2019年6月25日火曜日

富士通マーケティング連載コラム「軍事技術史に学ぶICT活用法」第4回

富士通マーケティングコラム“ICTのmikata”に連載中の「軍事技術史に学ぶICT活用法第4回新兵器の評価ポイント」が下記に掲載されました。
https://www.fujitsu.com/jp/group/fjm/mikata/column/madono5/004.html

2019年6月18日火曜日

「日本のいちばん長い日」を観る

今日は久し振りで東宝シネマズ午前10時の映画祭「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督、1967年公開)を観に行った。公開直後に一度見ているし、昭和史の重要な出来事(ポツダム宣言から終戦の詔勅まで)なのでストーリーはほぼ知っていることばかり。だから今回は俳優の演技に着目した。いかにも芸をしていると感じた役者はごく少数(黒澤年男)、有名俳優総出演(笠智衆(首相)、宮口精二(外相)、村山聰(海相)、三船敏郎(陸相)、中村伸郎(内大臣)、志村喬(情報局長官)、加藤武(書記官長)、加藤大介(NHK国内局長)、北村和夫(内閣官房課長)、島田正吾(近衛師団長)、石山健二郎(東部軍司令官)、伊藤雄之助(陸海混成飛行集団長)、藤田進(近衛師団連隊長)、天本英世(横浜高等工業配属将校)、小林桂樹(侍従)、高橋悦史、中谷一郎、佐藤允、黒澤年男(軍事課員、師団参謀)など。女優は新珠三千代一人だけ)でそれぞれの出番は少ないが、皆自然体なのに感心した。何故演技臭を感じないのか考えた(帰宅して俳優の経歴を調べた)。結論は、歌舞伎や新国劇、新劇出身の舞台俳優の多いこと、それに多くの人が軍隊経験をしているからではないかと言うことになった。“決断の苦悶”がよく伝わる観応えのある映画だった。

2019年6月12日水曜日

長い友とのひと区切り

 高校生になり髪を伸ばす際初めてかかった理髪店は中学時代(御徒町中学校)の友人の店。先代からの床屋さんだ。当時この学区は成績が良く経済的に余裕があっても上級学校に進学せず家業を継ぐ友が多かった(一流大学へ進んでも結局最後は家業となる者も多い)。兄と二人で継いだこの店は、職人を4人雇うほど順調にいっていた(お得意さんは老舗の旦那や職人あるいは宝飾店のセールスマンなど)。言わば兄は社長兼営業部長(髪が薄くなると2カ月に一回しか出かけなかった。すると「本場所始まったよ~」と電話がかかってきたりした)、弟は経理部長兼技術部長)。共通の友人たちの消息、アメ横の変貌、揃えてくれていた最新のゴルゴ13、時に居眠りも遠慮なくできた、楽しく心安まるひと時だった。しかし、皆同じように齢を重ね、数年前兄さんが亡くなると、店を閉じ職人たちも一人を除いて引退した。彼はそれでも近くの同業者に頼まれ、一番若い職人(と言っても70台のXXちゃん)とそこへ移ったが、今月予約の電話すると「XXちゃんで良いかい?」との返事。いよいよ来たかと思いつつOKし、今日出かけた。理髪が終わるころやってきた彼の話は予想通り「腕が上がらなくなり、細かい作業が危なくなってきた」とのことだった。
 私が和歌山工場勤務の時代、彼が一時期身体を壊した期間を除けば、入社式、結婚式、長男の小学校入学式、節目節目でも彼に整えてもらった。友人としての付き合いはこれからも続くが、我々にとって平成とは別に一つの時代が終わった。感無量である。


2019年6月1日土曜日

富士通マーケティング連載コラム「軍事技術史に学ぶICT活用法」第3回

2月から連載の始まった富士通マーケティングホームページのコラム「軍事技術史に学ぶICT活用法」、年度変りや担当者の変更で2カ月ほど中断していましたが、第3回戦争と科学技術が昨日下記に掲載されました。

2019年5月31日金曜日

今月の本棚-130(2019年5月分)



<今月読んだ本>
1)鉄条網の世界史(石祐之・石紀美子);角川書店(文庫)
2)「砂漠の狐」ロンメル(大木毅);角川書店(新書)
3)世界史を変えた新素材(佐藤健太郎);新潮社(選書)
4)日本鉄道史-昭和戦後・平成編-(老川慶喜):中央公論新社(新書)
5)兵隊たちの陸軍史(伊藤桂一);新潮社(選書)
6)図書館巡礼(スチュアート・ケルズ);早川書房

<愚評昧説>
1)鉄条網の世界史
-世界を分断し囲う、意外と強力なローテク・低価格フェンス-

私が満洲国生まれ育ちであることは本欄に何度も書いてきた。場所は新京、現在は中国吉林省の省都長春である。大連、奉天(瀋陽)、ハルビンより知名度は低いが、当時は満洲国の首都であり、宮廷府も関東軍司令部もここに在った。新京の中心部は日本統治下で計画/開発され、整然とした街並みと広さで本土にこれに類するものはない。現地人(満人)の都市部居住者は古くから在る“城内”と呼ばれる城壁で囲まれた一帯に住んでいたが、一部の特権階級は日本人街区に住居を設けていた。例えば、皇帝溥儀の皇弟愛新覚羅溥傑家はご近所だったし、財務大臣韓雲階邸は我が家の裏だった。とは言っても規模は比較にならない。2階建40戸ほどの低層アパートが長方形の四辺を成す一画と同じ広さの敷地に、それぞれが一戸を構える豪邸だった。我が家はアパートの2階に在ったから、韓雲階邸内のテニスコートを中心にした広い庭園を見下ろすことが出来た。そしてその屋敷は高いコンクリート壁で囲まれ、更にその上には数条の鉄条網が碍子付きで張り巡らされていた。つまり通電されているのだ。翻って社宅アパートを見れば、四隅は道路から自由に出入り可能。安全に関する考え方は今の日本人同様だった。鉄条網など見かけることもないし、ほとんど必要性も感じないのだ。しかし、世界を見渡せば、鉄条網のニーズは高く、種々の用途に使われてきており、今もそれは連綿と続いている。本書は、普段我々には無縁のこの鉄条網についての話である。
鉄条網の出現は19世紀半ば、米国およびフランスでほぼ同時期に起こっている。農牧場を囲うのが主目的だった。「家畜を逃がさない」「農地への野生動物侵入を防ぐ」「所有地の境界を明らかにする」「外敵から家族財産を守る」。それまで生垣や石垣、あるいは木製の柵程度だったこの役割を、安価かつ少ない労力で効果的に果たしてくれる道具の出現は、特に米国の西部開拓で大歓迎され普及していく。しかし、同時に新たな問題も起こってくる。カウボーイによる放牧ベ-スの牧畜業とそれを鉄条網で拒む農民との戦いだ。西部劇映画の傑作「シェーン」はこれをテーマにしている。加えて、この時代の新技術鉄道も列車運行や線路保護のために沿線に鉄条網壁を構築する。これで野生動物の移動が妨げられ、生態系が変わっていく。またネイティヴアメリカンは狩猟を生業とするが、古来の生き方すら維持できなくなる(これは鉄条網以上に統治政策の影響が大きいが)。また、囲い込み型牧畜は動物が草の根まで食してしまうので牧草地が荒れ地に変わってしまう。つまり、鉄条網が社会および自然環境システムに与えるインパクトは極めて大きいのだ。
そして戦争。戦闘用鉄条網(材質、編み方、棘の形状や数)の開発に熱心だったのはフランス軍。カッターで切断しにくいものを1880年頃から導入。最初に戦場に投入したのは米西戦争時のスペイン軍、陣地を守るためであった。このローテク兵器が同時代の新兵器機関銃と併用されたとき、いかに強力な防衛力となるのか、いくつもの事例が示される。柱を立てて張り巡らす、通電する、丸めたものを蛇腹型に展張する、地面に網の目状に張り渡す。この最後の利用法は旅順攻略でロシア軍が採用、匍匐前進を困難にして日本軍に苦戦を強いることになる。また、偵察行動(特に空からの)で発見し難い他、意外と砲撃に対して耐久力があり、守りの道具として有効なのだ。この威力が低下するのには戦車の出現を待たなければならなかった。
次に来るのが人の囲い込み。つまり各種収容所や保護地域のような所への利用である。これは悪名高いナチスやソ連の強制収容所から、在米日系人収容所、南アフリカのアパルトヘイト政策、あるいはアマゾン奥地やオーストラリアの原住民保護を名目とする隔離策、更には紛争地中東やバルカン半島での利用。ここにあるのは、物理的隔離以上に社会的/心理的な人間の隔離分断である。先に紹介した西部開拓史における生態系破壊が人間(特に未開の原住民)にもおよんできているのである。しかし、時には皮肉な現象も起こる。南北朝鮮を隔てる軍事境界線は数キロから数十キロ幅で長い非武装地帯が半島を横断している。ここにはほとんど人間が立ち入らないので、動植物の種の増加が見られるのだ。
さて、我が国の鉄条網である。導入は第一次世界大戦後、軍事研究のためである。ドイツから製造機械を購入、第二次世界大戦終結までは国内需要/生産も高かったが、戦後は南北米大陸の農牧畜業向け輸出に活路を見出したものの、中国をはじめとする新興国との価格競争に敗れ、主に北海道の牧畜業向けに細々と生産が続けられているのが現状である。
鉄条網そのものの発達史にもかなり詳しく触れているが、著者の狙いはそれによる社会と自然の変容に重点が置かれており、単純な道具の与える奥の深さを教えられた。これは著者の経歴を知って「なるほど」と納得した次第である。
二人の著者は父娘、父の石弘之は朝日新聞勤務の後東大大学院総合文化研究科などで主に環境学を専門とした研究者(名誉教授)、この間国連の開発計画/環境計画機関の上級顧問を務めている。また、娘の石紀美子はNHKのディレクターを経てボスニアヘルツェゴビナ復興の国連機関に勤務した後、フリーで米国に基盤を置いて情報発信をしている。つまり、両人ともジャーナリストと国際機関勤務と言う点で共通項があり、それが身近に在った“鉄条網”で括れるのである。

2) 「砂漠の狐」ロンメル
-変転する名将ロンメルの評価、これが最終版か?-

“「砂漠の狐」ロンメル”、1951年米国で制作され大ヒットした映画“The Desert FoxThe Story of Rommel”(日本名;砂漠の鬼将軍、主演ジェームス・メイソン)と敢えて同名のタイトルを付けた日本人によるロンメル評伝、期するところがあるとうかがえた。1950年に英国で出版された原作名はただ“Rommel”、著者は北アフリカ戦線で一時ロンメル軍の捕虜となり、脱走に成功した英陸軍准将デズモンド・ヤングである。戦後5年しか経たぬ時期に上梓された著書はロンメルを好意的に描く内容から物議を醸したようだが、その後のロンメルものにしばしば援用されるほど影響力のあるものだった。つまり、戦車戦における戦略・戦術に優れ、騎士道精神に則って戦ったドイツ軍人のイメージが形作られていったのだ。しかし、1970年代になるとドイツ内外でこのロンメル像を見直す動きが起こってくる。「戦術家としてはともかく、しょせん歩兵出身、装甲戦略は分かっていなかった」「上昇志向が異常に強く、自己宣伝に注力していた」などなどである。真相はどうなのか?50歳代の日本字軍事史家がこれに挑戦する。
大きくくくると三つの観点からロンメル検証に取り組む。先ず、第一次世界大戦時までのロンメルの生い立ちとドイツ軍士官昇進の仕組み。次いで、ロンメル像を作り上げた著書や戦史家/軍事学者のロンメル観。そして第二次世界大戦におけるロンメルの戦い方とヒトラー、軍上層部との関係。当然のことだがこれらの情報源は著書/文献が主体、やや意外だったのは最近の日本人には珍しくドイツ語のものが多いことである(我が国で紹介されてきたドイツ軍事関連情報は一旦英訳されたものからの引用が圧倒的に多数)。著者経歴を調べると、ドイツ近代史を博士課程まで学び(立教大学)、その後ドイツ学術交流会の奨学生としてボン大学留学とある。オリジナルに直に触れ、それが理解/活用できるとすれば、それなりに新鮮なロンメル観を提示することが可能になる。それを強く感じたのは、ドイツ軍下級士官キャリアーパスの解説で、ドイツ人にとっては常識、米英人の関心もこれをそれほど重要視していない(指揮官や参謀になってからの経歴には着目しても)。しかし、私にとっては「そう言うことなのか!」と教えられるところが多々あった。
ドイツ帝国の母体はプロイセン(プロシャ)、ロンメル家は南独ウェルテンベルク王国の領民、貴族でもなければ軍人を輩出した家系でもない。父親はギムナジウム(中高一貫校に近い)の数学教師(のちに校長)、本人も数学は得意でその学校に進学している。一方、ドイツ軍(帝国軍、国防軍)士官の中核はプロイセン人で貴族の出自、かつ幼年学校出身者。18歳の徴兵年令に達したところで、父から命じられて地元の砲兵連隊を志願する。この背景は、工兵・砲兵は数理の知識を重視し“将校適性階級(貴族、高級官僚、軍人(現役/退役将校)、大学教授)”以外からも士官候補生が採用されること、父が同じコースをとって予備役少尉に任官した経緯があったからである。しかし、その時は砲兵さらに工兵の空き枠がなく、不本意ながら歩兵連隊に入隊することになる(騎兵は適性階級優先)。この後の昇進システムは複雑なので略すが、適性階級出身で幼年学校→士官学校と進む者とはハンデキャップが大きく、とにかく顕著な成績・戦功を挙げないことには上級指揮官に就くことは不可能に近い。のちにヒトラー政権下の陸軍参謀総長ハルダー上級大将の戦時日記に「病的な功名心」「性格的な欠陥」と記されるロンメルの言動は、この候補生時代に端を発していると著者は見る。
第一次世界大戦時は、当初フランス戦線で小隊長、中隊長として戦い、第2級さらに第1級鉄十字章(連隊初)を受章して、下級指揮官としての頭角現していく。この後山岳師団に転じた彼はルーマニア戦線、イタリア戦線と転戦、高地争奪をめぐる戦いに中隊を率いて一番乗りし、最終的には皇帝手ずから授与するプール・ル・メリート戦功賞(中隊長クラスでは全軍を通じて11人)を受けることになるが、これを巡ってひと悶着起こしてしる。敗戦後ヴェルサイユ条約制約下の国防軍(10万人、将校4千人)に何とか残ることになるが、昇進はならず12年間も大尉のままで置かれ、幕僚課程に進むチャンスも巡ってこなかった。ここに“兵站軽視の戦術家”の因を求める戦史家は多い。少佐進級は193310月、射撃に長けた者で構成する猟兵大隊大隊長である。既にナチスが政権をとり、条約破棄と国防軍拡大もあって19353月中佐に進級、ポツダム軍事学校教官に転じて著したベストセラー「歩兵は攻撃する」が運命を大きく変えていく(この本は現在でも評価が高く、米陸軍では二等軍曹以上必読の書として推奨している)。ヒトラーが読み激賞、併合したズデーテン地方巡察に際して護衛隊長に任ずる(大佐)。19398月、ポーランド侵攻前に少将に進級、総統大本営護衛隊長に補せられる。ヒトラーに同行して戦線を視察して廻るうちに「装甲こそこれからの陸戦の中核」と確信したロンメルは、装甲師団の指揮官となれるようヒトラーに運動し、19402月第7装甲師団長を拝命する。
5月下旬に始まった西方戦役で、軽師団(装甲師団と自動車化歩兵師団の中間)から改編された二線級装甲師団を率いてスペイン国境まで達したロンメルの活躍は、ナチス宣伝相ゲッペルスの格好の宣伝材料となり、国民的英雄に仕立てられていく。陰にあるのは、戦功を求めての独断専行、最前線へ出ての率先垂範、軍団/軍司令部には不快な行為でもある。自己宣伝に怠りない年末「第7装甲師団戦史」をまとめ、特別装丁本をヒトラーに献上する。19411月中将に昇進。
紙数が最も割かれるのは北アフリカ戦線、映画の舞台もここである。ドイツの西欧席巻を見てイタリアが始めた火遊びは、リビア、バルカン各所で挫折する。このままずるずる行くとムッソリーニ失脚の恐れさえある。やむを得ず失地回復を図るため北アフリカに派遣されることになるのがドイツアフリカ軍団。ロンメルは軍団長としてそこへ赴くことになる。一時はエジプト国境を越えアレクサンドリアまで迫るが、エル・アラメインで英軍に押し止められ、連合軍の北アフリカ上陸もあり、最終的に全土を失う。ここで、23師団を扱う軍団長としての力量が問われることになる。情報軽視、兵站を無視した進撃、相変わらずの率先垂範。初期の快進撃や連合軍に対する守りを評価されて、大将さらには元帥(最年少)と昇進していくが、師団長クラスの戦死者/捕虜まで出る戦い方に批判が高まる。高等統帥を学ばなかったツケがここで廻ってきたわけである。この後最後の戦いであるノルマンディーでも、情報軽視で休暇中に担当戦域(B軍集団司令官)への上陸を許してしまう。結局戦場における彼の勝利は西方戦役におけるフランス戦で終わっていたのである。
個人的に最も興味深かったのは、“ロンメル神話”の変化を、著作や軍事研究家の言動から検証する段である。先に挙げたデズモンド・ヤングや軍事学者リデル-・ハート、更にはドイツ人作家パウル・カレル、英ノンフィクション作家アラン・ムーアヘッドが“英雄”派。いずれも1950年代に表されたものである。ここで著者が批判的に取り上げるのは、リデル・ハートとパウル・カレル。前者は戦間期における機甲戦提唱者として有名だが、母国英国では入れられず、グーデリアンやロンメルこそその実現者として高い評価を与えていること。後者はナチス党員で外務省報道局長であったことから、ヒトラー暗殺未遂事件で自死に追い込まれたロンメルを高く評価することで、ナチスの犯した罪と距離を置こうとしたのではないかと推察する。つまり、両者のロンメル観にはバイアスがかかっているとみなすのだ。一方“非英雄”派の代表は1977年出版した「狐の足跡」で「名誉にかられて、無謀な作戦を遂行、不必要な損害を出した」と難じた英作家のデヴィッド・アーヴィング。それ以降これに追随する論調が強まっていく。しかし、著者はその作品に多くの問題点があることを具体的に述べ「歴史修正主義者」と断ずる。21世紀に入ってからは「戦略的視野や高級統帥能力には欠けるものの、作戦・戦術次元では有能な指揮官」と言う等身大のロンメル像に落ち着いてきているようであるが、次の研究視点として、軍事的・歴史的評価から政治的な面に関心が移ってきていると結ぶ。まだまだ、ロンメルは終わらない。

