2017年8月20日日曜日

信長回想ドライブ1200km-13


13.ロテル・デュ・ラク
この旅の構想段階で、初日は温泉旅館(和食)、二泊目は金沢中心部のビジネスあるはシティホテル(食事は外食)、そして最後の晩は琵琶湖湖畔のリゾートホテル(できればオーベルジュで洋食)と決めた。琵琶湖周辺にはそれなりに景勝地や歴史的を残す町もあるので、良いホテルがあるのではないか当たっていったのだが、なかなか「これは!」というところが見つからない。大規模なものが多く、やっていけるとしたら「インバウンド団体様御用達」と感じさせる。これだけはご免である(日本人の団体も)。オーベルジュ、スモールホテルなどと琵琶湖(西岸)をキーワードとして組み合わせて探して見つかったのがここである。
場所は湖北端、最寄り駅は北陸本線の近江塩津か湖西線の永原、いずれもローカル駅で、近くに大きな町は全くない。どうやら関西の別荘地の一つらしく、ホテルへは最寄り駅から送迎バスを利用するしかない。自分のクルマならばどうと言うこともないが、公共の交通機関では極めた不便だ。しかし、サービスの内容はかなりユニーク、ソムリエとして有名な田崎真也がプロデュースする本格的なフランス料理をワインとの組み合わせで楽しむようになっている。私は家ではほとんどワインは嗜まないので、供される美味しい料理に合ったワインを少しずつ味わいながらそのマリアージュ(組み合わせ)を講釈してもらえるチャンスは滅多にない。これで3泊目の宿泊先が決まった。
湖畔の道は数週間前の豪雨で周回できないがホテルまでは通じていた。広い前庭の先に建物は見えているが、道路に面したゲートは閉まっている。インターフォンで到着を告げると、遠隔操作のゲートが開いて、玄関の車寄せに達する(ここが2階)。横の駐車場に止まっているクルマは数台。若い男性従業員が迎えに出てくれる。フロントは小さく、階下(1階)にサロンを兼ねたロビーがある。ここでチェックインの手続き。このロビーを含む本館は湖に向かって傾斜しており、目の前に竹生島が見える。我々の部屋は建物中央部の2階、“ラグジャリーシアター”と名付けられた最も廉価なクラスだが40㎡あり、ダブルサイズのベッドが二つ。“シアター”の由来はTVをプロジェクターで壁面に投射する方式に依る。バスルームも広く、バスタブとシャワーが別になっている。冷蔵庫には各種飲み物やつまみが用意してあり、すべて無料である(つまり宿泊料金に含まれている)。ひと風呂浴びて缶ビールを一缶開けて7時のディナーまで一休み。
メインダイニングはロビー奥(南)の一階にあり、テーブルが8卓ほど余裕を持って置かれている。先客は一組、後でわかるが中国系のカップルだけだ。静かである。
自家製のパンと供されるフルコースは;
前菜2種;スモークしたマス(ピノノワール;ブルゴーニュ)
スッポンと豚足(シャルドネ;ブルゴーニュ)
魚料理;真鯛ロースト(ピノノワール;ブルゴーニュ、料理によって赤であることもあるのだ)
肉料理;牛フィレロースト(ピノノワール;ブルゴーニュ)
デザート;チェリーとバニラアイス(シャルドネ;ブルゴーニュ)
 
ワインの産地はすべてブルゴーニュ、品種はピノノワール(赤)とシャルドネ(白)だがブランドはすべて異なる(当然味も)。そして、ワインの料金は宿泊プラン(35千円/人)には含まれず追加料金(それぞれ60mℓ;計7千円)となる。しかし、レストランの雰囲気、給仕する人たちのサービス、料理やワインの説明、そして料理(朝食がまた素晴らしい)そのものを全体で評価すれば、決して高いと思わせない内容であった。ここを選んだことは大成功、年に一二度はこんな贅沢をしてみたい。
ところでラクは仏語Lac、英語のLake(湖)に相当。従ってホテル名は湖畔ホテルと言うことになる。


(次回;近江八幡へ向けて)

2017年8月17日木曜日

信長回想ドライブ1200km-12


12.信長ゆかりの地を巡る
今回ドライブ記のタイトルは“信長回想”である。初日は甲州を通り、武田と信長の接点(ある意味転換点)を思い起こして奥飛騨に至った。ここは美濃から近いので戦う前に信長に従うことになった地域。次は越中を目指した。謙信・信玄の時代から領地争いが絶えない地であったが、柴田勝家率いる織田軍が富山城を攻め落とす。これでここも織田の与党になる。加賀・能登は謙信が自家の内に取り込んでいたから、功を上げた後家臣前田利家の領地となる。厄介だったのが越前である。信長は政略結婚で妹の市を、近江を地盤とする浅井長政に嫁がせ、越前朝倉を狙う。しかし近江と接する越前の朝倉とは不戦同盟を結んでおり、最後の決断は義兄信長よりも家と家のつながりの長く深い朝倉義景と組むことを選ぶ。信長は怒り義弟を攻める。
長政は朝倉に助けを求め、姉川(現長浜)の戦い、金ヶ崎の戦い、一乗谷の戦いと転戦するが、小谷城の戦いを最後に、織田・徳川、秀吉軍に敗れて自害する。夫の死後信長の命で柴田勝家に嫁がされる。この一帯には、その後信長の跡目相続を巡る羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳(しずがたけ)の古戦場もある。お市の方は賤ヶ岳敗戦後自害)する。今日の午後は、それらを訪ねるドライブである。
北陸道敦賀ICで自動車専用道に乗り、2時半賤ヶ岳SAで一休み。古戦場は一度一般道に下りないと行けない。あとのこともあるのでこのSA立ち寄りで良しとする。収穫は七本槍の一人に脇坂安治が居ることを知ったことである。脇坂は関ヶ原の後も生き残り、播州龍野藩を得る。私の本籍であり、父の旧制中学校同級生に殿様の末裔(脇坂君)も居たと聞いている。
次に向かったのは長浜。中心地には何かあるだろうと長浜ICで下りたのだが、長浜城はコンクリート造りとあったのでパス。小谷城址も山の中に石垣の一部が残るだけとガイドブックに書かれている。駐車場からかなり上りになるらしいので、ここもパス。
ここだけは!と計画時から決めていた、実宰院(じっさいいん)に向かうことにする。長浜市中心部でナビがおかしくなり、かなり時間を費やしてしまう。もう日が西に傾きつつある。ホテルへのチェックイン通告時刻は5時。まあ、これはきっちり守る必要もないのだが、性格が時間にこだわる質だから、どうしても先を急ぎたくなる。ナビにお寺の名前を入力すると距離も時間もごく近くであると告げる。しかし、田舎の最短道路行程は予期せぬことの連続。田畑の中の未舗装道路ばかり走らされる。地上高の低いスポーツカーでは腹をこするような道ばかりだ。むろん行き交うことなど全くできない。ただ幸いなのはどの道も見晴かせるから、早めに回避策をとることが出来る。たまに来るクルマは軽トラックばかりでなんとかやり過ごせた。
そうしてたどり着いた実宰院。ガイドブックには駐車場有(バスも可)とあったから「どんな立派な寺なんだろう」と期待していた。ナビが「案内地付近です。ここで案内を終了します」と言って終わった。すぐそばに確かに廃屋のような寺があり、周辺どこにもクルマは止められるが、とても観光スポットには見えない。
実宰院はお市の方と浅井長政の間に生まれた三姉妹が父親の自害後逃げ込み、匿われ、ひと時を過ごした所なのだ。もともとは長政の姉が出家して住んでいた庵とのこと。三姉妹は;茶々(秀吉側室の淀殿)、初(常高院、京極高次正室、京極家を再興)、江(崇源院、徳川秀忠正室、家光(三代将軍)を生む。NHK大河ドラマの主人公にもなっている)。
ここを発って、一旦琵琶湖東岸を北に向かい、湖岸に沿って西行き、最後に西岸を南下して、ホテル到着は5時半少し前だった。周辺にはほとんど人家なし。関西の別荘地の一つらしい。緑と静かさが良い。
今日の走行距離;254km

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(次回;ロテル・デュ・ラク)

2017年8月14日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-27

13.海外提携会社動向-2
Pat Kennedyが創業したOSIsoft(前回OSIsoftwareと書いたが、正確にはOSIsoftでした。お詫びして訂正いたします)の名前(当時はOil System Inc.)を知ったのは1992年のことだった。Hydrocarbon Processingと言う石油業界の技術雑誌を読んでいる時たまたま興味深い投稿に行き当たった。内容はPI(元々はProcess Informationの略;パイと称して
いた)なるプラント運転のリアルタイムデータ(温度、圧力、流量など)を収集・蓄積するソフトウェアパッケージの紹介記事だった。コンピュータは画期的な計算・情報収集システムだったが唯一の欠点は情報を連続して収集・蓄積できないことである。限りなく連続しているように見えても原理的に間欠的になってしまう(現在では実用上超スピードで収集・蓄積できるのでアナログと変わりないが)。1990年代前半までは、頻度高く取り込んでも記憶蓄積する能力に限界があり、重要な変化点(例えば温度の異常変化)を落としてしまう可能性が高かった。これを記憶容量制約下で、独特の圧縮技術を使って扱うところにPIの特徴があったのだ。会社と著者名からOSIとコンタクトできたのは1993年春、苦労してやっとPatとファックスのやり取りができ、7月半ば学会で会ったのち、オークランド郊外の彼のオフィス兼作業場を訪れ、PIの日本語化を提案、賛同を得てその(日本語システム)総代理店になることが出来た。
最初の顧客は当時国内最大の石油精製企業日本石油(現JXTG)だった。理由はDECとハネウェルとの組み合わせでPIの実績(米国)があったことによる。これがきっかけでPIは石油精製、石油化学、総合化学、食品と我が国の代表的なプロセス産業をユーザーとして抱えることになった。
ハネウェルをライバル視してきた横河がこれに着目するのは当然であった。SPINOSIと提携して間もなく(まだ横河傘下になる遥か以前)、Patが「横河が資本参加したいと言ってきたが断ったよ」と耳打ちしてくれた。担当者はPatの考え方(決して経営権を渡さない)を全く理解していなかったのである。これには横河サイドにも理由があった。前回紹介したAspenとの提携は販売協力のみ、製品・サービスを握るAspenにいいようにあしらわれていた。「今度は資本(カネ)で何がしかの権利を得たい」の思いである。財務状態が良いOSIにその必要は皆無だった。
SPINの営業権を握る少し前、横河はPIと似た製品を開発していた英国の会社を買収する。買収調印には社長の美川さん(故人)が乗り込み、元全日本代表ラガーとしての英国知人たちの歓迎を受けたと聞く。しかし、ここの製品開発は遅々として進まず、横河は手を焼いていた。そんな環境下でのSPIN取り込みは朗報だった。そして、OSIの初期の顧客だったハネウェルが自社製品を開発・発売するにおよんで、OSIにとっても横河は魅力的なパートナーに写っていた。Patが横河傘下になることに無条件で賛成してくれた背景はそんな事情にあった。
しかし、横河の本流は自社製品にこだわる。英国子会社のPIから見れば幼稚なパッケージ製品をExaquantumなる名称で発売を始める。これで同じ会社の中に類似製品が二つあることになった。開発メンバーはもとより、自社製品しか売れない営業マンは当然Exaしか分からない。初めは歓迎されたPIに対して、冷たいことおびただしい。それでもPatは何とか横河に協力しようと努力するのだが、美川さん亡き後横河の代表役員は誰も来日したPatに会おうとしない。子会社化されたSPINはそれでも困らなかった。我が国ユーザーにはPIの優れた点を評価し「横河抜きで良いよ」と直接我々と取引してくれた。これは私がSPIN社長を退く2003年まで続いた。
その後2008年くらいまで横河・SPINPIを国内では独占的に扱っていたが、OSIsoftはついに100%日本法人を発足させ、いまでは大部分のメンバーはここに移っている。PIは代表的な計測制御システムベンダー(ハネウェル、エマーソン、ABBそして横河)自社製品ともつながる中立的なシステムとして、世界に広く普及している。Exaquantumが採用されるのは、横河のDCSであるCENTUM(分散型コンピュータ制御システム)が導入された時に限られる。逆にCENTUMを入れてもPIを好む顧客が多い。
昨年秋三井物産がOSIsoftに出資したことが日経のニュースになった。これに関しPatが年初メールをくれた。「彼らの持ち分はほんの少し、支配する下心は皆無だ。三井の営業力は世界に広がっており、彼らはPIを使ってビジネスを拡大できると期待している。その例の一つは今まで食い込めなかった日本の電力会社向けシステムへの可能性である」とあった。三井物産はトップが彼を丁重に迎え、箱根のゲストハウスに泊め、東京電力のトップに会わせている。業態の違いもあるが、横河とのビジネスセンスの違いは明らかである。


(次回; 海外提携会社動向;つづく)

2017年8月11日金曜日

信長回想ドライブ1200km-11


11.越前海岸を行く
期待外れの東尋坊を出発したのは11時過ぎ、オリジナル計画では金沢の朝立ちも早く、出来れば東尋坊観光の後北前船寄港地として有名な三国港に寄ることもオプションとして組み込んでいたのだが、今日の後の予定、特に長浜周辺の観光が気になりパスすることにした。
越前海岸走破は年来の希望だった。これほど海に近い道路を長く走る機会はそうあるものではない。あったとしても最近は防波堤が高かったり、やたら洞門状のトンネル(海側に明り取りがある)が連続し、景観を楽しむのに難があるところが多い。しかし、越前海岸に沿う国道305号線は山も高さや勾配が適度はこともあって、三国の少し南から眺望に良い海抜のところを、トンネル部も少なく、海を眺めながら敦賀まで60km近く走れるのだ。このシーズンあまり食や花々を楽しむ(水仙畑もカニもオフシーズン)ことは期待できないが、寒くもなく暑くもなく、ドライブと言う点では最高の時期とルートの一つと言っていいだろう。読みは違わなかった。東尋坊を出て三国港からつながる坂井市の工業地帯(福井備蓄基地はここに在る)を抜けると、あとは海を右手(西)に見ながら、適度なアップダウンとハンドルさばきを楽しめる。その大きな理由は、急ぐクルマは北陸道、用事のある車は国道8号線を利用するので、全体の交通量が少ないうえに、トラックがほとんど走っていいないからだ。しかも有名は観光スポットが全くないことがそれに輪をかける。現れるのは小漁村がちらほら、スピード要注意ここだけで、あとはマイペースで走れる。それだけにガソリンスタンドやレストランもほとんどないので、それなりの準備が必要だ。
ガソリンはともかく(充分明日まで問題ない)、昼食はボツボツ考えなくていけない。できれば景色が良いところに、駐車しやすい小奇麗なレストランが在ると良いのだが、と思っていたところにそれらしきものが現れた。左側に数台の車が止まっている広い駐車場、その奥の山懐に低層のコンクリート造りの東屋のような建物が見える。右の海側前方には大きな岩のアーチが張り出し、手前に小公園のようなものがある。時刻は丁度12時。取りあえず昼食と散策でも、と駐車場に入る。マツダロードスターの傍らでバイクツーリングの青年と話していたおじさんがこちらに手を振る。皆走りが好きでこの道を選んだに違いない。
駐車場の外れから今通ってきた国道305号線に沿う形で鉄の階段がある。「ここから見所に行くのだろう」と勝手に決めて上るとただの横断歩道橋だった。交通量を考えれば不要とも思えるが、渡った先の公園の案内板や駐車場の広さから、ここが越前海岸を代表する観光名所と知って合点がいった。越前岬“呼鳥門(こちょうもん)”があの岩のアーチなのである。シーズンには人もクルマも多いのだ。
案内板によると旧国道が呼鳥門下をくぐり抜けていたが、崩壊落石を恐れて、2002年山側にトンネルを穿ちバイパスしたとのこと。呼鳥門観光の後は歩道橋を渡らず、道路を横断したのは言うまでもない。
コンクリートの東屋と見たのは立派なレストランと土産物屋を合わせた建物。土産物屋では鮮魚も扱っており、そこで料理して食せるようにもなっている。他に別棟の貸し切り?レストランもあり、団体が来ても対応できる、かなり大掛かり施設だった。造りも鄙には稀な立派なもので、利用はしなかったがトイレ(大)はまるで坪庭の中に在るようだった。美味しそうな海鮮料理がメニューに並び、何組かの客はそこから選んでいるが、今夜はフランス料理のフルコースだから、カニピラフで軽く済ませることにした。この一連の施設は第3セクターの経営かと思ったが、“有情”と言う純然たる民間経営であることを帰宅後調べて知った。
精算の際レジの男性に「越前岬はどこですか?」と問うと「ここが“越前岬”と特定した場所はありません。ここら一帯がそうです。ただ灯台がありますから、そこに立ち寄ったらいいでしょう」と場所を教えてくれた。1時前有情を出発、灯台への道路標識には“水仙ランド”とあった。急な山道を登り切るとそれが在ったが、シーズンでないから灯台以外は何も見るものはなし。直ぐに国道に戻り、さらに越前海岸を南に下り敦賀の少し手前で海岸に別れを告げた。この道は期待通りだった。

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(次回;信長ゆかりの地を巡る)

2017年8月9日水曜日

ソ連が満州に侵攻した日


今日は長崎に原爆が投下された日として毎年ニュースに取り上げられる。しかし、私にとっては「ソ連が満州に侵攻した日」として、強烈に記憶に残る一日である。
昭和204月、私は新京特別市立桜木国民学校(小学校)に入学、一学期を終わり夏休みに入っていた。少し寝坊していたらしく父に起こされ、「朝食が済んだら社宅を(クルマで)廻るから一緒に来るか?」と聞かれた。自動車好きの私のことを思ってのことである。ただ何故そんなことをするのか分からなく、ポカーンとしていると「露助(ロすけ)が攻めてきたんだ」とつぶやいた。
満州国の首都新京(現長春)に住む幼い少年にとって戦争は全く想像の世界であった。無論日本の軍人はいたるところで見かけたし、同級生の中に父親が軍人の者もいた。しかし、戦闘行為など身近に感じたことがない。ロシア人の存在は街中で偶に目にする“白系ロシア人(この言葉は大人たちがよく口にしていた)”くらいだったから、戦争と関係するなどと思ったこともなかった。
市内各所に散在する社宅巡りの理由は、これからの会社・社員の対応策のためだったことは、あとで漠然とわかってくる。当時の父は鮎川義介総帥の日産コンツェルン傘下、満州自動車新京工場の総務課長のような役職だった。当にその職にあったわけである。
朝食を済ませてしばらくすると、ダットサン乗用車に乗った社員が自宅(コンクリート造りの二階建てアパートに居住)にやってきた。これに父と私が乗って動き出したが、間もなく少し離れた女学校に入る。何かと?と思ったが冷却水の補給だった。この学校の門から事務棟までは高い木々が茂り、木漏れ陽が眩しく注いでいたのはよく覚えている。後年芥川賞受賞作家三木卓(1935年生まれ、満州在)の「砲撃のあとで」を読んで、彼が同じようにこの木漏れ陽のことを描いているのを見てそれを確認した。当日は今日の横浜同様朝から日差しが強かった。
一旦帰宅し父はどこかへ出ていった。おそらく招集をかけた人々と善後策を検討していたのだろう。昼食が住むと昼間なのに風呂に入ると言う。そこで父が言ったことがまた幼心に、違和感を持って、刻み込まれた。「お父さんはこれから戦争に行く。お前は長男だから、確りお母さんや妹たち(3歳、1歳)の面倒を見てくれ」と言う趣旨だった。7歳の子供にも容易ならざることであることは伝わった。
