2021年7月20日火曜日

活字中毒者の妄言-20


受賞者のひと言

2021年度上期芥川賞が台湾籍李琴峰(り・ことみ、LiQingfeng)著「彼岸花の咲く島」に決まった。翌朝の新聞紹介欄に「第二外国語として日本語を学んだが、そこで漢字・ひらがな・カタカナで構成された独特の言語表現法に興味を持った」とのひと言があった。15歳から日本語を学び始め、国立台湾大学(学士)、早大(修士)と進み、中国語で書いた作品を自ら日本語訳し出版、“日中両言語作家”を自称する人の言葉だけに、私自身の日ごろの日本語観にピッタリ、「わが意を得たり!」とこの人が一気に身近になった(でも芥川賞作品を読む気はないが)。元は漢字に発するとは言え、ひらがな・カタカナを考案、これによってどれだけ日本独自の文化を発展させ、維新後の近代化に寄与したか計り知れないと常々思っていたからである。

私の文字についての記憶はカタカナから始まる。戦前の文字学習の流れはカタカナ→ひらがな→漢字、だったからである。小学校(国民学校)入学前にカタカナ・ひらがなはマスターしていたし、自分の姓名、簡単でよく見かける漢字(大・中・小、人・魚・犬・虫、山・川・木、漢数字など)は読み書きできるようになっていた。この後小学校34年生のころ教育漢字と当用漢字が公布され、小学校で教育漢字約八百字、義務教育完了までに教育漢字を含め約二千字の当用漢字をおぼえなければならないと聞かされた。漢字の習得は小中学校「国語」の中心課題、書き順を含めると正確さを欠くのだが、いまでは当用漢字をはるかに上回る字数を扱えるようになっている(と思っている)。ここまで来るには高校の「古文」「漢文」の授業も与かっているが、義務教育以降は書物や新聞を通じて、“なんとなく覚え”、格別“苦労した”感はなく、漢字仮名交じり文はごく自然な存在になっていく。ただし、社会人になり議事録・稟議書・報告書を作成する際には国語辞典が欠かせなかったが。


欧米人と交流するようになり、日本人の文字言語コミュニケーションに話がおよぶと、しばしば日本語について考えさせられる場面に遭遇する。欧米人の多くは日本人が漢字(KANJIと言う中国文字)を使うことは知っている。だから質問に多いのは漢字とその学習法に関すること。漢字とはいかなるものか?漢字の数は?どのように覚えるのか?字引はどんなものか?アルファベットと言う表音文字文化の歴史を持つ人に表意文字を語るのはなかなか興味深い。人・大・山・川・木・魚など自分の知る範囲で文字の起源を説明すると「なるほど」となる。ただし、抽象的な言葉はこちらも字源を知らないことが多いから極力避け、機先を制する。“Love”は“恋”、この旧字は“戀”;上は糸が二つと間に言、下は心;もつれた糸をほどき心を通わせること、と漢字研究者白川静の説を開陳して逃げる。「漢字の数はいくつあるのか?」これもよく出る質問だ。「私もよく知らないが数十万語あるらしい」と答えると目をむく。「ただし、教育漢字は約八百、当用漢字は約二千。これで大抵の用は足りるが、ビジネスの世界では五千字くらいは知っている必要があるだろう」と補足すると「そんなに憶えなければならないのか?!」と尊敬のまなこで見つめられる。そこで「ではあなたはどのくらいの英単語を知っている?五千は超すだろう」「どうやってそれをおぼえた?こちらは英語のスペルで難儀したよ。いまでもlraucsth-s-er-orなどしょっちゅう間違えているよ」と返すと「確かに」となり、幼い日々の共通文字学習体験に話題が収斂していく。

特別日本と深い関わりのあった人を除けば、日本語文字コミュニケーションに対する関心は漢字に留まることが多く、中国語との違いに転じる機会は少ない。その少ない者との日本語談義は、一歩踏み込んだ異文化理解につながり、こちらもそれなりの備えが要る。例えば、遥かに長く欧州文明とつながっていた中国が何故近代化において日本に遅れをとったのか。マクロな視点では国内統治、外交・軍事や経済(貿易)がクローズアップされがちだが、文字の果たした役割は無視できない。特に二つの仮名の存在である。ひらがなは万葉仮名(漢字の当て字)を草書体にすることから5世紀に、カタカナは仏典を読む際の訓点・記号として9世紀頃に発したと言われているが、いずれも漢字の変形あるいは一部活用と言う点で起源は我が国独自なものではない。しかし、これらの考案により当時の先進中華文明を我が国独自の方法で昇華・普及させた意義は大きい。この効用が最大限に発揮されるのは明治維新、和魂洋才が速やかに進んだのは仮名が在ってのこととさえ言える。中国も漢字を表音的に用いるものの、同音文字が多く外来語の導入時、意訳・音訳に混乱があったようである(近いところでは“電脳”のように名訳もあるが)。こんな説明をすると、相手の態度は確実に変わってくる。

ところで欧米人に漢字仮名交じり文を書くことに関し面白い経験をしたことがある。こちらの手違いでプリンストン大学教授を訪問した。間違いは“Process Control”にある。てっきり“(高度;Supervisory)プロセス制御”と思っていたが“(統計;Statistical)品質工程管理”の専門家だった。それでも不愉快な扱いをされず、日本発のTQC活動や自社の品質管理を話題にしばし付き合ってくれ、何かのきっかけで話がワードプロセッサーにおよんだ。使用文字には漢字・ひらがな・カタカナの3種があり、日本文はこれを混用すると前提を語り、持参のPCでローマ字入力→ひらがな→3種の文字から構成される短い文の第一候補表示→適否判定→次候補→最終決定、とデモしたところ、ローマ字を含め4種の文字を駆使した結果になり、驚愕・感激の表情で「昼食を一緒に摂り、午後もっと詳しく聞かせてくれないか?」と求められた。残念なことに午後は別の予定があり継続談義はなかったものの、思わぬカルチャーショックを双方受けた次第である。李琴峰の日本語に関するひと言を知ったとき、先ず思い出したのはこのことである。そして同時に生じたのは「このICT時代、漢字ばかりの中国語圏はそれにどう対処しているのであろうか?」と言う疑問である。これに応えてくれそうなのが最近の新聞書評で知ったトーマス・S・マラニー(スタンフォード大学教授)著「チャイニーズ・タイプライター」、既に入手しているので<今月の本棚-8月>で紹介する予定である。

 

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