3)世界史を変えた新素材
-石、青銅、鉄以外にも歴史を変えた材料は多々あるのだ!-

題名の“新素材”、石油精製/石油化学に長く携わってきたこともあり、勝手に炭素繊維/ポリカーボネート/ナノチューブあるいは各種電子化学材料のような時代の先端を行く“新”素材を連想し、その前に“世界史”が置かれていることを深く考えずにAmazonに発注した。届いた本の目次を一覧して、予想外の内容であることを知らされる。金、陶磁器、コラーゲン、鉄、・・・と続く12種の凡庸な材料が列記されていたのだ。しかし、読んでみて「確かにこれらは歴史を変えた」と納得できる内容だった。その時々の新素材が社会に与えたインパクトを、分かり易い語り口で解説してくれる材料科学の入門書なのだ。こう言う誤解は、何か得したような気分になる。確かに歴史の区切りに、石器→土器(日本史)→青銅器→鉄器とあるのだから。
著者が歴史と素材の関係に着目したのは、本来の専門分野(東工大大学院(有機合成化学)→医薬品企業研究員→サイエンスライター)と言うこともあるが、歴史の変革には“律速段階”(生化学用語;変化の速度を決する隘路;例えば、100kmの距離を行くときどこかで10kmhでしか進めない渋滞区間があると、残りを80kmh100kmhで走っても所要時間は大きく変わらない。この渋滞区間が全体行程時間を律する)があり、素材が歴史変革においてその役割を果たしてきたと言う仮説に基づく。その仮説検証の対象となったのが、12の素材なのである。これを学問的に扱うなら、材料利用の動機、特性、利用分野、普及状況、社会システムへの影響さらには変容、と論を進め、12の素材が確かに“律速段階”であることを証明する手順を辿るべきだろう。しかし、本書は読みものであるから、当然そんな堅苦しい論法は採らない。それぞれの素材に関する歴史上の出来事や逸話、材料そのものの発展/変化、初期と現在の利用方法・分野の広がり/違い、などを身近な例やトピックスを中心に語っていく。それでいて、材料の特質や製造法、それに大事な歴史上の役割は確り書き込まれている。例えば、①金。何と言っても貨幣経済の普及に欠かせぬ素材、間違いなく歴史を変えたのだが、それだけの価値ではない。錬金術こそ近代化学技術発展の嚆矢だったわけである。②1万年の歴史を持つ陶磁器の技術は、白磁の製作や彩色の苦難を乗り越え、ファインセラミックスに昇華し宇宙開発を可能にする。③コラーゲンの項では、毛皮の利用、特にその鞣し技術に着目、これに依って人類の生活圏が北に拡大していったこと、コラーゲン不足が大航海のアキレス腱(壊血病)だったこと、動物の腱や膠(にかわ)が強力な弓の誕生につながったことなど、あまり知られていな歴史上の役割を教えられる。また、④鉄は「文明を作った材料の王」と位置付け、日本刀の製法/特質、ステンレス鋼などを詳しく解説する。
つづくのは、⑤紙;印刷術と合せてのメディア変革、⑥炭酸カルシウム;食品添加剤、生石灰(カーバイト照明、殺菌剤)、セメントから真珠(炭酸カルシウムの塊り)までの多彩な用途、⑦絹;シルクロードに代表される金に匹敵する貴重な交易品、日本の養蚕/絹糸・絹織物産業盛衰史、ナイロンによる代替と将来代替候補としてのクモの糸、⑧ゴム;球技の誕生、交通革命(タイヤ)、⑨磁石;発電機/モーターから磁気媒体技術まで、我が国磁石/磁性材研究の貢献、⑩アルミニウム;鉄鉱石より多いボーキサイト、ジュラルミンの発明と航空産業、⑪プラスチック;変幻自在の万能材料、ポジション奪取力(置き換えられたものの多さ)、環境問題、⑫シリコン;トランジスター、半導体、コンピュータの歴史、ICT革命。いずれも、確かに歴史を作りそれを変革してきたものばかり、看板に偽りはなかった。
それぞれの素材が一章を成し、さらに必ずしも前後関係が密でない複数のサブテーマで語られるので、一気に読む必要がないこと、興味のあるところだけ拾い読みしても意(素材に対する関心)は通ずること、それなりに科学への知識を高められることから、文系の人や中学/高校生にも薦められる。逆にエンジニアにはチョッと軽い感じがしないでもない(それでも雑学として楽しい;クレオパトラに惹かれたローマの将軍アントニウスが彼女に振る舞った贅をつくした料理、クレオパトラは「これしきの料理が何なの?!これが世界最高の料理よ!」と酢の中に耳飾りの大きな真珠(現在の価値数十億円)を放り込み、溶けたところでそれを飲み干す。実際は食酢程度の酸で真珠が溶けるようなことはないのだが・・・)。
実は、ほぼこれと同じようなタイトルの本「人類を変えた素晴らしき10の材料」を読んでおり、20165月(-94)で紹介している。両者に共通するのは、鉄、紙、コンクリート(炭酸カルシウム)、プラスチック、磁器の5種、両者の内容の違いは、本書が社会的、前書が科学的なところにある。個人的には前書が好みだ。

4)日本鉄道史-昭和戦後・平成編-
-占領軍と政治に翻弄されながら戦後復興の原動力となった鉄道の舞台裏-

平成から令和に改元された。鉄道ファンにとって平成は在来線長距離列車が消えていった時代として記憶されるのではなかろうか?廃止列車や路線の最終列車発着時は沿線やホームに撮影者が溢れる光景を何度もTV画面で見せられた。しかし、鉄道ファンは撮り鉄ばかりでなく乗り鉄や車両マニア、時刻表愛読者それに鉄女と多彩、それが年々増えてきているように感じられる。今はとても“鉄チャン”と自他ともに認められないものの、小学生時代鉄道技師になることが夢だった者にとって、嬉しい社会現象と言える。戦後の一時期復興のカギを握る最重要社会インフラと位置付けられ、強化が図られてきた分野だったからこそ、子供心にその将来性を感じとり、夢が育まれていったのである。しかし、鉄道業の経営実態は、一部の新幹線や大都市近郊路線(私鉄を含む)を除けば年々厳しくなり、全体としては衰退傾向に見えて仕方がない。夢と現実の差はどこでどのように生じていったのか?(無論鉄道から道路へのモーダルシフトが主因であることは承知した上で)こんなことの一端を知りたくて本書を手に取った。
本書は決して鉄チャン向けの本ではない。れっきとした学術研究報告書(の普及版)である。前前作「幕末・明治編」(2014年刊)、前作「大正・昭和戦前編」(2016年刊)と併せて一つの研究成果となる。本論の特色は、政治(関連する法律・財政)と行政(政策)に重点を置いているところだ。我田引水をもじった“我田引鉄”と言う言葉が作られるほど鉄道は政治と縁が深く、現在でもリニア―新幹線や長崎新幹線あるいは北陸新幹線の敦賀以降の延伸議論にその影響が見てとれる。著者は立教大学名誉教授(経済学博士)、欧米には多く見かける鉄道史家だが、我が国ではここを専らとする大学教授は珍しい存在である(著書;単著、共著、編著、訳書のほとんどは鉄道関連)。
とにかくデーターが凄い。太平洋戦争時から終戦を挟み1950年頃までの数字がよくここまで残り、それを発掘したことに感心させられる。特に占領下の政策は変転が激しく、その部分は本書で初めて明らかにされたこともあるのではなかろうか?輸送量と輸送力、空襲による設備や車両の被害状況(電車26%、工場25%、建物20%、客車19%)、占領軍に徴発された車両数・列車本数(占領軍優先の度合いが分かる)、輸送量低下からくる貨物駅における滞貨量、運賃と営業係数、保線状況、車両使用年数(ほとんど耐用年数を過ぎている)、これらが原因で多発する事故などがそれらである。経済復興のためにエネルギーと輸送(鉄道以外はほとんど機能しない)は急所、石油に頼れない(外貨不足)状況下では石炭への依存が極めて高い。当時は蒸気機関車が主流なので電化を促進し、他セクターに石炭をまわしたいが電化に充てる資金がドッジ・ライン(インフレ鎮静化のための財緊縮政政策)で大幅に制約を受ける。さらに、運賃改定(値上げ、特に戦前から低く抑えられてきた貨物運賃)もままならない。種々の数字を通じで終戦前後の鉄道経営の窮状が見えてくる。
このような環境下で占領軍に突き付けられるのが公社化である。それまで鉄道省→運輸逓信省鉄道総局→運輸省鉄道総局と完全な国家組織の一つだったものの分離独立は既得権を守ろうとする動きも含め複雑な様相を呈し、紆余曲折の末19496月日本国有鉄道が発足する。その後の労働争議多発のもとは国家公務員から公社職員に転じたところに端を発し、労使間の緊張関係は、下山事件(総裁謀殺?)、松川事件(列車転覆)、三鷹事件(無人電車暴走)が職員大量整理との関係を疑われるまで高まる(占領軍、労働組合、共産党の関与説)。
経済が安定さらには発展してくるにつれ、複線化、電化、車両増強、通勤混雑緩和策、更には新幹線計画などに力を注いでいくが、予算/人事/経営計画、万事は政治によって決まる。1963年までは何とか単年度収益は黒字だったものが1964年度に赤字転落。何度も合理化/収支改善のための再建計画や法律が定められるものの、あまりの規模の大きさ、相変わらず続く我田引鉄や赤字路線廃止に対する反対運動、経営主体の曖昧さ、激しい労使対決、トッラクや自家用車に依るモーダルシフト(コメのような生活必需品の運賃は政策で低く抑えられるので、儲からないものだけが鉄道輸送にまわる)、ついに1985年累積欠損は88千億円に達する。万事休す。1987年分割民営化が行われ、JR7社(北海道、東、東海、西、四国、九州、貨物)が発足する。
このような戦後から現在に至る鉄道業の変遷を、関係者(総理、運輸大臣、国鉄総裁、関連審議委員会や常設会議のメンバー)の言動、個々の法案や計画の審議経過、計画と実態の差異などを取り上げ、数字/グラフを多用して分かり易く説明していく。また旧国鉄ばかりではなく私鉄や新幹線にも言及して、それらに連動した社会変化を分析することも怠らない。戦後日本の復興・発展に鉄道が重要な役割を果たしてきたことを述べつつ、リニア―新幹線や整備新幹線が、かつての赤字政治路線同様、真に国益に利するものか否かに疑問を呈して3部作の結言とする。全く同感である(私はリニア―不要論に組みする)。
実は、前前書・前書は読んでいないのだが、本書を読み3冊が今後の我が国鉄道史(あるいは近代日本史、戦後復興史)研究者にとって必読の書になるのではないかとの思いを深くした。ただ、先にも記したように学術研究報告の性格が強いため、読んで楽しいものではない。

5兵隊たちの陸軍史
-下級兵士から見た、平時と戦時の日本陸軍。陸軍辞典にもなる価値ある内容-

親しい友人や本欄の読者からは“軍事オタク”と見られているようだ。確かに、今月も6冊の内3冊(鉄条網、ロンメル、本書)はそこに関わるのだからそうとられても仕方がないのだが、私が興味を持つのは軍事技術史、それも主として第一次世界大戦、第二次世界大戦に使われた兵器あるいは数理情報技術が中心、それを歴史的視点から考察することに注力しているので、自分ではある種の技術史愛好家と思っている。つまり“歴史”と言う視点をいつも意識している。今回も世界史2点と鉄道史、陸軍史、計4点あるのがその証左である。その軍事技術史アマチュア研究家として見たとき日本陸軍と言うのはあまり興が乗る対象ではない。一部の軍用機(1式戦闘機(隼)、4式戦闘機(疾風)、百式司令偵察機)を除けば、先進国陸軍と正面から戦える兵器(機甲力、砲力)を持っていなかったからだ。一方で昭和史における存在は圧倒的、陸軍を知らずして日本近代史は語れない。本書を読む動機はそこにある。
著者は1962年の直木賞受賞作家(2016年没)。受賞作「蛍の河」は自身の体験に基づいた中国戦線における戦場小説である。これを含め著者の作品は一編も読んでいないのだが、昭和史を題材とするノンフィクションには参考文献者名としてよくこの人の名前が記されている。広告に“名著復刊”とあったので早速取り寄せることにした。初出は1969年単行本(番町書房)、2000年に文庫本化(新潮社)そして今回新潮選書として復刊と言う経緯をとる。同じ出版社で先に文庫本が出てそれが選書になるのは極めて珍しい。著者によるまえがきも保坂正康による解説も文庫本発刊時のものである。そのまえがきによれば、本書は大宅壮一監修で始まった「ドキュメント=近代の顔」シリーズの第一巻“戦争”として世に出たとあり、シリーズ企画段階で大宅が「第一巻は戦争、戦争なら伊藤だろう」とお鉢が回ってきたとある。「見るべき人は見ていた」と言うべきであろうか、本書は現代に復刊するだけの価値ある内容の本である。つまり、勇ましい戦闘場面や政治的軍人あるいは反軍的な言動が描かれることはなく(チョッとした戦場場面はあるが)、入営から除隊までの兵士の日常を淡々と、しかし多角的に解説していく。帯に保坂が「本書は私にとって「師」であった」と語っているように、言わば“陸軍辞典”としての利用価値が高い内容のものである。
私の旧帝国陸軍“兵隊”像は主に映画を通じて作り上がったものである。「きけわたつみのこえ」(1950年)、「暁の脱走」(1950年)、「真空地帯」(1952年)、いずれも暗い反戦映画、前2作は父に連れられ、「真空地帯」は中学の視聴覚教育の一環だったと記憶する。陰湿な初年兵苛め、陰険/狡猾な下士官、特権を振りかざす下級将校、戦場においては虫けらのような扱われが、これが数としては大多数を占める陸軍下部構造、暗いイメージが見事に戦後レジームの下で刷り込まれ、高校生くらいまで持続する。歴史教育の中で近代に割ける時間はごくわずかだから、概ね同世代あるいはそれ以降の人は同じような軍隊観を持っているのではなかろうか?20歳で徴兵され通算66カ月ほとんどを中国戦線で過ごし、終戦時古参の兵長で終わった、極めて出世の遅い(順当に昇進を続けていれば曹長でもおかしくない)人だけに、軍隊に対するネガティヴな内容を予想したが、それは良い意味で全く裏切られた。本書のまえがきで著者は「あの戦争が終わってから20年間ほどは、米国的民主主義に悪影響され、兵士たちが行ったことを露悪的に伝える戦史などの氾濫が続き、従軍した人々も戦争中のことを口にするのをはばかる状況が続いていた」。(やっとその呪縛から解かれ、関係者が手記や部隊史を表し出したと語ったのち)「私が本書を執筆したのは、(中略) 後の世代に戦争の実態をきちんと伝えたいという気持ちからであった」とその取り組み姿勢を表明している。読後感は全くその通り、左右への偏りを感じさせないものだった。
“陸軍史”なるタイトルから明治の健軍以降終戦に至る、兵隊の目で見た大河のような軍事史を印象づけられるが、あまり時間の流れにとらわれず、切り口を変えてその中で歴史的経緯に触れる程度である。例えば、組織概観:徴兵令と兵役制度、軍旗と軍人勅諭の意義(昭和陸軍の発した戦陣訓との違いなど)、平時と戦時の編成の違い、部隊の呼称(連番以外の通称名;近衛師団=宮)、第1師団(東京)=玉、第4師団(大阪)=淀)、兵営生活(特に中隊と内務班)、1日のスケジュール、2年間の教育・訓練内容と節目の演習、昇進制度、階級と給与。兵隊たちそれぞれの戦史:台湾生蕃討伐(日清戦争前、台湾が日本領になる以前)、西南の役(平民の兵隊が武士に勝利する)、日清戦争(戦時軍制の確立、軍隊美談はここから始まる)、北清事変(義和団、連合軍としての戦いと評価)、日露戦争(感状や賞詞が兵士にとって大きな意味を持つ)、シベリア出兵(通訳に変じていた赤軍ゲリラ)、満州事変、ノモンハン事件。大東亜戦争(主として中国戦線)概要:駐屯地業務(糧秣調達、住民との関係)、(ゲリラ相手の)戦闘行動、一番乗りの意義(極めて大きい)、功績調査、兵隊の暴動/反乱、前科者の部隊、兵士の性(従軍慰安婦、性病)。どれをとっても「そうだったのか!」と教えられることばかり。保坂が帯に本書が自分にとって「師」であったと語った後に「いや昭和史を学ぶ者に一様に「師」となるように思う」と続けているが、当にその通りである。私にとっては永久保存書だ。

6図書館巡礼
-記録の歴史、書籍の歴史、図書館の歴史、古書・希書取引の歴史を巡る長い旅-

「毎月ブログで紹介している本は皆自分で購入したものですか?それとも図書館?」と言うような質問を何度か受けている。答えは「著者から贈られたものや友人から是非読んでみてくれと貸し与えられたもの以外すべて自前で求めたもの」「図書館から借りたものは一冊もない」である。小中学校の頃は学校の図書室にあるものをよく読んだ、特に“世界名作全集”のようなものを読破した。高校の図書室は本を読む所ではなく、受験勉強の場所だった。大学の図書館はカード方式、面倒な手続き踏んで読もうとする気は起きなかった。就職してからは少し事情が変わり、海外の専門誌/文献を借り出し、興味のある記事、仕事に必要な文献をコピーして自分専用のものとして利用した。成人になって公共の図書館を利用したのは子供たちの夏休みの宿題を手伝う時くらい、現在も横浜市の図書館はどこでも利用できるよう登録し、カードも一応持っているのだが、自分のために借りたことは一度もない。何故読書が好きなのにそうなるのか?赤線を引いたり書き込みをしたりしないと、あとで利用する際困るからである。図書館の本にそれは許されない。だからと言って図書館に全く興味がないわけではない。とりわけ欧州の宮殿や大邸宅の個人用図書室や書庫には空間としてあるいはインテリアとして惹かれるものがある。最も圧倒されたのはチャーチルの生家ブレナム宮殿の図書室、ごく最近「これは素晴らしい!」と感銘を受けたところは東洋文庫のモリソン書庫、いずれも「こんな所で本を読みながら最後を迎えられたら」と思うような雰囲気、私にとっては天国に等しい。本書は著名な稀覯(きこう)書・古写本などのミステリアスな行方の謎解きやそれらに絡む犯罪的取引の裏話を交えながら、今は存在しないアレクサンドリア図書館から未来の仮想図書館まで有名な図書館を巡る話である。
著者は豪州人の作家・古書売買史研究家かつ取引業者。この世界に入り込んだ動機は、ある社会調査機関の研究員をしているとき、メルボルン大学のブックセールで古めかしい活字で印刷された美しい本(出版年1814年)を入手し、調べていくうちにそれが大変な価値を持つことが分かったことに始まる。一念発起、この分野の専門家に成るべく、学ぶべき課程を自ら設計、書物売買に関する修士号そして法学博士号を取得するのだ。その後訪れた図書館は数百(文中から察するとその多くは欧州だが、米国、母国豪州、南米、中東、中国などに広がる)。また図書館のタイプは、国立図書館、一般市民向け図書館、会員制図書館(非常に排他的なところもある)、学術図書館、企業図書館、クラブ付属図書館、ささやかだが豪華な個人図書館など多彩だ。訪問の第一の目的はそこに在る蔵書(特に、稀覯本の発掘や入手過程に注力)そのものだが、整理/保存/展示状態、図書館の構造(隠し部屋などがあり、そこに所有者も気づかぬような貴重な本があったりする。また、採光、換気、温度/湿度への配慮の程度。本棚や書見台)の調査も欠かさない。本書で紹介されるのはこのような活動を通じてもたらされた、興味深い話題の数々である。
現在のように一般人が利用できる図書館が出現するのはここ23世紀のことだ。しかし、文字の無い時代からそのような機能は既に存在していた。それは口誦伝承で神話や宗教上のしきたりなどを伝える世界、最古のものはオーストラリア中央部の原住民がつい最近まで受け継いできたものらしい。似たようなものはインカ文明やフィリッピンの原住民にもみられる。本書はこんなところから始まり時代を下って行く。図書館はライブラリー、これはラテン語だがブック(本)はゲルマン系の言語に発する。しかし、二つの語源を辿ると、ライブラリーは樹皮、ブックはブナの木を指す。両方とも記録材料から来ていることに共通性がある。導入部はしばらくその材料を概観する。ナイル河畔に植生するパピルス草の髄、骨、竹、羊皮紙、皮の最高級品は子牛の胎児の皮膚、そして紙。初期の書物は巻物、保存方法や目的に適った本を見つけ出すのも大変、内容検分はさらに容易ではない。焼失したと言われるアレクサンドリア図書館は当時世界最大の巻物図書館であった。グーテンベルクの印刷術発明以前にも木版による複数コピーは行われていたものの、大多数は一冊ずつ人によって写し取られた写本、材料は高価だし人手もかかる。低識字率と相俟って利用者も限られる。中世の図書館はほとんど教会や修道院付属であり、書くのも読むのも宗教関係者が中心だ。本の制作過程も時代とともに変化する。写字師・写本師(単純な写字に装飾を施す)・装丁師、場合によって翻訳師などの専門職が生ずる。浮世絵の絵師・彫師・摺師と似ている。アテナイに発した図書館はアレクサンドリア、コンスタンチノープル、ローマ・ミラノ・フィレンツェへと中心を移し、ルネサンスと印刷術の発明で開花していく。
製本・出版の動向を語った後に来るのが、古書・稀覯本の収集や流通に関する話題である。贋作あり、海賊版あり、仲介者に依るすり替えあり、館長とキュレーターの不正売買共謀あり、価値あるページの切り取り詐取あり。教会関係者や王侯貴族、大金持ち(例えばJ.P.モルガン)が稀本を求めて丁々発止の競り合い/騙し合い/抜けがけを行う。大英図書館やヴァチカン図書館のような有名図書館と言えども詐欺もどきの事件に巻き込まれたりする。それが今に続く古書/稀本を巡る世界、本書を基に“ダ・ヴィンチ・コード”が何冊も書けるのではないかと思うほどだ。
さて書物の電子化が進む今日この頃、著者はこれからの書籍・図書館をどう見ているのだろうか?「マイクロフィルムやスクリーン上で本を読むのは、どこか物足りない。それは窓ガラス越しに恋人とキスをするようなものだからだ」と結ぶ。図書館の本と自分が買い求めた本の違いもこれと全く同じ感じがする。
現存する著名な図書館のカラー写真も多数あり、ブレナム宮殿や東洋文庫で味わった気分を書上で再現出来たことも読後の充実感をいや増した。

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2019年4月30日火曜日

今月の本棚-129(2019年4月分)



<今月読んだ本>
1)ファナックとインテルの戦略(柴田友厚);光文社(新書)
2)ドイツ帝国の正体(イエンス・ベルガ―);早川書房
3)大統領とハリウッド(村田晃嗣);中央公論新社(新書)
4)数学する人生-岡潔-(森田眞生編):新潮社(文庫)
5)「作戦」とは何か(中村好寿);中央公論新社
6)崩れる政治を立て直す(牧原出);講談社(新書)

<愚評昧説>
1)ファナックとインテルの戦略
-知られざる、世界の製造業を支える日本の工作機械技術-

大学では機械工学を学んだ。基幹となる科目は、材料力学・熱力学・流体力学の3力学、そこから材料加工(塑性、鋳鍛造、切削)・熱機関(ボイラー、内燃機関、タービン)、流体機械(ポンプ、圧縮機)などの具体的な機械類に関する学問が派生していく。その一つに“機械を作る機械”と言われる工作機械がある。地味な分野だが製造業の根底を支える重要な機械ゆえマザーマシンとも称される。
私が専攻したのはこれら主流分野とは一味異なる制御工学、分かり易い言葉ではオートメーション、学んでいた時代には、純然たる機械よりも電気・電子機器や装置工業を対象とした利用が進んでおり、“ガソリンエンジンの調速(回転数制御)”を卒業論文のテーマにしながら、石油会社に就職したのもそんな時代背景に依る。今、自動車エンジンが制御システムの塊であること、さらには自動運転普及が間近いことを見るとき、昔日の感がある。ロボットまたしかり。搬送機械(各種コンヴェア)は既にあったものの、今日のような変幻自在にマテリアルハンドリングが可能な産業用ロボットが出現する兆候はまるでなかった(私の出た研究室は後にロボット研究が中心となる)。ある意味、理論やアイディアが先走り過ぎていた領域とも言える。
伝統的・基盤的機械工学の粋工作機械と先端的な制御工学の融合にはしばし時間を要する。つまりICTの発展/普及である。就職後、計測制御学会誌で頻繁に目にする“稲葉清右衛門”と言う古風な名前が所属会社である富士通とともに脳裏に刻まれるようになっていった。今や世界一の工作機械制御システムメーカー、ファナック社生みの親である(95歳、いまだお元気なようだ!)。本書はそのファナックを中心とした「工作機械産業発展史」であり、そのファナックがインテルといかに深い関係にあったかを辿るものである。
工作機械と一口に言っても種々のものがある。旋盤、ボール盤(穴あけ)、フライス盤(立体加工)、中ぐり盤、平削り盤、歯切り盤(歯車)、研磨盤などが代表的だが、プラスチック成型機や放電・レーザー加工機、自動溶接機などもその範疇に加えることもある。そして、嘗てはそれぞれが単能機として生産販売されていたが、ICTを利用して複数の機能をこなすものが出現、マシニングセンターと呼ばれる。
約四半世紀の長きにわたり日本は工作機械生産高(金額)トップの座にあったが最近は中国が首位、しかし高性能機では依然先頭の位置に在り、これをドイツが追う形になっている。特に日本が強いのがCNCComputer Numerical Control;数値制御)装置付きのもの、ファナックを始め安川電機、三菱電機などがこれを生産している。世界市場で変化が激しかったのが米国、CNCのアイディアを1952年に試作実現(MIT)、1965年には世界全体の28%を占めていたものが1986年には10%に低下、現在も回復の兆しはない。何故か?ここが本書の一つの読みどころであり、ファナックが世界一になる因と重なる。
先に挙げた日本のCNCメーカーはいずれも工作機械メーカーではない。種々の工作機械を作っているのは、ヤマザキマザック、森DMG(ドイツとの合弁だが森精機がマジョリティ)、オークマ、東芝機械、牧野フライスなどの工作機械専業メーカーである。これらの会社はいずれも世界は無論、我が国においても決して大企業ではなく、自社で専用のCNCを開発するには経営資源が充分でなかった。一方ファナックは富士通の社内ベンチャーとしてスタート、研究開発段階では特定の工作機械メーカーと組むものの、最終的なゴールはあらゆる工作機械企業/機種を対象にしたい。ここから汎用標準志向が生まれ、そこに複数需要家とのコラボレーションが生じ、他の日本メーカーもこれに追随する。対して、米国の工作機械メーカーは既に市場を世界に広げており、規模も大きいので自社マシン専用のCNCを開発、工作機械との相性は良いが汎用性は無い。ここが勝負の分かれ目だったわけである。
ファナックがここに至るまでには種々の苦労がある。後に我が国ナンバーワンのコンピューターメーカーに転ずるものの、稲葉が新規事業開発者に指名された際(1956年)は電電ファミリーの通信機メーカー、自社コンピュータなど存在しない。初期の大きな成果は、正確な位置決めを行える電気・油圧パルスモータの発明(発想は電話用自動交換機から)と円弧と直線で機械部品の形状を計算するアルゴリズムの開発。制御の頭脳部分は、当初自社製専用機、やがて富士通本体の汎用機や工業用ミニコンなどをベースにCNCを開発していくのだが、工作機械本体より高価な制御装置は導入先が限られる。そこに現れたのがインテルである。インテルは一時メモリー用ICのトップランナーだったがやがて日本のメーカー(富士通を含む)に市場を奪われ、言わばファナック同様社内ベンチャー的にマイクロチップCPUMPU)の開発・生産を始める。最初の大手顧客は日本の電卓メーカービジコン社。次いで東芝系POS端末機メーカーテック社も採用、それら一連の動きにファナックが着目、1975CNC用に採用を決める。これはPCベンダー(IBMを含む)よりはるかに早い時期である。こうしてインテルとの連合がなり、両社に世界一への道が開けていったのだ。
今後の問題として、3Dプリンター出現に依る工作機械自身の変化、市販PC利用のCNC、中国の「製造2025」政策(工作機械は最重要品目のひとつ)などあるが、著者は積み上げてきた膨大なユーザー情報を含め、後発とはソフトノウハウ領域で相当差があると見ている。高性能工作機械あっての各種高品質製品である(母性原理;Copying Principle;部品はそれを加工する工作機械の精度を超えることは出来ない)。我が国製造業競争優位のために、その差を維持し続けて欲しいものである。
最後に、日米CNC盛衰の歴史を自動運転システム開発の世界に敷衍し、自社専用システム(各自動車会社)と汎用システム(グーグルなどの非自動車企業)の将来に問題を投げかける。果たして本流はどちらになるか?と。
著者は京大理学部卒業後ファナックに入社、開発技術者として10年余勤務した後筑波大学MBAコース修了、現在は技術経営戦略やイノヴェーション経営などを専門とする東北大学大学院経済研究科教授(工博)。実務を経験し内部事情に詳しい研究者ゆえ、現存する関係者(主に元富士通役員)への取材や社内資料にもアクセス可能、かなり特殊な世界だが、臨場感をもってファナックの発展過程が伝わる内容になっている。また、あとがきの中で「日本企業のディジタル化への遅ればかりが悲観的に指摘される昨今だが、目を向けている産業や企業に偏りがあるのではないだろうか」と疑義を呈している。全く同感である。

CNC装置理解のための参考動画;単能機として最も高度な工作機械フライス盤操作。これはCNCが導入される以前の熟練工によるその操作過程。加工物や切削工具の取付け/取替え、身体の動き(腰・肩・肘・膝・手首・指先)、各種測定器の利用、やすりを始めとした工具の取扱い;この匠の動きをICTに置き換えたものがCNC装置なのだ。ユーチューブ「TOKYO匠の技」より引用;https://www.youtube.com/watch?v=UOVxMv2hKSQ

2)ドイツ帝国の正体
-一見好調な経済/健全財政の範、資産/所得格差で見る実態は意外な姿だ-

グローバル化が日に日に進んでいる。私の住んでいる横浜の南の果てにもネパール人の営んでいるインド料理店があるし、駅の案内表示板には漢字・ひらがな・ローマ字・ハングルの4文字が併記。こんな世界との身近な関係、それぞれの人はどのように作り上げ、対応しているのだろうか。
私の“国際関係”は、主として石油とICTの十字路で行き交った人々だ。ここで得た友人/知人の存在は、対日関係がかなり厳しくても、メディア報道とは違った気持で受け止め、「政治家とメディアこそ諸悪の根源(両者とも国内で生きるしかすべはない)」と片付けられる。そんな中で、私が唯一好感の持てない大国がドイツである。日清戦争後の三国干渉から始まり黄禍論、果ては上海事変での国民党軍支援、この国は日本の国力を抑え込むために、あの手この手と陰険に振る舞ってきた歴史を持つ(例外は三国同盟のみ)。ドイツ人の名刺は10枚程度あるが友人/知人は皆無、他の国とは付き合いの濃さが違う。だから私の対独観はかなり偏ったものだと承知した上で、最近とみに日本に批判的(EUにおける中国・韓国の代弁者の感さえある)なこの国の今を知っておく必要を感じ、本書を手にした。
著者はドイツ人ジャーナリスト、ドイツで大人気の政治ブログ「シュピーゲルフェヒター」の執筆者。残念ながらその程度しか、解説を含めて著者像は記されていない。情報・データがしっかりした内容から、かなり優れたジャーナリストと推察できる。また、フランス人や日本人でなく、その国の人間が書いたところに本書の価値がある(外国人バイアスがかからない)。
取り上げるテーマは、ドイツにおける“格差社会”、その点で帯にある「ドイツ版ピケティ」はぴったりだが、ピケティがアングロサクソン型資本主義(新古典主義)全体を対象にしたのに対し、本書はドイツの土地所有に関する歴史と戦後の経済政策や税制、企業経営環境に絞り込んでおり、より国内事情を深耕したものと言える。この具体性を持った展開から、論旨;1990年代までドイツは比較的資産が公平に分配されている国だった、しかしその後格差が拡大、その根源は保守(キリスト教民主同盟;CDU)・革新(社会民主党;SDP)両党の政策にあった。特に富裕層に対する所得税と遺産相続税が問題だ。今やそれは限界にきている;の理解は容易に進む。
分析の基となるのは所得と資産に関する数字である。著者は先ずこれらに疑問を呈する。特に富裕層のそれが如何に把握し難いかを、国勢調査の方法や行政の情報開示姿勢まで踏み込んで質し、公開情報に独自の分析を加えて推算値を算出する。次いで非富裕層のそれらについても検証、社会的な背景を踏まえ、他国と単純比較して騒ぎ立てることに警告を発する。例えば「ドイツ一世帯当たりの資産はギリシャより少ない」などと言う流言飛語が如何に実態にそぐわぬかを、社会構成や福祉政策の違いから詳らかにする。つまり、ギリシャ人は家族主義で一世帯の人数(働き手)が多いこと、教育・医療・年金を国に頼れる社会ならばせっせと個人資産を蓄えようとはしないこと、に数字の魔術が潜んでいることを示す。しかし、こうして基本的な数字を正してみても、明らかに格差は拡大傾向にあり、その進み具合は急角度だ。どこに原因があるか?
資産に大きな割合を占めるのは我が国同様不動産だ。ここでは大土地所有の歴史を手短にたどる。ドイツは領邦国家がまとまって出来上がる。王・領主と臣下の関係は土地の授受と密接に結び付き、戦前は多くの大土地所有者(概ね旧貴族と教会)が存在した。戦後それらは、復興のために国(西ドイツ)に召し上げられるのだが(最高50%)、その時点での土地評価額に相当する金額を長期(30年)にわたり国家に払うことで、所有権を回復する仕組みになっていた。その後の目覚ましい経済成長で所有する土地価格は急騰、これが所有者の莫大な財産となり(資産インフレ)、加えて低い資産税(世界で最も低い国の一つ。本書で固定資産税という用語は出てこない)と相続税、持てる者と持たらず者の格差を作り出し、中産階級の固定資産形成を難しくしている(自宅所有世帯は50%以下、OECD加盟国ではスイスの36%に次いで低い)。
次の対象は所得。多くの勤労者や個人企業経営者にとってこれは賃金や利益である。各国から移民が仕事を求めてこの国にやって来ることから、さぞ恵まれた環境にあると思いきや、中産階級の中核を成す高学歴者の職場はミスマッチングが目立ち、必ずしも望む仕事に就けない。1993年以降賃金はほとんど横這い状況。個人企業はスーパーや量販店におされてじり貧。一方でクローズアップされるのは資産が生み出す所得、地代・家賃や株式配当である。日本同様一般庶民の株式保有は極めて少なく、古からの資産家(配当ベストテンには、BMWオーナー家、ポルシェ一族(フォルクスワーゲン)、メルク家、シーメンス家、ヘンケル家などが名を連ねる)や正体がはっきり追えないヘッジファンドに大きく偏っている。そしてこれらの所得に関する税は、45%の通常の所得税ではなく、25%の資本収益税で済まされる。またこのような税制を批判してしかるべきメディア(主に新聞)も特定のファミリーに寡占されており、そこからの政治献金と相俟って、税制批判に矛先が向かわない。
独特の社会的市場経済システム(かつての日本同様国家主導の資本主義)が大きく崩れ出すのは、レーガノミックス、サッチャーの国営・公営企業の民営化と時代を同じくする。SDPのシュレーダー(独)政権の下から始まり、CUDのメルケルがそれを加速させる。公的年金の民間生命保険(年金;運用リスクが大きい)へのシフト、公営集合住宅の縮小と民営アパートの増大、中産階級の資産・所得は富裕層(家主)や大企業(保険会社)に移り、格差はますます拡大する。結果;上位80万人の資産と残り8千万人(下位20%はほとんど資産無し)のそれが同額となり、ジニ係数(ゼロが貧富の差なし、1が最大格差;以下に示す数値は著者が独自に諸データから推算したもの)は0.78(露;0.91、中;0.69、仏;0.68、英;0.67、日;0.55、何故か米はない)となる。一見健全に見える財政バランスも広義の社会福祉民営化やインフラ投資の圧縮で実現しているのだ。
原題は“ドイツは誰のものか?”。答えは、古くからの大地主、伝統的資産家、一部の戦後成金(特にスーパー創業者)それに国際金融資本である。国を国民の下に取り戻すためには大胆な税制を中心とした社会改革(戦後のように富裕層の財産のかなりの部分を国が取り上げる)しかない!である。
読後感;とにかくそろえたデータ(多面的に検証)が凄い。これをベースに戦後ドイツ政治経済が辿ってきた道を踏まえ、今日の惨状を章ごとに簡明(図・表を多用)かつ定量的に要約するので、説得力抜群。依然嫌らしい国と思っているが、多くの国民には同情の念すらわいてきた。ピケティブームに便乗し、自分の意見に都合の良いデータだけ抽出し、TVや新聞あるいは本などでごちゃごちゃ言っている、我が国の学者やエコノミスト、評論家、ジャーナリストに「少しは本書の爪の垢でも煎じて飲め!」と言ってやりたくなった。

3)大統領とハリウッド
-皆リンカーンを目指す米大統領、映画を通した米国政治通史-

いよいよ平成が終わり令和が始まる。本書を読みながらフッと思ったのは(米大統領と比すべきことではないが)「今上(平成)天皇が映画に登場したことはあるだろうか?」との疑問である。波乱に満ちた昭和時代は、戦後太平洋戦争に関わる映画が数多く制作され、遠景や影のような形も含め、著名な俳優たちが昭和天皇を演じていた。私の記憶に強く残るのは1967年公開の東宝映画「日本のいちばん長い日」、ポツダム宣言受諾から終戦の詔勅(玉音放送)が発せられるまでを描いた作品である。監督;岡本喜八、鈴木貫太郎首相;笠智衆、阿南惟幾(これちか)陸軍大臣;三船敏郎、米内光政海軍大臣;山村聰、そして昭和天皇は松本幸四郎(八代目)が扮した。それに対し今上陛下が即位後映画で取り上げられることはなかったように思う。ただ、皇太子時代ご学友だった藤島泰輔が小説「孤獨の人」を出版、ベストセラーとなり、これが日活で映画化されたことは、観てはいないのだが、こちらも多感な高校生だったからよく覚えている。右翼や学習院の反対で大騒ぎになったのである(出演した在校生は退学処分になった)。そんな我が国にくらべ、映画俳優が大統領になってしまうような国では、大統領が登場する多くの作品が作られている。本書はそれらを、歴史を辿り、当時の社会情勢を背景にしながら、解説するものである。
米国大統領選は有権者が選挙代理人を選び、その代理人が大統領を選ぶシステムになっている。つまり厳密な意味で直接選挙ではない。今回のトランプ対ヒラリー戦でも得票数ではヒラリーが僅かに上回っていた。しかし、あまねく有権者に認知してもらわなければならないと言う点においては直接選挙と事情は同じだ。欧州各国や日本と異なり、広大な国土に散在するその選挙民に如何に候補者として売り込み、政治理念や政策を理解させ、支持を取り付けるかは工夫のしどころである。新聞、鉄道、通信、ラジオ、映画、TVそしてネットへと中核媒体は変化してきた。その中で映画/映画人の影響力は依然大きい。本書では、個々の大統領と映画の関係を語るばかりでなく、政治における映画の果たしてきた役割をリンカーンからトランプまでたどり、米国政治史を概観する。
総じて反権力志向が強いハリウッドとワシントン(政治家)の関係は常に緊張関係をはらむ。マッカーシズムが荒れ狂った1950年代はその頂点とも言えるが、ヴェトナム戦争時のニクソン、ジョンソンそして今のトランプ政権、いずれも決して良好な関係とは言えない。一方で国家非常時、特に第二次世界大戦では戦意高揚のために映画ほど役に立つものはなかった。ローズベルト大統領はラジオで国民に直接語り掛けるとともに、ハリウッドを最大限に利用する(アカデミー賞授賞式に初めてメッセージを贈った大統領)。政治家の方がセレブを宣伝材料とするケース、俳優の方が積極的に接近するケース、双方それなりに利用価値ありと認め合っているのだ。そこから大統領(レーガン)や知事(シュワルツェネッガー)、市長(クリント・イーストウッド)も生まれる。古いところではゲイリー・クーパーやクラーク・ゲーブル、バートランカスターから、フランク・シナトラ、サミー・デイヴィスJr、近くは「彼が大統領?見習いか?」とやった反トランプのハリソン・フォード、ロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリーブまで、皆さん政治が大好きなのだ。本書の読み方第1部(そのような構成になっいるわけではない)は、この実在人物に関する話題である。そして第2部はハリウッドに描かれ、登用された大統領たちである。
最も制作本数が多いのは歴代大統領人気No.1のリンカーン、当然 内容も好意的だ。一章を割いてリンカーン映画の系譜をたどる。現職で初めて暗殺された大統領、19世紀最大規模の戦争、南北戦争を戦った大統領、題材に事欠かない。また、写真は残るが、音声も映像もない時代の人物ゆえ作る者・演じる者に自由度が大きい。数々の名作が制作され、のちの大統領がこれを範とする傾向さえ生む。ホワイトハウスでは大統領やその家族が映画を楽しむ会がしばしば催されるが、その嚆矢となったのは19153月ウィルソン大統領と家族が観た「国民の創生」、南北戦争とリンカーン暗殺を主題とするものである。戦争の危機が迫ると、国民の気持ちを一つにまとめたい。リンカーンほどそれに適した存在はない。1939年ジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演の「若き日のリンカーン」が人気を博す。
現役で暗殺されたと言うことでは、ジョン・F・ケネディ大統領がこれに重なる。現実世界ではハリウッド女優と数々の浮名を流したような人物だが、映画では若々しいリーダーとして描いたいくつもの作品が制作され、“第二のリンカーン”として神格化されていく(因みに暗殺されたとき乗っていたオープンカーはリンカーン)。しかし、ケネディ家には暗部ある。赤狩りで一時名を成したジョセフ・マッカーシー上院議員はアイルランド系、ケネディ家と同じだ。ジョンの父親、ジョセフ・ケネディは彼のスポンサー、多くの映画人(チャップリンを含む)追放に一役買っている。
映画が描く善玉がJFKなら悪玉はハリウッドの近くで生まれ育ったリチャード・ニクソン大統領。ウォーターゲート事件を扱った「大統領の陰謀」はそれを暴いたワシントンポストの二人の若手記者をダスティン・ホフマン(カール・バーンスタイン)とロバート・レッドフォード(ボブ・ウッドワード;昨年秋トランプ大統領を描いた「恐怖の男」を上梓)が演じ、四つのアカデミー賞を受賞している。ただし、ニクソンは出てこない。
そしていよいよ「銀幕の大統領」レーガンの登場である。若い頃俳優組合の委員長を務めながらマッカーシーの非米委員会に協力するなど政治には早くから関わり、カリフォルニア州知事そして大統領にまで昇りつめる。就任式は「ハリウッド都へ行く」(これは戦前ヒットした政治映画「スミス都へ行く」のパロディ)と言われるほど大勢のスターが参集した。大統領として発言する時、当意即妙で有名シーンの決めゼリフを使ったとも言う。暗殺未遂事件が起こった1980330日はアカデミー授賞式の日であったのも何かの因縁だろう。この事件は後にTVドラマ化されている。真っ当な役以外にもレーガンの言動は映画の中で利用される。「バック・トゥー・ザ・フューチャー3」では過去に戻った博士が、レーガンが大統領と知り「副大統領はジェリー・ルイス(50年代人気のあった喜劇俳優)かい?」とやる。しかし、揶揄されたわりには、退任時の支持率は就任時を10ポイント以上上回ったと言うからハッピーエンドと言える。
内容の濃淡はともかく、トルーマン、アイゼンハワー以下オバマ、トランプまで戦後の歴代大統領はすべて映画と絡めて棚卸しされる。
映画ファンにとっては興味深い話満載だが、芯はかなり真面目な米国政治通史、興味本位の際物では決してない。ハリウッドの反権力(経営者以外)の根底にリベラリズムがあり、それを醸成してきた優れたユダヤ系監督・脚本家・俳優の存在が浮かび上がってくることなどその一例と言える。
著者は201316年同志社大学学長を務めた法学・政治学研究者。こんな先生に一般教養で巡り合えていたら“大学教育における教養”の意味を少しは正当に解釈できたかも知れない。

4)数学する人生-岡潔-
-俗世を捨て、念仏を唱えながら解き明かした難題。「数学は禅である」-

小学校入学来、分かった時・解けた時の爽快感が抜群だったのは算数である。他の教科では決して味わえない気分だ。一方で、ジワーッと時間をかけて知識欲が満たされてくるのは歴史である。しかし、数学は進級・進学するに従い分からぬことが多くなり、今ではその歴史を辿ることにのみ関心が移ってしまっている。だから最近好んで読むジャンルは、数学の歴史や数学者の伝記・随想など。本書を手に取った動機もそんなところにある。
岡潔の名前は文化勲章受賞時(1960年)から知っていたし、メディアがその奇人変人ぶりを面白おかしく報じていたのも記憶に残っている。しかし当時は技術者教育を受けている真っただ中、純粋数学の世界に興味は全くなく、断片的に目にする仙人のような暮らしぶりにも関心はなかった。忘れかけていた人物が半世紀以上経て書籍出版案内で伝えられたとき「アッ!この人が居た。読んでおかなければ」となった次第である。本書は岡の自著ではなく、若い数学者が講義録、エッセイ、小論文、投稿週間日記、夫人の書き物などを集め編集したものである。従って、岡を系統立てて理解するには適していないものの、常人には奇異とも思える生き方について、その根源が漠然と見えてくる内容である。
純粋数学の未到領域を開拓するには、前提条件設定や論理展開に既存の知識や枠組みを超えた発想が必要で、そこを探るところが最も基本となる挑戦域らしい。その発想の手掛かりを岡は禅(道元禅師の教え)に見出し、「表現法は異なるが、禅と数学の本質は同じだ」と悟る(?)ことになる(1個、1人の1は意味を持つが、裸の数字1は何なのだろう?)。また論理で理解するのではなく“情緒”こそ数学理解の根源だとする(ここで言う情緒は一般に膾炙される意味とは異なり、岡自身 その“情緒”を何度も説明する;スミレが美しいと感じるその美しさは自分と他の人とでは違いがある)。当に禅問答なのだが、こうしたところから純粋数学が世界を広げ、それが応用数学につながり、さらに工学など実用数学の適用域を広げていったことを考えると、(既に解法が分かっている)問題解答に喜びを見つけていた浅学の徒に、あらためて数学の奥の深さ、凄さを教えてくれた(理解できたわけではないが・・・)。数学は確かに哲学の一つなのだと。
このような独特の世界観に何故至ったのか?これも編集された諸文から探るしかない。1901年生れ、旧制三高から京大理学部物理学科に進み3年次に数学科に変わる。卒業後講師(1925年、結婚)、助教授(1929年、28歳)、同年フランス留学(パリ大学ポアンカレ研究所中心)、3年間滞仏、ここで生涯の研究テーマとなる多変数複素関数論(当時の最先端分野)の一課題(ハルトークスの逆問題)に取り組むきっかけをつかむ。ここまでは若き研究者として順風満帆に見える。1932年帰国を前に広島文理科大学(現広島大学)助教授に任ぜられる。この異動(京大助教授→広島文理科大助教授)をどう解釈したらいいのか不明だが、ここからしばらくすると理解に苦しむ経歴が続く。1938年既に2児(長女、長男)があるのに休職して郷里和歌山県紀見村へ帰郷。1940年大学を自ら辞職、前後して京大より理学博士の学位授与。1941年何と北大理学部“研究補助員!”(単身赴任)に就いたあと翌年はそれも辞して再び和歌山に戻っている。1948年無職の田舎暮らしの中、第7論文がフランス数学会に受理される。翌1949年奈良女子大学教授に就任、その後第8論文が日本数学会欧文誌に掲載、このあたりで研究課題に対する業績が認められ、1951年学士院賞受賞、1960年文化勲章受章となっていく。広島文理科大学を辞めてから奈良女子大学に就職する間約10年、戦争を挟んだ混乱期、実家は大地主などではないから(父親は日露戦争後保険外交員をしている)、生活が相当苦しかったことは夫人の一文からも推察できる(売り食いをして何とかしのいだ)。一方で、念仏を唱えながら、重要な論文が一つ一つ発表されていくのもこの期間なのである。
修験者のような日常から大発見が生まれる。このきっかけはやはり在仏体験にあるようだ。優れた西洋数学の後ろに厚いラテン文化が在ることを感じたいたことが滞仏記の中に出てくる。フランスに居ながら在仏邦人を通じて、考古学や俳句、日本文学などそれまでの日本では触れたこともない分野に関心を高めていく。「外国に出てあらためて日本を再認識する」、ある意味よくあるパターンだが、ここから種々の日本文化の根幹共通因子を探ろうとするところは、やはり常人とは違う発想だろう。多くの芭蕉の句の奥に道元禅師の教えを感じ取り帰国後それに傾注していく。行き着いた先が「日本の数学は日本文化に基づくべき」である。
本書は先にも述べたように岡の自著ではない。編者は最初に、岡が奈良女子大を停年退官したあと勤務した京都産業大学の定年退任最終講義を持ってくる。ここで岡は持論の知・情・意・情緒論を展開しながら、西洋の時間と空間の枠内にとどまる学問を批判し、五感では把握し得ない世界の存在を示唆して結ぶ。ぼんやりと言わんとすることが見えてきたような気がするのは歳のせいか、はたまた編者の力か。この最終講義は1971年、経済成長に伴う社会問題(例えば公害)続出の時代、それからおよそ半世紀、科学・技術では欧米に追いつき、一部は追い越した感のある我が国は昨今停滞の局面に転じている。あらためて岡の主張に耳を傾け学ぶ時が来ているのではなかろうか。科学・技術のみならず企業経営もまたしかり。
編者は1985年生まれ、東大文科2類に入学しながらITヴェンチャービジネスに惹かれ理学部数学科に転じ、卒業はできたものの大学院進学に失敗、数学道場を主宰したのち現在は在野で研究活動に励んでいる異才。「数学する身体」で2016年度小林秀雄賞(文芸評論)を受賞していることからも、常人離れした岡潔の紹介者として適任の人物と推察する。

