2025年7月5日土曜日

満洲回想旅行(1)


1.最後の記憶

錦州の収容所を発ち、葫蘆島から渤海・黄海を経て博多までの航海は45日かかったように記憶する。船倉で寝ているところを父に起こされ甲板に上がり見た日本は、当に“白砂青松”の美しい国だった。季節は9月下旬、まだ日差しが強かった。1946年のことである。


逆算してみると我が家の在った長春(新京)を出たのは7月中旬と推察する。船便の制約で、一気に乗船地まで移動できず、瀋陽(奉天)で1ヶ月余、錦州で1週間ほど留め置かれたのちの乗船であった。

引揚げ途上で思い返せるのは、仮設収容所(廃工場、捨て置かれた兵営)での過酷な日々、それと無蓋貨物から見た線路沿いの荒野や雑木林ばかり。錦州・葫蘆島付近は小高い丘陵地帯で、多少景観が変わったものの樹木はなく、殺風景なことに変わりはなかった。葫蘆島の港は大連に対抗すべく奉天軍閥の張学良が建設を進めていた所だが、大きな埠頭は一つ、片側に我々の乗船する米国戦時標準のリバティ型貨物船、反対側に軍艦(と言っても海防艦かなにか)が停泊、これにも引揚げ者が乗り込んでいた。最後の記憶に残る満洲は“白砂青松”とは対極の世界だった。

この満洲最終地と比べると、生まれ育った新京は美しい街だった。整然と区画整理された町並み、コンクリートやレンガ造りの建物、舗装された広い道路、随所に設けられた大規模な広場や公園、縦横に走る路面電車、ポプラ並木、埋設され見えない電線、社宅も学校も水洗トイレでスティーム暖房。


難民となって記憶する満洲、幼少年時代に巻き戻した満洲、両者のギャップは大きい。中国が豊かになり、一般観光客を受け入れるようになってから、「いつかもう一度満洲へ」の思いが募ってきたものの、家人同行の海外観光旅行となると優先度は低く、2018年のドイツ旅行で「これで海外は終わりにしよう」となってしまった。2019年秋の病発症、折からのコロナ禍、好きな旅への思いも沈静化していったが、昨年6月思い立って五島列島ツアーに一人で参加、旅行熱が再発した。年初に送られてきた海外旅行案内パンフレットに「満洲旅行」が記載されていたことから、焼けぼっくいに火がつき、「何としても今年実現しよう」となった。

海外旅行の動機は、景勝地・名所旧跡訪問、歴史回顧、芸術鑑賞、ショッピング・グルメ、休養、レジャー・スポーツ、乗り物体験、未知の国や地方探訪など様々だが、私の場合最大の眼目は長春を訪れ、新京時代がどれだけ残りあるいは変じているかを確認することにある。特に自宅の在った一帯の現状を知りたい。しかし多くのプログラムに長春は含まれているものの、瀋陽-ハルビン移動の間にバスで一巡りする程度、これではこちらの希望に叶わない。やっと見つけたのが今回参加のコース、長春1泊がありそれが決め手となった。3月下旬予約状況を調べてみると、5月に2回、6月に1回開催されるのだが、5月分は2回とも満席で締め切り、6月に空きがあるものの、横浜の営業所に出かけたところ、これも既に募集人数に達し、キャンセル待ちとなってしまった。幸い数日後キャンセルが出て参加できることになった。このチャンスを失すると次は9月、台風や彼の地の冷え込みも予想され、出かけることは無かったかもしれない。それにしてもどんな人がこんな変わった旅に関心をもつのだろう?

写真;満洲全図、新京都市計画図(クリックすると拡大します)

 

(次回;旅程概要)

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