2025年7月19日土曜日

満洲回想旅行(5)


5.旅順観光-1


622日(日)晴。子供の数え歌「一列談判破裂して、日露戦争始まって、・・・」は物心ついたときから口にしていたので、日露が戦い、日本が勝利したことは知っていたが、歌詞以上のことに考えはおよんでいない。当然旅順がその激戦地であったことなど知るよしもない。それどころか、小学生高学年までその名さえ見たり聞いたりした覚えがない。あるとき父の知人が来宅、彼が帰ったあとで、エンジニア志望だった私に、「あの人は旅順工大出身だ」と語ったとき、旅順の名を知った。その後戦記・戦史に興味を持つようになり、日露戦争における陸・海の激戦地であったことで、俄然旅順への関心が高まっていった。今日一日その戦跡巡りである。


旅順は大連西方約50kmの所にある。一時期合体して旅大市と称していたが現在は大連市旅順口区となっている。9時にホテルを出発したバスは自動車専用道路を西進、やがて長大な星海湾海上大橋(6.8km)に至る。この橋の右手(北)はかつて星が浦海岸と呼ばれていた海浜リゾート、今は高層のマンションが林立しているのが遠望できる。ガイドの説明では富裕層が住民とのこと。橋を渡りきると地形が大連市内とは違い起伏に富み、むき出しの地層は岩であることがはっきり分かる。道路の左側(南)には大連-旅順を結ぶモダンな高架鉄道が並走する。約1時間後東鶏冠山北堡塁跡の駐車場に到着。


東鶏冠山は二百三高地と並ぶ旅順攻略における要衝。否、二百三高地が港湾砲撃のための観測点に過ぎなかったのに対し、旅順市街地を守る要塞として、ロシアにとっては最重要防衛線、それだけに強固な堡塁(トーチカ)が築かれており、二百三高地よりはるかに多数の日本軍戦死者を出している(二百三高地;約6千人、東鶏冠山;約8千人。因みに露軍の戦死者は前者で2千人程度、後者で約1千人)。


日露戦争に関する戦記物を読んでいると“ベトン(あるいはペトン)”という言葉が出てくる。前後の関係から(鉄筋の入らない)コンクリートらしいと想像でき、銃眼をもつコンクリート造りの塹壕を頭に描いていたが、「百聞は一見にしかず」、現代の銃砲撃戦にも堪えられそうな、強固な構造物であることを学ぶことになった。今でこそ叢林に覆われているが当時ははげ山、下から攻める日本軍は丸見え、それを堡塁から機関銃で掃射する。19048月の攻撃は完敗。4ヶ月かけトンネルを掘り堡塁下に大量の爆薬を仕掛け、これを爆破して突破、白兵戦に持ち込み、12月守備隊司令官コンドラチェンコ少将戦死、やっと陥すことができた。戦後彼の猛勇を讃え、日本軍は記念碑を建立、今もそれが残る。トーチかと言うより複雑な坑道要塞、その見学で面白い景観が出現する。半ば破壊された坑道と外の光が成す、女性の横顔を彷彿とさせる影絵がそれである。


この堡塁跡巡りの前に駐車場に隣接する「旅順口記憶」と称する小博物館があるが、ここでは旅順港発展史が主体で、日露戦争のことはごく簡単にしか触れない。それも日本人が中国人を使役に使ったり、スパイ容疑で罰したりしているシーン、抗日プロパガンダの性格が強い。


次に訪れたのは二百三高地。東鶏冠山が旅順口(中心部)の北東に位置するのに対し二百三高地は北西に在る203mの小高い丘である。はげ山であったこの頂上を抑えれば、旅順港の中は丸見え、長距離砲の観測点としては絶好の場所である。北側の山麓から攻める日本軍を山頂に構えたロシア軍が迎え撃つ。攻めあぐねる乃木軍は国内から運んだ海岸砲の助けでなんとか攻め陥すのに東鶏冠山同様初戦から4ヶ月を要している。


ただ、今回訪れてみて分かったことは、山頂の堡塁が極めて小規模、砲座は何カ所か在るものの、坑道陣地は皆無、ちょっと拍子抜けするほどだ。ただ、苦戦を象徴するように、山頂には砲弾型の記念碑が建てられ、乃木の次男保典戦死の地を示す、案内板が設けられていた。

実は今回の旅で一番苦しんだのがここ。一帯は一種の遊園地(有料)になっており、入口から途中まではカートで運んでもらえる。しかし、そこから山頂までは徒歩(カートが登れぬ急勾配)、これが86歳にはきつかった。敵の銃撃に身をさらしながら、銃剣・背嚢でここを攻め上がった兵士のことを思えば泣き言を言うべきではないが・・・。


東鶏冠山同様ここも今は植林による木が茂っており、肝心の港湾を見渡すことは出来なかった。

 

写真上から;星が浦海岸遠景、旅順地図、東鶏冠山堡塁外部、コンドラチェンコ少将顕彰碑、堡塁内部、女性の横顔、二百三高地記念碑、乃木保典戦死の地(クリックすると拡大します)

 

(次回;旅順観光つづく)

0 件のコメント: