<今月読んだ本>
1)十字軍物語(一、二、三、四)(塩野七生);新潮社(文庫)
2)操られる民主主義(ジェイミー・バートレット);草思社
3)ニュートンに消された男 ロバート・フック(中島秀人);KADOKAWA(文庫)
4)コマンド・カルチャー(イエルク・ムート):中央公論新社
5)史上最大の作戦(コーネリアス・ライアン);早川書房(文庫)
<愚評昧説>
1)十字軍物語(一、二、三、四)
-地中海史熟知の著者が描く、聖戦とは程遠い野心と疑心暗鬼の戦い-
世界史を学んだのは高校2年の時。中学の社会科で断片的に知っていたこともあったが、高校では担当教諭が西洋史と東洋史に分かれており、格段に詳しく新鮮で楽しい授業だった。受験参考書以外に求めた本は世界史に関するものしか記憶にないほど惹かれた教科である。イスラムを学んだのもこの時だが、当時の日本にあってそれほど縁のある地域・宗教でもなく、講義が西洋・東洋別々なこともあり、系統的な理解を深めるには至っていない。また、振り返ってみると、何故か“西洋から見たイスラム観”が知らぬうちに刷り込まれたような気がする。一言でいえば“後進地域”である。
石油会社に就職し中東への関心は高まったものの、文化・文明に関しては先入観を拭えぬまま過ごしていたが、1996年5月ロードス島で開かれた国際学会に参加することで、その認識を改めることになる。丁度連休に重なることもあり、この島の他アテネとイスタンブールに立ち寄る旅程を組み、事前準備として、本書著者による「コンスタンチノープルの陥落」「ロードス島攻防記」「レパントの海戦」を読んで出かけた。いずれも15世紀から16世紀のキリスト教とイスラム(オスマントルコ)の戦いだ。ロードス島の城塞外堀(空堀)に転がる巨大な石弾の数々、壮麗なイスタンブールのブルーモスク、イスラム文化・文明の現物を目にして、歴史で習ったイスラム観を一新した。その後仕事でイランの古都イスファハーン(製油所が在る)や旅行でスペインのグラナダなどを訪れて、そこにある清楚で明るく美しい建造物や庭園に触れ「西欧文化・文明に勝るとも劣らぬものだ」の観を一層強くした。折しも国際関係がイスラムで廻っているような状況にある今、もっとこの対比を深めたいと思うようになっていった。そこに出版されたのが本書である。
塩野七生の地中海物は超長編(文庫本で全43巻)の「ローマ人の物語」や前出のオスマン帝国3部作を始めかなり読んでいる。歴史小説家として司馬遼太郎に比すべき作家と思っているが、両者の差は登場人物に対する描き方にある。司馬の場合は惚れた人物にくどいほど入れ込むのに対して、塩野は好き嫌いを早目にはっきりさせ、あっさり書いていく。個人的にはこちらの方が好みだ。塩野に惹かれるもう一つの理由は、ハードウェア(兵器、建物/道路/橋梁/城砦、船など)に関心が高いことである。技術者として、ここは是非知りたいところであり、そんな好奇心を充分満たしてくれるのだ。加えて、著者の同性を見る眼はいつも厳しい。今回も痴女・悪女・猛女が色を添える。
イスラム支配下の聖都イエルサレム奪還のために編成・派遣された十字軍は1096年から1292年までおよそ200年間に8回におよぶ。本書はその第1次派遣の背景から、第8次で中近東のキリスト教拠点がすべて失われるまでを、各次に分けて描く長編小説である。とは言っても歴史物の常でフィクションとファクト(事実)の境界は曖昧だ。ただ主要登場人物の評価などは、出身国と他国で著しく違うこともあることを著者は文中で触れるし、分からないことはその旨明記する。従って、読んでいる感覚は小説というよりノンフィクションのような印象が強くなる。ここが歴史小説の恐いところだ。しかし、全体として、当時のローマ法王(カソリック)、ビザンチン帝国(ギリシャ正教)、それに東西に分かれていたカリフ(イスラム宗主)の世界を、極力公平に扱おうとする姿勢は両宗教に縁の薄い日本人ゆえにわりと貫かれているように読み取れる。つまり、歴史認識としてはかつての私のように偏ることがないのではないかということである。
授業では西欧による聖戦のように受け取っていた十字軍が、どろどろした人間の欲望や野心が絡んだ不純な聖地回復活動だったとの読後感をもった。法王はややもすると諸王に奪われつつある権威権力を手元に引き寄せようとする。中央集権的な王制が確立しない中で、その家臣である諸侯はライバルたちの領土や支配権をかすめ取ることを画策する(法王は禁じているが)。ビザンチン帝国皇帝も十字軍を失地回復・拡大に利用しようとする。イスラム側もスンニ派・シーア派あるいは宗・俗間の主導権争いや所領の支配者が互いに隙あらばと領地拡大を目論むので、互いに疑心暗鬼だ。時には敵の敵は味方となって、イスラムとキリスト教徒が密かに通じ合う。
第1次は3年がかりで小アジアや地中海東岸の拠点を一つ一つ陥しながら南下、1099年イエルサレム王国を打ち立てるが、1189年イスラム勢を結集したサラディンに奪還され、再びその支配下に置かれる。こののち両陣営に聡明なリーダー(英国獅子心王リチャードとサラディンおよびその息子)が現れ和平が成立しても、遠く離れた地に居る法王や高位の原理主義者がそれに反対する(破門にまでする)。加えて、海洋都市国家ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサがこれを利用して海上利権獲得を競い合う。第4次は実質ヴェネチアによるビザンチン帝国制覇であった。この他にもイエルサレムに向かわなかった十字軍が他に2回(チュニジア、エジプト)ある。
本書を読んでいると、心の安寧を求めるはずの宗教が諸悪の根源にさえ思えてくる。派遣国は現在ならばイタリア、フランス、ドイツ、イギリスなどEUの中核国家、今に続く中東の混乱が十字軍とイスラムの対立に重なって見えてくるのだ。今度はイスラムの流入、さらにはジハード(聖戦)として。著者が伝えたいメッセージは、一神教(あるいはイデオロギー)と人間の性(さが)の組合せが生む、狭量な生き方に対する警告と読んだ。我が国は内外から、時として“国家・民族として規範が無い”と批判されることがある。しかし“常識(お天道様)”でここまでやってこられたことは、存外評価できることかもしれない(宗教心の高い外国人労働者受け入れ、未知の世界がこれから始まるのだが)。
蛇足;現在のイタリア海軍軍艦旗は国旗(緑・白・赤)の白の部分に四つの盾マークが入っている。アマルフィ、ジェノヴァ・ピサ・ヴェネチア4海洋都市国家の紋章である。この時代地中海を支配していた誇りをそこにとどめる。
2)操られる民主主義
-スマフォをアクセスするたびに一枚一枚着衣を奪われ、知らぬうちにひと皺ひと皺脳裏に刻まれる、思いもよらぬ政治意識-
個人用のPCを初めて保有したのは1990年、MaC‐SEだった。ネットワークへの接続は富士通が提供していた電話回線サービス、専ら研究会仲間との情報交換に利用した。この段階では広告の入る余地はなかった。インターネットが商用サービスを開始するとネットスケープ社のナヴィゲーターを導入して、各種の外部情報にアクセスできるようになり、一気に世界が広がっていく。そこに関心の無い企業や製品の宣伝が現れるようになる。商取引で利用したのは丸善・紀伊國屋書店メンバーとしての図書購入だったが、現役時代は書店で求める方が多く、利用頻度は高くなかった。しかし、会社勤めを辞めてからは大型書籍店が自宅付近にないこともあり、Amazonに大きく依存している。好きな旅行に対する各種サービスも同様で、楽天トラベルで下調べや予約することが多い。当初はあまり意識しなかったものの、気を惹くような情報がメールでもたらされるようになり、次第に絞り込まれていく。フェースブック(FB)への加入は5,6年前現役時代の後輩から“友達”要請をうけてからである。その時々の状況で友人の投稿に“いいね”をクリックすると、やがてそれを反映した記事が増えてくる。現在のPC環境はWindows/OSだが、インターネットのブラウザーはグーグル・クロームを常用、情報検索はほぼ100%グーグルに頼っている。検索記事の横には趣向にあった本や旅行案内が表示される。外出することがそれほど多くないのでスマフォは不要と考え、いまだにガラ携を非常連絡用に保持しているだけ、SNSの分野にはかなり出遅れているユーザーである。以上のようなことを縷々述べてきたのは、本書の論点“ディジタルテクノロジー(DTと略す;具体的には、SNSのプラットフォーム、ビッグデータ、モバイルテクノロジー、AI)と政治環境”を身近に引き寄せてみたいと思ったからである。
著者は先ずここでの民主主義を「現代の自由な間接民主主義」と定義した上で、それを機能させる六つの柱かあるとし、これらがDTでいかにゆがめられてきているかをその後の章で考察していく。その六つとは;1)行動的な市民、2)文化の共有、3)自由選挙、4)利害関係者の平等性、5)競争経済と市民の自由、6)政府に対する信頼、である。これらは完全に独立したものではないので、六つの章が立てられているわけでなく、DT普及下で情報処理・利用体系が複雑化して意思決定のメカニズムが変わってきていること、それを巧みに利用する選挙戦術が編み出され、当否の決定に大きく影響してきていること、その結果行われる政治的課題解決策が社会の対立を深めていること、などを最新の理論(心理学から数学モデルまで)や事例を交えながら紹介し、このまま進んでいけば民主主義崩壊(六つの柱が傾く)につながると訴える。
具体例は2017年の米国大統領選挙が重点的に取り上げられるのだが、それに先立って、知らず知らずのうちに出来上がってきている“監視社会”をビッグデータの利用や行動心理学の最新動向からあぶり出して見せる。材料は、私もしょっちゅうクリックしているFBの“いいね”。著者は自分で“いいね”した200件をケンブリッジ大学の心理学者に提供する。学者の研究テーマは「性格的特徴を判断するオンライン調査法」。出てきた結果は「偏見にとらわれていない。リベラル。芸術家肌。きわめて高い知性。宗教はカトリック」。因みに、著者はソーシャルメディアに関するシンクタンクのディレクター、ジャーナリスト、カトリック教徒ではないが5歳から18歳までカトリック系の学校に通っていた。この結果(ほぼ正解)に著者は愕然とする。もっと多くのデータがあれば丸裸同然だと。
DT下では皆頻繁に画面展開を行い、欲しい情報に近づいたり直ちにレスポンスを返えしたりするようになっていく。これが、思考を熟慮型から直観・即断型に変え、溢れる情報の中から関心のある用語やショートメッセージに注目しているうちに、特定の主張や考え方に感化され、反対意見に耳を傾けなくいなる。一方で候補者側はこんな状況を熟知している。そこで選挙が行われるとどうなるか?
大統領選挙におけるSNSの利用は既にオバマ大統領時に積極的に行われ、その効果が注目されるようになったが、2017年のトランプ大統領誕生に至る選挙戦では、桁違いの人員/人材・費用と最新技法がつぎ込まれ、頻繁に発信されたツイートには専任の影武者が居る(予想していたことだが、候補者とはほとんど面識のない人間が、日ごろの言動を分析し行っているのだ)。これがトランプ候補自身の資質と相俟って、最大の効果を上げたのだ。
ビッグデータを基に有権者を分析する。それを踏まえ有権者が同調するような(公約を微妙に変化させた)個別メッセージ送り、一方で対抗者に反感を持つように洗脳し、タイミングを図って投票所に行くよう誘う。投票が終われば知り合いに「行ってきたよ。XXに投票したよ」とツイートさせる。有権者が意識しないやり方で、こんなことが進んでいくのである。“ロシア疑惑”もこの過程で生じた、と著者は疑念を投げかける。当選後の政策に対する合意形成もこれらの手法に手を加えれば可能、DTで短慮型思考に変じた国民を御していく。ジョージ・オーウェルの「1984年」では“ビッグブラザー”が独裁者として国民を支配するが、DTの世界では“リトルブラザー”がこれに取って代わるのだ。
本書の書き方は、ジャーナリスティックな論調は薄く、むしろ選挙関連情報活用の歴史的展開(例えば過去のマーケティング手法など)から先端データ分析アルゴリズムや心理学・脳科学までの学際的な研究とその試行状況考察に注力しており、数多あるDTとポピュリズム政治批判とは一線を画す点が評価できる。
不満なのは、DTそのものの将来に対して楽観論(例えば、シンギュラリティ(技術的転換点)到来が近いとの論)に組していること、それに最大の課題「それならばどうすべきなのか」について20のアイディアを列記しているものの、今一つ具体性を欠く(一種の精神論・一般論に留まり、格差社会解消案に類似)ことである。
3)ニュートンに消された男 ロバート・フック
-日本人研究者によって名誉回復を図られたニュートンの先輩科学者-
1983年9月から11月にかけて約2カ月間カリフォルニア州立大学バークレー校(通称UCB、あるいはCAL;キャル)の経営大学院(社会人向け短期MBAコース)で学んだ。ハーバード大、スタンフォード大、MITあるいは分校であたるUCLAに比べ日本での知名度は今一つだが、米国公立大学ではダントツのトップ校、ノーベル賞受賞者数では世界第6位(トップはハーバード大、2位コロンビア大、3位ケンブリッジ大、4位シカゴ大、5位MIT)と言う名門校である(米国の場合何度も学校を変わるので数字は確定できないが61~104個;順位引用源のKarapaia(科学情報サイト)では69個)。受賞の多くは物理学、化学分野で、加速器による人造元素;バークリウム(97番)、カリフォリウム(98番)およびこれらを発見したグレン・シーボーグ教授(1951年化学賞)を記念して、シーボーギウム(106番)にその偉業をとどめる。授業ではこのシーボーグ教授に核エネルギー関連の講義を受け、高速増殖炉開発で日(もんじゅ)仏がトップランナーであるとの話が出、誇らしく思ったものである。しかし、別の授業(多分に息抜きの場であったが)で自然科学部新入生(9月開講)教養課程の物理実験を見学する機会があり驚いた。何と!バネ・物差し・錘を使って“フックの法則”を喜々として実体験しでいるのである。日本なら小学校・中学校でやってきたこと。「こんなところからノーベル賞が始まるんだ!」と。爾来フックの名は私にとり特別な意味を持つことになる。
先月の本欄で「撃墜王ヴァルテル・ノヴォトニー」(ドイツ空軍パイロット)を紹介し、それが日本人によって書かれたことを高く評価した。本書はそれをはるかに上回る、日本人科学史研究者によるフックの評伝である。ハードカバーは1996年刊、この文庫本は2018年12月刊、文庫本まえがきに何も記されていないから英訳版は出ていないのであろう。もしそれが成ったら、世界の科学史研究に名を留める一冊になるのではなかろうか。明らかに意図的に軌跡を消された男を、よくここまで詳しく蘇らせたものだとただただ感心してしまった。何故消されたのか?消された人生は如何なるものだったのか?時代背景は?現代に生かすべき教訓は?これを学問として取り組み、ミステリー仕立てにしたのが本書である。
著者は1956年生まれ、1960年代我が国近代科学史研究に画期をもたらした村上陽一郎に師事、東大大学院理学系研究科博士課程を終えたのち、東大先端技術研究センター助手を経て東工大社会理工学研究科助教授に転じ、現在同校リベラルアーツ研究教育院(大学院)教授。本書の素となるのは、先端技術研究センター時代インペリアルカレッジ(ロンドン)滞在中まとめた博士論文「ロバート・フックの全体像解明」である。フックを取り上げることになるきっかけは修士論文にニュートンの光学分野の業績を研究対象としたところから発する。数多あるニュートン研究の書物・文献に現れるフックはどれも悪役、まともな伝記は1950年代に英国人が著した1冊のみ、肖像画は皆無と言う状態。しかし、島尾永康同志社大学教授「ニュートン」(岩波新書)にフックの活動の多様性が記されていた。判官贔屓の著者はここからフックを研究することを思い立つ。
フックは1635年、今ならロンドンから日帰りも可能な大ブリテン島の南に接する小島、ワイト島で牧師の子として生まれる。子供の時から工作好きで絵も上手い。一度は画家を志すほどだ。牧師は経済的には余裕のないものの階級としては中産階級、奨学金、聖歌隊員や学校関係者の小間使いとしての副収入も得て名門パブリックスクール、ウエストミンスター校を経てオックスフォード大学クライストチャーチカレッジへ進み、ここで科学を修め、マスターオブアーツ(修士号、教授資格)を取得する。この間社会人教育(社会に役立つ学問)を目的としたグレシャムカレッジの教授となり、ここに生涯籍を置くことになる。科学はいまだ職業にならない時代、実験哲学同好の士が集まるオックスフォードクラブ(のちの王立協会)のメンバーとなり実験主任に任ぜられる。器用な彼は職人の協力を得て、気体研究のための真空ポンプや毛細管現象を実現できるガラス管の製作、昆虫の細部や植物細胞を観察できる顕微鏡の改善、それを利用して描く細密画、フックの法則を証明するための実験装置、地動説につながる長大天体観測用望遠鏡の設計・開発、水深測定装置の考案など、目覚ましい成果を上げていく。その名声はレオナルド・ダ・ヴィンチの再来と言われるほどであった。ただ、少年時代から針小棒大な発言がめにつき、この時代になると他人のアイディア盗用などが問題視されることも生じてくる。
対するニュートンは1642年ロンドン北東に在るグランサムの近郊で自営中農の子として生まれる(父は生前三カ月前に他界)。地元のグラマースクルーを出た後ケンブリッジ大学トリニティカレッジに進み、ここで数学に興味を持ったことがのちの数学者・科学者への出発点となる。フックと似ているのはケンブリッジではサイザー(Sizar)と呼ばれる講師の小間使いとして授業料や食費を免じられていることである。27歳で数学教授となり、1672年30歳の時王立協会会員となる。すでにフックは37歳、学会の要職を務めており、この段階では両者の力関係は歴然としている。
最初の衝突はニュートンの反射式望遠鏡の光と色彩に関する新理論(光収差と色収差;ニュートンリングにつながる)。フックはこの理論に辛辣な批判を加える。根底にあるのは粒子説(ニュートン)と波動説(フック)の違いである。この時はニュートンが両説を折衷させる理論(私の高校時代でも両説併記であった)にあらため一応和解するが、これに懲りて以後ニュートンは光学研究を断念しまう。
