2021年2月16日火曜日

活字中毒者の妄言-7


■文章と映像


所帯を持ってから「山河燃ゆ」(山崎豊子「二つの祖国;太平洋戦争における日系移民が主題」)以外NHKの連続大河ドラマは観ていない。歴史観を著しく歪めると考えるからだ(昭和史ならば自分なりの捉え方が出来る)。面白ければ面白いほどその可能性は高い。しかし、唯一大河ドラマに近く、313回にわたり年末(2009年~11年)に放映された司馬遼太郎「坂の上の雲」は、「何故こんな変則的な放映をするのか?」といぶかりながらも、次年度を待ち焦がれて最後まで観通した。司馬は好きな作家で、「この国のかたち」「街道をゆく」を始め歴史エッセイや対談集などノンフィクションは数多く読んできたものの小説はこの一編だけである。動機は、父上が駆逐艦の艦長としてレイテ沖海戦で逝った、会社の同僚に薦められたことにある。確かに惹きつけられる作品で全6巻一気に読んだ。時期は19767年頃、既に歴史小説家としての司馬の名声は不動のものとなっていた。しかし、読後感は「これは危ない!この人の小説は読むまい」であった。あまりにも登場人物が魅力的なのである。特に秋山好古・真之兄弟それに正岡子規がその代表だ(主人公だから当たり前だが)。そしてTVではさらにこれが強調され、作品の本質、我が国近代化への夜明けと苦闘、が希薄になってしまったのである。竹中直人が演じた小村寿太郎(日露戦争最大の功績者)などまるで道化扱いであった。司馬は生前この作品の映像化を許さなかった。理由は「戦争賛美と誤解される」「作品のスケールを描き切れない」ことにあるが、文章と映像の差は後者に関し著者の予想通りだった。


今回は私の好んで読むジャンル、軍事・戦争・諜報の原作(小説・ノンフィクション)と映像(映画・TV)の軽い対比論なのだが「坂の上の雲」に関しては、もう一つ比較対象がある。ノンフィクション対小説がそれだ。「坂の上の雲」を読む前に、英文学者・東大教授島田謹二の「アメリカにおける秋山真之(上、下)」(ノンフィクション、1970年日本エッセイストクラブ賞受賞)を読んでおり、そこで知った真之像が司馬の描くものとはかなり異なる印象だったのだ。真之は中将まで昇進するが後年は軍人より思索家の性格が強くなり、一部には「精神に異常をきたした」とまで言われるようになる。島田の著書を読んでいると生真面目でやや暗いところが窺えるが、司馬の作品にはその暗さは感じられない。作品のスケールはともかく、真之に関してはノンフィクション→小説→映像と二段変格して、映像の違和感が増幅したに違いない。

米国軍事サスペンス作家巨匠トム・クランシーのデヴュー作「レッドオクトーバーを追え」は完成までに9年を要した力作である。1984年原著発刊、翌年邦訳が出る前にペーバックで読んだ。正確に解釈できるわけではないが、冷戦下におけるソ連最新鋭原潜“レッドオクトーバー”の亡命と言うホットなテーマの緊迫感は伝わり、以降すっかりファンになってしまった。この作品の映画化は1990年、艦長はショーン・コネリーが演じる。米国行き阻止を図るソ連原潜を中心とする追撃部隊、それを妨害し亡命を助ける米原潜、戦いはすべて海中で行われるので相手の姿は見えない。この丁々発止の行動は相手の動きや人物に対する推理・推論、そして危険を冒して発せられる音響だけ。映画の舞台は専ら艦内、政治将校の暗殺、亡命を希望しない乗組員との葛藤、機械の故障、それなりに見せ場はあるが、人間の内面に入り込むには限界があり、映像に作品の深みを感じ取ることは出来なかった。また、この小説がベストセラーになると「作者はトム・クランシー一人ではなく海軍内部にゴーストライターが居るはずだ」との噂が流れた(実際に居た)。それほど技術の細部がリアルだったのである。しかし、映画でこの面を表現するのは無理だ。

ショーン・コネリーが出てきたついでに言えば、007シリーズは映像の方が断然原作より楽しめた。このシリーズは1960年代ほとんど読んでいるが、回が進むにつれて荒唐無稽・エキゾチズムが鼻についた。シリーズ物の典型で、作者にアイディアの種が尽きているのを感じ哀れにさえ思った。しかし、映画では適度に現実とのバランスが図られ、人間や社会への気配りは全く配慮せず、エンターテインメンに徹しきったところが良かったのだ。

トム・クランシーとフレミングの間に位置するのが、フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」(ド・ゴール狙撃未遂)、「オデッサ・ファイル」(ナチス絶滅収容所関係者追跡)、いずれの作品も取材活動に相当のエネルギーを注ぎ込んで、実話もどきに仕上がっているが、映画では謀略・犯罪場面の構成が比較的簡略化されており、分かり易いものの、文章で読んだ時の持続する不安感が再来することはなかった。


作品をノンフィクションに転じてみる。最初の俎上に上げるのは、1966年に邦訳が出た(原著は1965年刊)「パリは燃えているか(上、下)」。D.ラピエール(仏;パリ・マッチ記者)・L.コリンズ(米;ニューズウィーク記者)による、19446月ノルマンディー上陸から8月パリ解放にいたるルポルタージュである。正面からの反攻は米軍、後方はフランスのレジスタンス活動、特にレジスタンスは種々のグループが複雑な関係にあり、各グループの役割や特質を描くところが本書の主題の一つになっている。中でも最有力グループのマキ(森に逃れるの意)や共産党系のそれである。しかし、徒手空拳に近かい自由フランス軍を率いていたド・ゴールは、何としても自軍を前面に立てたい。連合軍総司令官アイゼンハワーはそれを許し、自由フランス軍のルクレルク将軍を先頭に入城を果たし、形の上でフランス人に花を持たせる。著書ではこの裏を詳細に書いているから、隠微で壮絶なド・ゴールを中心とする主導権争いが読後感として強く残る。しかし、1966年映画化されると、パリ解放は自由フランス軍とド・ゴール派レジスタンスが単独で勝ち取ったようなものに仕上がっていた。パリを中心に撮影されたこの映画の製作に大統領だったド・ゴールが強烈に介入した結果である。監督はフランスの巨匠ルネ・クレマン、ド・ゴール派レジスタンスの頭目はアラン・ドロン、パットン将軍はカーク・ダグラスなど米仏の名優総出演だが、脚本を担当したフランシス・コッポラは「露骨な政治的検閲があった」と後日語っている。映画製作者としては不本意な作品であり、「原作をコケにした」と難じるのは酷だろう。


これと対照的なのはコーネリアス・ライアンの「史上最大の作戦(The Longest Day)」(原著は1959年刊;1962年筑摩書房邦訳刊;私が読んだのは1995年早川書房刊の文庫本)。この映画は1963年に大阪で観て以来、映画館・TV56回見直している。スケールの大きさ、各国オールスター動員、臨場感どれをとっても戦争映画の極め付けだ。私にとっては映画鑑賞が先で著書講読が後になる珍しい例。従って、先述した作品群とは見方が逆なので、同等の視点でないことは自覚している。それでも、作者が映画化に際し脚本家の一人として名を連ねていることから、書物から受けた印象と映像の違いが極めて少ない。これは、おそらく著作が作戦の場面々々を、エピソードを中心に切り取り、ニュース映画を継いだように編集し、人間関係に深入りしていなことから来ているのだろう。

最後に、ジョン・ル・カレの名作「寒い国から帰ってきたスパイ」。この邦訳は出版間もない頃(1964年)に読んでいる。東側工作員脱出に失敗し一線を外された英国諜報部スパイが、自暴自棄の生活を送る中で二重スパイとなり挽回を図る物語。多数のスパイや管理機構が絡む複雑な話は注意深く理解していかないと頭が混乱してくる。その緊張感とヒロインが射殺されて終わる暗さが印象的だった。活劇中心の従来のスパイ物とはまるで異なる作風が高い評価を得たと言える。この映画化は1965年、日本上映は1966年だが、地方勤務だったこともあり見逃していた。劇場で見たのは10年ほど前、主役スパイはリチャード・バートン、ヒロインの英共産党員はクレア・ブルームが演じている。モノクロ画面であの緊張感と暗さが見事に蘇った。

文章と映像の違いは決定的、それぞれの特徴を生かした作品を同じ次元で比較することは適当でない。むしろ作者・製作者の意図と受け手(読者、観客)の思いが一致すれば“良し”とすべきなのだろう。しかし、私はどうしても文章重視から抜けられない。

 

(写真はクリックすると拡大します) 

0 件のコメント: