2017年12月11日月曜日

磐梯・会津紅葉ドライブ-13


12.大内宿
古い建物が景観保存されている宿場で訪れた所は、長野県の馬篭宿、妻籠宿などがある。宿場ではないが同じような趣きの場所は、富山の五箇山、岐阜の白川郷などを巡っている。これらと比べると、宿場とは言いながら、山村集落であった五箇山や白川郷に近い雰囲気だ。共通なのは茅葺屋根である。違いは500m近い直線道路の両側にそれが整然と並んでいることである。言わば裏口の北側から見下ろす感じでこの集落に入ったから、寄棟の大屋根が連なる光景はなかなかのものである。無論電柱など全くないし、道路とそれに並行する水路も土と石積みだけ、人出の多さを除けば、遠目に見れば、近代と隔絶した世界に迷い込んだ感に浸れる。その人出も、馬篭宿などに比べると道幅が広いため、歩いてみると混雑がそれほど気にならない。
先ず北から南へ下ってみることにする。道路の断面は、家-3m位の歩道-50cm位の排水溝-5m位の中央道路-排水溝-歩道-家となる。排水溝の上には所々踏み板や小さな橋が渡してある。家と歩道の間には縁台や土産物の陳列棚などが張り出しているところもあるのでチョッと歩きづらいが、中央道路は広くて人とぶつかるようなことはない。この造りは概ね昔もこうだったのであろう。電柱などは先ほどクルマで下まで降りた道沿いにあり、集落の中は地下埋設になっているようだ。これで人がもう少し少なく、和服を着てちょん髷を結っていれば時代劇の世界である。
問題は、個々の建物の生業である。もともと会津若松と今市を結ぶ会津西街道(下野街道)の宿場だったわけだから、多くは旅籠か食事処、さらには陣屋など在ったのではなかろうか?その後参勤交代の経路が変わり、専ら商品流通路に転じて、宿中心から半農半宿に転じた歴史があるらしい。せめて表だけでもそんな雰囲気が一部にでも残っていてくれたらいいのだが、一軒だけ歴史記念館があるだけで、あとは土産物屋と飲食店ばかりである。どこの店も同じようなものを扱い、飲食店のほとんどは蕎麦屋である。実はイタリアでもフランスでもスペインでも、地方色を残す観光地の状況は大差ないのだが、もう少し一軒一軒に個性を感じられる店だった。外国人の観光客も随分見かけたし、最近は人気の観光スポットとして知名度を上げてきているだけに、何かもう一工夫欲しい。
そうは言っても、この地がここまで来るまでには厳しい歴史があったようで、こんな辺鄙で不自由な場所にこれだけ人を呼べるようになったことは大いに評価したい。主要街道の地位を失ったのは明治初期、西街道そのものが山系ひとつ東側の阿賀川沿いに移り、鉄道もそれにほぼ並行する形で敷設される。平地はほとんどないこの地でどんな農業を営んでいたのか不明だが、昭和40年代に街道や村落調査で注目されるようになり、次第に知られるようになっていく。先ず、昭和45年(1970年)のNHK大河ドラマ「樅の木は残った」。加えて大内ダム建設による補償金や現金収入。次第に、景観保存に投資が可能になっていったようだ。それでも1985年の観光客は2万程度。1992年第一回「美しい日本のむら」コンテストで農林水産大臣賞受賞。東日本震災前にはそれが120万になる。しかし、福島原発から100km以上離れているのに、事故の影響を受け60万人弱に急減、今は年々回復過程にあり80万人をこえるところまできている。
代わり映えしない一軒の蕎麦屋で“ねぎ蕎麦”の昼食を摂った。一本のねぎを手で持ちそれでそばすくいながら、そのねぎも一緒に食べるのだ。山菜そばを注文した家内から「帰りの車中はねぎの臭いでやりきれなかった」と帰宅後苦情を言われた。
あとでこの地をあらためて調べたところ、なんとあのイザベラ・バード(「日本奥地紀行」著者」が1878年ここの美濃屋と言う旅館に泊まっていることを知った。そんな蕎麦屋が在ったような気がする。
今日(1211日)の写真をチェックしたところ、道路も家も雪で覆われていた。これからがここの見ごろである。

(写真はクリックすると拡大します)


(次回:塔のへつりを観て)

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