3時頃社宅の壮年男子は病弱者や最小限の保安要員を残し、木銃・出刃包丁・ビール瓶などを持って、どこかへ去っていった。無論父もその中にいた。
夕刻少し前から、社宅(アパートは一棟ではなく、独身寮を含めL字型二棟をロの字型に組み合わせ、40世帯ほどあったと思う)が騒がしくなり、家でも母が何やら荷作りを始めている。急遽疎開が決まったのである。これも無論のちに知ることだが、ソ連軍は首都新京を目指すに違いない、また空襲もあるだろう。そんなことがこの行動を決したらしい。
自動車会社故2台のトラックの手配が直ぐに出来、夕方女子供が保安要員として残った数人の男に率いられ、南下を始める。やがて日が暮れ、明るいうちの天気が嘘のように雨さえ降ってくる。市内を離れれば荒野の中、夜道は平時でも物騒で、こんな時間に移動するものなどなかった。母は傍にいるものの、心細さに涙が出てきた。やっと小さな満人村落にやってきたとき、2台のトラックは止まり、男の引率者がどこかへ出かけ、満人の男性と一緒に戻り、彼も同乗してやや大きな建物の前まで来た。小さな小学校である。結局この晩はここで寝ることになった。同行した満人はこの小学校の校長先生である。あの状況下で信じがたい親切である。
何事も起こらず一夜を明かした我々は、そこからさらに南へ向かい公主嶺にたどり着いた。ここにも会社の工場が在り、我々は家族ごとに社宅に一時同居させてもらい終戦後数日経るまでとどまり(815日以降20日以前)、列車で新京の自宅に戻った。
戻りの列車は北に向かう。車内はそれほど混んでおらず、家族全員座れたが、結構日本の民間人が家族連れも含めて大勢乗っていた。これも後で知るのだが、多くは満鉄社員で、大連には向かわず、鮮満国境から朝鮮半島を抜けて日本へ向かう人たちだったようだ。
自宅に戻ると父がそこに居た。一週間ほど関東軍配下の民間人部隊に組み込まれ、公園で野営したのち解散したとのことだった。社宅内も荒らされたりしていなかった。ただ、アパートの道路に面した外部回廊にはコンクリートを斫って銃眼が穿たれていたり、満人たちが青天白日旗を掲げて行進したりする光景は、明らかに何かが大きく変わったと感じさせた。
ソ連兵を見るようになるのは9月に入ってから、社宅裏の満州国財務大臣の豪壮な邸宅が、ソ連軍高官の住まいとなってからである。女学生が髪を切って坊主頭になり、おばさんたちが時々顔を炭で汚すのを見るのはさらにその先のこと。8月の戦争記憶は9日~10日わたる公主嶺への逃避行に凝縮されている。無論広島も長崎も知らなかった。



2017年8月7日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第3部;社長としての9年)-26


13.海外提携会社動向
横河への営業権譲渡デューディリジェンス(企業評価)スタディにおいて、海外企業との提携は高い評価を得ていた。詰めの段階で「すべて東燃時代と同じ条件であること」と求められていた。総代理店契約を交わしていたのは、古い順に、Tom BakerChesapeake Decision Sciences (CDS;商品はMIMI)Pat KennedyOil System Inc.(のちのOSIsoftware;商品はPI)、Atlantaに本社を置くERPパッケージ;ルネサンスを提供するRoss 社、それに英国石油コンサルタントのKBC(一製品であるΣfine)、これも単なる付加価値提供者に過ぎなかったが、フランスの国営研究機関がスピンオフした数理ソフト会社ILOG社があった。いずれも私自身が深く関わったから(特にCDSOSIKBC)、横河譲渡に関する相手方との交渉はすべて自身でやった。その内CDSだけは横河との契約が固まる前に、先方がAspen Technology社(以後Aspenと略す)に買収されることになった(この経緯は本シリーズ-20参照)。従って話はAspenから始めたい。
Aspen社は1981MITの化学工学科とUSエネルギー庁の協力で出来た化学シミュレーションソフトの会社である。設立時のリーダーは同大学ラリー・エヴァンス教授。日本法人は1990年に出来、私の記憶では東大を出て日揮に就職、そこからMITに留学したSZKさんが初代代表だった。二人とも学究肌で、当時は世界でそして日本で尊敬される企業だった。しかし、米国で往々見かけるように、会社組織として株式公開するとMBA屋が乗り込んでM&Aやら何やらで急成長させようとする。CDS社もそんな状況下で買収された。一方横河はプロセス工業向け計測制御システムのリーダーの一つであったことから、プロセス制御市場開拓のためにこの会社と業務提携していた。しかし、このビジネスは同床異夢で上手くいっていなかった(と言うよりAspenペースで利用されていたのが実態)。SPIN買収交渉が既にアナウンスされている中で、私は横河の要請で、事業部担当のHRS取締役とシアトル郊外で開かれた“横河-Aspenミーティング”に臨んだ。日本からはSZK社長も参加していたが、これが私の知るAspenJapan社長としての最後だった。本社CEOであるMSNも出席したこの会議で彼はHRSさんに「SPINが提携しているOSIとの契約を解除しろ(違約金は払うから)」と迫ったがHRSさんはNo!と応えてくれた。そんないきさつもありこの会社には悪い先入観を持っていた(横河も契約打ち切りに傾いていた)。
その後もMSNをはじめとするAspenトップ(ほとんどMBA屋)はSPINに対して「MIMI事業担当者をこちらに譲れ」とか年末押し迫った頃に自宅に電話してきて「来年度のライセンス料を割り引くから、今すぐ今年の売り上げを前倒ししてくれ」だの無茶難題をぶつけてきた。一方でAspen株のインサイダー取引(これは公開されていた)をチェックしているとMSNが盛んに手持ち株を売っている(ほかのトップも同様)。買っているのは創業者と言っていいラリー・エヴァンス教授(既にMITは引退していたが)だけだった。「こんな会社はダメだ!」と思ったが、日本法人の技術者は優れた人が多かったから、何とか付き合っていったし、CDSオリジナルメンバーが残っている間は、彼らとだけは良い関係を保ち、MIMIのメンテナンス会社を立ち上げるときには協力を約し,新規顧客開拓では稀にみる面白い結果を挙げた。スーパーの食品売り場でそれを包む透明プラスチック容器の先進メーカであるFピコ社への最適生産システム(線形計画法を大々的に採用)の売り込みである。
その後横河はAspenとの契約を打ち切るが、AspenM&A戦略はとどまるところを知らず、ついに2004年独禁法で訴えられる。いまでもこの会社はNASDAQ市場に存在し株価も決して悪くないから、訴えをかわしたのであろう。現社長は私が一時籍を置いた東燃化学の後輩従業員である。


(次回; 海外提携会社動向;つづく)

2017年8月5日土曜日

信長回想ドライブ1200km-10


10.東尋坊
61日(木)金沢市内は明け方雨で、出発時も小降りだったが、天気予報では西の方から快方に向かっているとのことだった。今日は海岸沿いのドライブが長いので何としても晴れて欲しい。ナビにセットしたのは東尋坊タワー駐車場。出発時刻は840分。この地方最大の都市の中心部、ラッシュアワーで道は渋滞気味、本来北陸道金沢西ICへ出る予定だったが、右折個所を間違えたために、結局一つ先の白山ICで乗ることになる。
高校生時代だった思うが“東尋坊の鬼”と言う映画があった。何か凄みのある妙なタイトルで“東尋坊”が記憶に残った。そこが日本有数の海蝕断崖で国の天然記念物であることをのちに知り、一度訪れたいと思っていたが、今日までチャンスがなかった。走りを楽しむ越前海岸へ出るのに良い位置にあることから、今回の旅行の景勝地探訪の最有力地としてここを選んだ。
白山ICに入るころには空も明るくなってきて雨は完全に止んでいる。北陸道に乗ると直ぐ、平坦な道路の右側間近に海岸を見て走ることになる。高架でないのが海を近くに感じさせる。交通量は少なく走り易い。小松ICを過ぎると左側から旅客機が飛び立つ。小松空港だ。片山津ICの先から海岸を離れ、田園地帯を少し走ると北陸道の出口加賀ICに至る。ここから国道305号線に出て、北潟湖畔の西側を通り、芦原温泉の中心部で西へ向かう県道を進んでいくと、道が広くなり案内板に駐車場や公園への道筋が示される。もう東尋坊の観光エリアに入っており、目の前に展望タワーが現れる。少し手前に無料の駐車場があったがタワー前のそれは有料(市営:一日500円)、広い駐車場に
とまっているクルマは数台のバスと乗用車だけだった。到着時刻は1050分。
第一印象は「寂れた感じだなー」とあまり良くない。駐車場の案内人に観光路を確認して、先ずタワー内のトイレへ。一階はお土産を扱うスペース、ちらほらと客はいるものの、照明が暗いせいもあってうらぶれ感が拭えない。展望タワー(有料)は動いているが、二階のレストランは休業中で階段にロープが張られている。国の天然記念物の所在地に相応しくないこんなものを何故作ったんだろう?
タワーから断崖に至る道の両側は例によって土産物屋と飲食店が並ぶ。多いのが鮮魚を扱う店だ。これも、「こんなものをここで買う人がいるんだろうか?」と思わせる。おそらくクール宅急便が何かで送るのだろうが、店頭に並ぶものはとても鮮度がいいとは言えないのだから。そでも通りは結構にぎわっている。芦原温泉に一泊するのだろうか、東アジア系の人(おそらく中国人)が多い。
通りを抜けると眼前に日本海が広がり、足元は海蝕断崖の上、左右にもそれが広がり(約1km)、その先に雄島と呼ばれる小島が見える。断崖上部からは下に向かって遊歩階段が出来ており、これを下っていくと少し広々したところに出る。ここから断崖絶壁を観るのがここの定番観光ルートらしい。ただし足下が悪く要注意だ。階段の途中から一気に海淵に下りる道は遊覧船専用だ。この船で下からそそり立つ断崖絶壁を巡るのが素晴らしいとガイドブックにはあるが、30分ほどかかるのでパスすることにする。観光に要した時間は約20分、これで充分だ。
率直に言うと「期待外れであった」柱状節理(岩が柱状に立ち並ぶ)断崖は世界有数のものだと言われているが、地質学上はともかく、この程度の海蝕断崖は、日本各地にみられるし、和歌山白浜の三段壁を何度か訪れたことのある者にとって、周辺の景観を含めると、遥かに白浜の方が好ましいと感じた。
ところでこの奇妙な名前は近くの平泉寺(数千人居た!?)の僧侶の一人。暴れ者で仲間にここで突き落とされ、そこから数々の伝説が生まれた結果らしい。これで映画の題名との関係が分かった(映画は現代物だったが)。

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(次回;越前海岸)