2回目は落下物体の軌跡に関する理論(太陽系惑星の円運動;やがて万有引力の法則に発展していく)。この時はフックが定性的な考察に基づく仮説を提示し、これにニュートンが自説で応じるのだが、ニュートンは母の死などがあり、熟慮しないままそれを提示、その曖昧な点をフックに突かれる。その後ニュートンは最初の説を引きこめ運動方程式を用いて新説(万有引力則)で対応、これが広く認められる結果になるが、フックは「オリジナルは自分にある」と主張する。以前からある悪評(他人のアイディアをかすめ取る)が確りニュートンに根付いてしまうのだ。
そして「決定的決裂」。名著「プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)」出版に際して、王立協会はそれを承認するものの、幹事・評議員であるフックは数々の妨害行為を行い権利を主張する。ニュートンは草稿にあった彼の名前をすべて削除し、「フック博士に、言い立てているようなことが出来るわけがない。証明させてみれば、彼がそれをやるだけの幾何学の知識を持っていないことが分かる」と怒りを表し、以後フックが協会を去るまでそこに出入りすることはなかった。
早熟のフック、晩成のニュートン。力関係は入れ替わり、時代もニュートンに味方する。名誉革命(1688年ジェームズ二世によるカトリック復活を議会派が潰し、オレンジ公ウィリアムスが新支配者となる;フックは先王チャールズ二世に近かった)でニュートンはケンブリッジ大学を代表する国会議員としてジェームズに反対表明したこともあり、追い風が吹き、さらに造幣局長官のポストも手に入れて、社会的地位を確固たるものにする。1703年王立協会会長、このあと事務所移転に際してフックに関するすべてが、肖像画も含め、処分される。
著者が本書で第一に訴えたいことは、フックの業績に対する正当な評価である。初期の実験物理学・実験化学に関する功績を具体的かつ丁寧に解説(当時の図が多い)してそれを読者に伝えようとする。また、ニュートンに対抗したことで一方的に悪役に仕立てられた点に関しては、論争時のニュートンの理論の欠陥や甘さを指摘して、フックの言動を弁護する。「二人とも巨人なのだ」と。
もう一つ大事なことは、彼らの時代以降理論重視・実験軽視(費用は別にして)が今に続く科学技術を取り巻く自然研究文化である。フックは確かに数理に基づく大きな業績を上げていない。しかし、彼の実験装置が無ければ、科学史に輝くあの時代はなかったかもしれないのだ。これこそ読者に提示された“今そこにある問題”なのである。この問題提起は、若き理学研究者として工学中心の先端技術研究センターに籍をおいた体験も踏まえてのことだけに重みがある。
4)コマンド・カルチャー
-戦場での指揮統率を教えなかった米軍事学校。過剰幕僚・過剰文書。将官の戦死者はドイツの1/10!-
私が就職した頃(1962年)には10年くらい先輩の中に、陸軍士官学校(陸士)や海軍兵学校(海兵)在校時終戦を迎え、出身母校の旧制中学へ戻って一般大学を卒業した人が結構居たし、取引先の人に「彼は陸幼からだから筋金入りなんですよ」と軍人一筋の道を歩んできた上司の経歴をこっそり教えられることもあった(反軍風潮が残る時代ゆえの警告として)。陸幼とは陸軍幼年学校のこと、満13歳以上15歳未満が入学資格、主要都市に置かれ、陸士への予備門的位置付けで、東条英機/石原莞爾/辻政信/瀬島隆三など著名な陸軍指導者を輩出してきた初等軍事教育機関である。因みに、極東軍事裁判で死刑に処せられた6人の陸軍将官はすべて陸幼出身者。でありながら陸士/海兵あるいは陸軍大学校/海軍大学校にくらべ戦史/戦記の中で語られることは少なく、海軍には存在しないので、今一つ実態の分からぬ学校であった。漠然と思い浮かぶことは、日本陸軍が範としたドイツの軍制に倣ったものであろうと言うことくらいだったが、本書を読んでいてそれを確信させられた。本書は米・独の軍事教育体系比較をテーマとするものであり、プロイセンの陸幼が頻繁に援用されるので、断片的に得ていた我が国陸幼に関する知識を系統立てて検証できたわけである。
400頁の内なんと100頁が索引・参考文献リスト・引用注に割かれ、これに文中に著者や訳者の注が加わる。実は博士論文だからである。著者は2001年にポツダム大学で修士を終え、2010年米国ユタ州立大学に本論文を提出して博士号を得たドイツ人である。現在はサウジアラビア王国プリンス・ムハンマド・ビン・ファハド大学准教授。
我が国で紹介される欧州における戦争関連出版物は、その帰趨を決するような作戦や著名軍人/政治家に関する伝記類あるいは政治/外交がらみのスパイ戦あたりが多く、特定テーマ(例えば本書のような“統率・指揮と教育”)に絞り込んだものは少ない。まあ「日本人には関係が無いから売れない」と言うことなのだろう。しかし、当然ながら欧米では連合軍と枢軸軍(ほとんど独軍)の戦いに関し多様な研究がなされ、一般向けの書物も多い。ただ著者によれば、勝敗を分析する焦点が数量(人員、物量、資源)、技術の質あるいは作戦そのものに偏り、統率・指揮とその基盤となる軍事教育に関するものはごく表層的なレベルに留まっているので、そこを深耕する研究を選んだと言うことである。確かに、私も欧米の軍事関連書物をかなり保有しており“Command”をタイトルに含むものが数冊あるものの、文化や教育と直結する内容のものはない。要旨を端的にまとめると、米陸軍将校教育を同種の独機関を基準に批判するものである。特に、米国側はウェストポイント陸軍士官学校とフォート・レヴンワース陸軍指揮幕僚大学校が重点的に取り上げられ、それらに対する評価は、勝者は米軍、敗者は独軍であったにもかかわらず、かなり厳しいものである。この分析がどこまで正当なものかの判断をする知識は無いが、帯にあるように、陸軍参謀長・海兵隊司令官推薦図書となる理由は分かるような気がする(ただし覚醒剤としてか?)。
1982年9月のある日曜日、ニュージャージーに出張中だった私は休日を利用してマンハッタン観光に出かけた。ミュージカル「アニー」が始まるまでの時間をセントラルパークの五番街側で過ごしているとダウンタウンの方からパレードがやってきた。道端でそれを待つ人に何事かと問うと「今日はシュトゥーベン・デー、ドイツ系市民の祭日だ」だとの答え。「シュトゥーベン?それは何のこと?」と再度尋ねると「独立戦争時ジョージ・ワシントンの幕僚だったドイツの将軍」と説明してくれた。
本書の書き出しもこのプロイセン軍シュトイベン大尉から始まり、米国の独立以前から大陸(たいりく)軍とプロイセン軍は親密な関係にあり米国は積極的に学ぼうとしてきたのだが、第二次世界大戦時までには、果敢で時には独断専行も厭わないプロイセン(のちのドイツ)軍将校、指示待ちが多く何事につけ慎重な米軍指揮官と、その後の両軍将校の資質はまるで異なったものになっていった。本論文はその背景、歴史的経緯を教育現場と戦場を交錯させながら詳細に比較分析したものである。
取り上げられる戦場は普墺・普仏戦争や米西戦争、第一次世界大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争もあるものの、主体は第二次世界大戦における欧州戦線。対象士官層は1909年から1925年にかけて少尉任官した、低くとも第二次世界大戦時大佐以上の階級、アイゼンハワー、パットン、グーデリアン、マンシュタインの世代である。
問われるのは作戦策定能力ではなく、与えられた権限の中での即断即決する力それに率先垂範し最前線で指揮する能力の有無である。マニュアル通りことが進まないのが戦場、指揮官の状況判断とリーダーシップこそが勝敗の決め手なのだ。軍事教育の根幹はそれらをいかに涵養するかにある。しかるにウェストポイント(陸士)は4年間を通して授業時間の75%を数学と工学教育に当てて、軍事史や近代歩兵戦術を講ずる時間があまりにも少なかった。これは南北戦争当時工兵が重要だったことから来ているのだが、その後の変化を旧弊な軍トップや学校当局が認めないところに両者乖離の因があったとしている。数学重視は特に問題で、戦場の指揮官として顕著な実績を示したパットンはこの教科のために1年留年している(退学者も多い)。また、1年生に対する無為な“しごき”の伝統も有意な人材を早期に脱落させてしまっている(この改革は何度も試みられるが、いまだに完全には改まっていないようである)。これに対しドイツは幼年学校(これに相当するものは米国には存在しない)時代からリーダーシップや軍事関連基礎教科を重視し、士官学校ではさらにその専門性を高めるようになっている(下級生/上級生、生徒/教諭の敷居が低い)。その幼年学校はもともと軍人志望の貴族の子弟のみ入学を許され学校であったため、学ぶ姿勢が根本的に違っている(中産階級平民に門戸が開かれると、優秀な生徒が集まる反面、子供の躾つけのために送り込むケースも増えて玉石混交になっていく)。一方で、階級意識が将校団の結束に微妙に影響するネガティブな面も出てくる。
指揮幕僚大学校に関しても実戦に直結する教科の少なさ(例えば参謀旅行のような屋外活動が無いこと、図上演習の想定・進め方が単純なこと;独陸軍大学校の場合“指揮官欠損”などが突然加えられるのは当たり前だが、米陸大ではそこで終了)を問題視するほか、入学者選抜方法の不明確さ(無試験、コネ)や本人の進学意思に問題があることを指摘する。
教育結果の定量化として提示された両軍将官の戦死戦傷者を数字で表したところは衝撃的だ。米陸軍(航空軍を含む)の将官戦死者はおよそ20名(半数は航空軍)、最高位は中将2名(一人は沖縄戦、二人とも死後大将に昇進)、戦傷を負ったのは34名。これに対しドイツ国防軍の場合、陸軍と空軍を合わせた戦死者数は約220名。戦傷など数え切れず、ロンメルの後任として北アフリカで戦ったトーマ将軍は捕虜になるまでに20回負傷しているし、白兵戦章を持つ将官はざらにいた。この差は如何に将官が最前線で戦ったかを示す指揮統率力の象徴と著者は言う。
ここでは米軍の問題点を中心に本書の内容の一部を紹介したが、決して独システムが優れ米は劣ると一方的に決めつけるものではない。独幼年学校就学年齢(10歳から)が早過ぎる問題点から独将校全般に言える他国陸軍の過小評価(おごり)、米軍産大学校(詳しい説明はないが総力戦に関わる高級士官教育機関)の勝れた点など、独将校教育の欠点も分析されており、バランスをとるための努力の跡がうかがえる。注目すべきことは、第二次世界大戦まで、プロイセンそしてドイツが軍人を尊敬する社会だったの対し米国の戦間期(第一次と第二次の間)は厭戦ムードが満ち溢れ将官すら市中では制服を着用することをはばかるような風潮だったと記している点である(参加者全員が平服で会議を行っている写真がある)。軍事国家を良しとするものではないが、時には死を賭して国民の安寧を守る組織・人に対する敬意こそ、強い軍の根源との結言は全く同感である。
本書を読んで、日本の陸軍教育機関である、陸幼・陸士・陸大は選抜方法や教科に関して独システムに近い感を持った。特に、陸幼に高位の軍人の子弟が多いことに類似性が認められる(比較的経済力があり教育レベルの高い家庭出身者が多い)。彼らのリーダーシップをどう評価すべきなのだろうか?将官の戦死者はどの程度だったのだろうか?また、政治への関与がまるで異なるのはどこに原因があるのだろうか?こんな疑問がわいてきた。
米・独将校教育の比較と言うユニークな視点から学ぶことは多かったが、やや気になったのは何人かの著名な軍人に対する評価である。日本人にもなじみの深いマッカーザー、猪突猛進で知られたパットンなどを手放しで礼賛している。二人とも米軍では際立って自己顕示欲の強い人物。マッカーサーの場合バターンからの撤退行動など見ると指揮官としての資質に問題さえ感じる。また東部戦線の作戦に関しヒトラーに異をとなえ、辞任した(実態は更迭された)陸軍(OKH)参謀総長ハルダーをヒトラーの提灯持ちのように批判している。これは数多出版されている欧州戦線を扱った書物には見られない見解で(彼は米軍から高く評価され、戦後米国で戦史編纂に重要な役割を果たした)、国防軍最高司令部(OKW)参謀総長カイテル(ヒトラーの最側近ゆえ戦後死刑)と間違えているのではないかと思ったほどだ(博士論文だからこんなミスはないと信じるが)。これらを勘案した時、帯にある「海兵隊司令官・米陸軍参謀総長による将校向け選定図書」の真意はどこにあるのか、若干疑問が残った。
5)史上最大の作戦
-戦争映画史に残る大作を、これもノンフィクション史に残る名著でたどる面白さを堪能-
就職した年の翌春、1963年1月15日(成人の日)、南国和歌山に小雪がちらつくほどの寒い朝、工場の寮仲間と大阪阿倍野まで片道2時間をかけて映画を観に出かけた。ノルマンディー上陸作戦をテーマにした話題の超大作戦争映画「史上最大の作戦」である。上映時間は3時間。演じる俳優たちは、米;ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、ロバート・ライアン、英;リチャード・バートン、レオ・ゲン、独;クルト・ユールゲンス、仏;ジャン・ルイ・バロー、など主役級勢揃いの豪華キャストだ。面白くないわけはない。その後もTVで放映されるたびに見てきた。その原作が本書である。原作者、コーネリアス・ライアンもシナリオライター(4人)の一人として名を連ねている。
本書の日本語訳出版は1962年(原著は1959年)、映画が公開された年である。当時直ぐにはこのことを知らなかったが、何と言っても第二次世界大戦の従軍経験もあり、欧州戦線を扱った数々の名作(「ヒトラー最後の戦闘」「遠い橋」など)をものにした著者はノンフィクション作家として知名度抜群。やがて本書を知ったものの、映画の印象があまりにも強烈だったので「敢えて読むこともないか」とパスしてきていた。しかし、最近「午前10時の映画祭」で原作も読んだことがある古い名画を観ていて、文章で読んだ印象と映像から得られるものの差が妙に気になりだしてきた。別の言い方をすると、その違いを見つけることに面白さを感じるようになってきたのである。そこで新しい読書の楽しみ方に挑戦、と取り組んだのが本書である。
