2018年7月3日火曜日

ドイツ周遊3000km-11



-バス、鉄道、船、乗り物三昧の9日間-


9.ケルン
フロイデンベルクの次の観光地はケルン。ケルンの英語表記はCologneだがドイツ語ではKolnOの上に̈(ウムラウト)が付く;オとエの中間母音)。現地の人の発音は日本人にはコルンに聞こえる。フランス語の香料水オー・デ・コロン(eudeCologne;ケルンの水)のコロンの方が“ケ”が強く出るケルンよりも通じるかもしれない。
フロイデンベルクを出たのは1115分頃、バスは直ぐにアウトバーンA45号線を北上。この頃から前方に黒雲が見えだし天気が怪しくなってくる。西へ向かうA4号線に入ると雨は本降りとなり、ときどき稲妻が空を走る。ただ雲の濃淡、雨の降り方は断続的に変化し、幸い西の方は明るく、遥か彼方に大聖堂の二本の尖塔が見えてくる。アウトバーンから市内へ向かう一般道に降りた時には降雨の跡さえなく、ライン河東岸から西岸に渡るころには雲間に青空が見える。それにしてもヨーロッパを代表する河川、かつケルンはかなり下流域にも拘らず河端が意外と狭い。隅田川と変わらぬほどである。
初めてのドイツの大都会(フランクフルトでは街の中心部に立ち入っていない)の印象は「(激しい空爆があったのに)何とごちゃごちゃしたところだろう」、勝手に作り上げていた、整然としたドイツ大都市像(人口ドイツ第4位;ベルリン、ハンブルグ、ミュンヘンに次ぐ)とは全く違っていた。
12時半、バスが止まったのはライン西岸沿いのプロムナード。並木が木陰を作り広い歩道に椅子やテーブルが設えてある一画であった。レストランの名前は“Roten Ochsen(英語ならRed Ox)”赤牛亭、赤い看板に醸造元(Brauhaus)ビアーガーデン(Biergarten)ともあるから大衆酒場に近い雰囲気だ。昼食時だから、他の客も入っており、31人は出入りも不自由なくらい押し込められる感じの場所で食事をする。料理はまたまたソーセージ、ポテト(昨日と異なりマッシュポテト)、ザワークラウト。飲み物はビールかワインか迷ったが、ラインが見える間はワインと決めた。水もパンもコーヒーも別注文になる。
食事が終わったのは1時半頃、ここから大聖堂までまたバスに乗る。この行程が大変だった。道は狭く直交しておらず、おまけに一方通行が多いので、大型バスは遅々として進まない。こうなった理由は“極力戦前のままの姿を再現する”と言う都市再建計画に依るのだと言う(当時の市長はのちの西独首相アデナウアー)。
いよいよ本日のハイライトである世界文化遺産ケルン大聖堂見学。激しい爆撃(市全体で35,000トン、聖堂直撃14発)にさらされたにも関わらず、天を突く二本の尖塔(157m)が奇跡的に崩壊せず残ったことは知っていたが、初代は4世紀に建立され、現存するものは3代目で完成は19世紀末、第一次世界大戦では尖塔の一本が解体され溶解されて兵器生産に使われたことなど、初めて聞いた。それより不勉強だったのはこの聖堂がカソリックだったことを知らなかったことである。ドイツだからプロテスタントと勝手に決めていたのだ。4世紀だったらまだプロテスタント運動が起る遥か以前、当然のことなのだが。しかし、内部に入るとイタリアやスペイン、あるいはのちに訪れるバイエルン地方(カソリック勢力がいまだに強い)の聖堂や教会に比べ、おどろおどろした雰囲気がなく、プロテスタントの質素なたたずまいに近い。外観はごつごつしたゴシック建築そのもので、尖塔(大尖塔2本以外にも多数ある)に生える棘のようなものはガウディのサグラダファミリア教会とよく似ている。どんな意味があるのだろう?サグラダ同様ここでも工事足場が景観を大いに損ねる。これは戦後の粗悪材料(レンガなど)で復元した部分を本来の材料に置き換える工事のためらしい。如何にもドイツ人!これなら我慢できる。
ケルン中央駅は大聖堂のすぐ裏手、チョッと自由時間があったので付近をぶらついてみたが、観光客目当てかブランドショップや携帯電話の店が目につき、ドイツらしさを感じさせるものは何もなかった。博物館だけでも30、美術館は100を超すと言うから、大聖堂以外にも見所は多々あるのだろうが、ケルンは大聖堂で終わった。

写真上から;赤牛亭、大聖堂平面図、大聖堂(工事)、大聖堂正面

(写真はクリックすると拡大します)

(次回;高速鉄道ICE)(メールIDhmadono@nifty.com
  

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