編成まで変わることなく続いた。


(次回;新役員と後継者問題;つづく)

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