有るわ有るわ!先ず構成や細部の描写。ある意味で、時間的制約が厳しい映像表現の工夫。次いで文章から頭の中に浮かぶシーンと映像で見る印象の違い。人物は特に顕著だ。結論は「やはり読んでみなければ・・・」である。大事なことだが映像として表現の難しいところが端折られているし、逆に観客を楽しませるために、オリジナルを全く変えているところがあったりする。また、演じる俳優によって原作とまるで異なるイメージが長く残っている場面ある。
二、三例を紹介しよう。
大規模な上陸作戦、機密保持に苦労する。これは映画でも連合軍側の数々の欺瞞工作や諜報活動として描かれる。その一つは、作戦行動開始を仏レジスタンスに告げるヴェルレ-ヌの詩をBBCの海外向け放送で流すところである。詩の前半は作戦開始が近いことを知らせる予告、詩の後半が読まれると4~5日以内に作戦開始の合図、それはレジスタンスに破壊活動開始を指令するメッセージでもある。ドイツ国防軍情報部(カナリス機関)はこれを正確に把握しており、西方軍司令部の情報部門にもあらかじめ警戒するよう伝えられている。ここまでは映画も原作に忠実なのだが、これが無視される過程はかなりショートカットされている。原作では当時の西方軍司令部、その下でノルマンディー含む地域を担当するB軍集団(司令官はロンメル)の受送信記録まで調べて追うのだが、どこかで握りつぶされている可能性を示唆する。誰が何のために?ミステリアスな雰囲気が映画より「強く感じ取られる。
1944年6月6日が侵攻日、この前日(4日説もあるが著者は否定的)からB軍集団司令官ロンメル元帥は休暇をとっている。そのこと自体は西方軍総司令官ルントシュテット元帥にも了解を得ている。しかし、ロンメルは休暇ばかりではなく、ヒトラーに会う算段を総統副官を通じて取り付けている。このことは当人と副官だけしか知らない。著者が戦後副官から聞き出したことである。目的は総統直轄の予備の装甲師団を自分が動かせるように直訴する意図と著者は推察する(実際には上陸作戦が行われたためこの会見は実現しない)。休暇をとっていたことは映画でも伝えられるが、この話は映画には全く出てこない(ルントシュテットがヒトラーに装甲師団を自分の支配下に置くことを懇願するシーンはあるが)。実は、著者の見方にはルントシュテットとロンメル(および双方の司令部)の間にある、信頼感の欠如が上陸作戦成功に影響していると見ているふしがある(ルントシュテットはロンメルを陰で“若造元帥”と呼んでいた)。
ミスキャストの例。ジョン・ウェインは空挺部隊の指揮官として登場する。降下の際足を挫いて、その後の移動は農業用の一輪車に乗りそれを部下に押させて進軍する。貫禄ある彼の姿から将軍クラスのイメージが残っていた。実際は第82空挺師団の中佐(大隊長)、足は英国滞在中不注意で痛めたもの、上陸作戦から外されるのを恐れてひた隠しにしていたが降下後どうにもならなくなったのが現実なのだ。ジョン・ウェインが中佐はないだろう!
かなりの紙数が割かれたものに、揚陸艦や上陸用舟艇に関するトラブル多発がある。デリック(吊り下げ機)からの落下、輸送船から移乗の際の事故、浸水/波浪による転覆等により上陸前に多数の兵士が失われたことは、映画ではほとんど描かれないが、本の中では重い装備を付けたまま水中に放り出され助けを求めながら沈んでいく姿が何ともやりきれない(「溺れる者を助けず、前進せよ」が命令なのだ)。
取材に3年をかけ、約1000人にインタビュー、その内383人の証言を採用したと著者あとがきにある本書、細部を見れば原作と映画の間に種々差はあるものの、基本的な戦いの流れにそれほど違和感がないし、何と言っても大切なのは原作で著者が両者を公平に扱おうとする意図が映画にも確り反映されていることである。つまり、私にとって、映画から得られた印象は大筋では損なわれず、かつ本書を読むことにより細部で新たな知識を入手できたと言う、まことに価値ある一冊だったわけである。
蛇足だが、前項“コマンド・カルチャー”で指摘された統率力欠く将官は出てこない。
第一波で上陸したただ一人の将官セオドアー・ルーズヴェルトJr准将(映画ではヘンリー・フォンダ)は、57歳の老齢ゆえに計画段階では外されていたのだが、何度も上級司令部に指揮を懇願して許される。激戦のユタ海岸制圧の功もあって7月12日師団長に任命されるが、その報が届く前に心臓発作で急逝する。
(写真はクリックすると拡大します)
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