5)「作戦」とは何か
-軽視されてきた「作戦」の意義を質す。だから戦略が誤用・乱用されてきたのだと-

軍事用語(兵器や階級は別にして)を知ったのは何をいつごろかだろうか?物心つく前に知っていたのは多分“兵隊さん”、これは「今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです。・・・兵隊さんよありがとう」と言う歌を今でも部分的に歌えるからである。それから部隊・隊長などは小学校入学時には知っていた。一方で戦略・戦術などは、日本の空が占領下から解放され、飛行機雑誌に戦略空軍・戦術空軍などが表れてからだ。では“作戦”はどうだろう?小学校の卒業謝恩会、他のクラスが「ビルマの竪琴」を演じた。その時同級生の誰かが「あれはインパール作戦の話だ」と説明してくれた。記憶に残る最初の作戦はこれだったように思う。その後、映画・小説・ノンフィクションで頻繁に作戦を目にしてきたが、この言葉に特別な意味を感じたことはなかった。しかし、軍事に詳しい経営コンサルタントの友人が、企業経営における“戦略・戦術”と言う言葉の誤用・乱用を戒め、<目的、構想>である“戦略”と<時間/空間を伴う具体的な戦い方>である“戦術”の間に<実行計画>としての“作戦”を挟むことによって、戦略・戦術の曖昧さを正すことが出来るとフェースブックに記していた。これは“目からうろこ”であった。そんな折たまたま本書を書店で見かけ、早速読んでみることにした。
著者は1943年生れ。防衛大学校を卒業後陸上自衛隊の要職(幹部学校戦略教官、東北方面総監部幕僚)を務め、この間スタンフォード大学に学び、米海軍大学院講師、米国防大学客員研究員なども経験、最後は防衛研究所主任研究員で退官したバリバリの専門家である。以前(2001年)「軍事革命(RMA)」(中公新書)が出た際それを読んでおり、我が国には数少ない軍事“学者”のイメージが強く残っている。一つは言葉の定義付けがかなり厳密なこと、次は諸論の歴史的変遷を追うこと、それらを踏まえて諸外国の取り組み姿勢の変遷および現状を論述し、自衛隊のそれと対比、著者の考える“あるべき姿”を提言する手順であったこと、がそんな感を抱かせたのである。
用語の定義をそれらの歴史から説き起こす点、関連する諸家(軍人、軍学者)の説を概説する点は、前出の書および多くの社会科学系学術書に共通する構成だ。同じ語でも「」付は著者の定義に依るもの、「」が無いものは一般的な用法と言うほど言葉にこだわる。歴史展開と言う点では、ナポレオン前から第一次世界大戦前まで、その後冷戦期まで、ポスト冷戦期の3部構成になっている。用語解説の観点からは断然1部・2部が面白く、作戦の位置付け/意味もはっきりしてくる。第3部(著者としてはここ重点を置く)は国家対国家と言う戦争形態が崩れ、テロやゲリラを対象とする戦闘・紛争あるいはPKO活動が軍事行動の中心になってきているため、戦略(戦いの構想/目的)そのものが従来と大きく異なり、それが作戦に影響を及ぼしている(純然たる軍事行動以外の諸策の必要性;軍事制圧後の社会安定化)ことに重心がシフト、ここは現代戦争論と言った内容に変わる。
“作戦”の位置付けは戦略と戦術の間にあるものと明確に記すものの、歴史的に戦略・戦術の意味が時代や提唱者/援用者によって異なるため、作戦の概念が長くクローズアップしてこなかったとしている(特に、大戦略、政略、大戦術などとの使い分け)。この語を現在の位置付け/意味で意識的に使用した最初の人物は(大)モルトケ。クラウゼヴィッツの戦争論にある「戦争は他の手段をもってする政策の一部」に早くから異論を呈し、政治戦略と軍事戦略は上下関係ではなく、並列の位置に在るもので、「政治は軍事作戦に介入すべきでない」と普仏戦争におけるパリ砲撃(具体的軍事行動に対する計画)に反対したビスマルクを批判する。しかし、このような著名な軍人が作戦の役割を明示したにもかかわらず、ドイツを除く欧米各国では1980年代まで作戦(Operation)と言う用語は“封印”されてきた、と言うのが著者の見解である。これには読者として大いに疑問を持つ。例えば、ノルマンディー上陸作戦は上陸までをOperation Neptune、パリ解放までをOperation Overlordと正式に名付けているし、Operationは随所に使われている。どうも本意は、先に述べた戦略/戦術の曖昧性から<戦略-作戦-戦術>と言う形で公式に取り扱われてこなかったところにあるらしい。もう一つ、作戦が科学(サイエンス)と技能(アート)の重複域に在り、比較的科学性が勝る戦略/戦術に対して説明/理解し難いところに、普及しなかった因があるとしている。これは作戦の本質に迫る興味深い見方である。
援用される軍人・軍学者は、孫子、クラウゼヴィッツ、ジョミニ、モルトケ、フラー、リデル・ハート、トハチェフスキー、シュワルツコフ(湾岸戦争司令官)など。戦い方として紙数を割かれているのは、南北戦争からヴェトナム戦争に至る米軍の消耗戦(物量とテクノロジー重視)、ナポレオン戦争から第2次世界大戦までのロシア・ソ連の縦深作戦(作戦重視)。著者はそれぞれの国としての戦い方に一貫性があるととらえ、“作戦”の位置付け/意味付けの違いを対比、作戦優位こそ勝敗のカギであるにもかかわらず、米軍にはごく最近までそれを重視の考え方は無かったと。そしてそれに追随してきた自衛隊も問題山積と警告を発する。
企業経営にも数カ所でごく簡単に触れてはいるものの、本書は純然たる軍学の書である。作戦に関する理解を深めるために、作戦戦域、作戦手段(作戦機動、作戦火力、作戦情報、作戦予備、作戦兵站)などを詳細に説明するが、一般人が直感的に理解/引用できる簡潔な表現はない。従って“経営作戦”に活用するには、それなりの咀嚼力と創造力(一旦抽象化して自分の世界に投射する力)を要すること必定。それでもこのような一般向け書籍が無かったことを考えれば、経営戦略をうんぬんする前に読んでおきたい一冊とは言える。

6)崩れる政治を立て直す
-繰り返される改革の失敗。「姑息な官邸主導ではダメ。官をその気にさせることがカギだ!」-

自由主義・民主主義を信奉し、総じてこれまでの日本の政治環境/施策はそれほど悪いものではなかったと思っている。不満はあまりにも世襲議員が多いことにある。北朝鮮は3代にわたる世襲。しかし、我が国では既に3代目・4代目国会議員が続出している(例えば、小泉4代、麻生・鳩山・安倍・河野3代)。つまり政治家が家業になっているのである。これでは組織防衛を本務と考えているような官僚(良質ではあるが)と相俟って、既得権が強固に守られ、激変する世界情勢に適合できず、ガラパゴス化するわけだ。折しも平成から令和に代わる時期、世襲は天皇制だけで良い(これだけは世界に類のないシステムであり、是非守っていきたい)。私も含め、こんな硬直化した政治状況を何としても変えなければならないと念じている人は多いはずである。世襲制はともかく、本書は、そんな願いを実現すべく行政改革をクールに研究する政治学者の表した、現状分析と改革提言の書である。
分析の対象となるのは小泉政権から第2次安倍政権までの構造改革(主として行政改革)。それぞれの政権が重視した改革対象項目、推進体制(議会・内閣・党・府省)、実行過程、制度変更結果、を個別に検証・評価して問題点を摘出、これを一般化して、今後の在り方を提言する。
行政改革の出発点は法律作り/改訂である。著者はこの段階を“制度の導入”と呼ぶ。先ず関係者(利害関係者、政権政党内、野党、この法律に基づく行政を行う官庁)の意見を集約し法案を作る。原案を作るのは主管府省の官僚が中心になるが、一つの府省で完結する法案は少なく、関連官庁間の調整が必須だ。この調整機能を長く果たしてきたのは事務次官会議。そのリーダーは事務担当官房副長官。そしてこの法案を最終チェエクするのは法制局。法制局長官は閣僚の一人だが、これも官僚である。内閣、特に首相が急所を握る官僚を如何に自家薬籠の内に取り込めるか、これが行政改革成否を左右する第一関門である。官僚を端から敵対勢力として排除すると、概ね改革は失敗する。第1次安倍政権、そして政治ショーしか出来なかった民主党政権がその代表例である。著者の行政改革観はドイツの社会学者にクラス・ルーマンの「行政改革は行政の自己改革能力の改革」にある。
法案が成ったからと言ってそれで制度運用がスムーズに進むわけではない。むしろここからが勝負である。本書ではこの過程を、“制度の作動”と名付け、特に深耕して“崩れる政治”の実態を明らかにし、“立て直し”の策を探っていく。改革成功の最重要因子は首相・内閣の力。それは個人のリーダーシップと政権下での(衆参両院)選挙に勝利することである。小泉内閣の、道路公団と郵政民営化はこうして一応所期の目的を達する。選挙のあとに粛々と法律を施行していくことにもそれなりの工夫が要る。内閣府の構成・強化が起点に在るが、(米国の大統領制をまねた)“強力なトップダウン”方式や“虎の威を借る(内閣府特務大臣、首相秘書官)”スタイルはどこかで躓く。つまり“官邸主導”の中身とフォローアップ体制である。官邸主導の留意点は人事、大臣/副大臣/政務官/次官/局長登用の納得性とそれらの間のチームワークが成否を決める。フォローアップ体制に関しては、例えは、経済財政諮問会議や総合科学技術会議のように、大臣と民間人がともにメンバーとなる組織が、法案作成ばかりでなくその後の法律適用状況を観察/評価することの効果を挙げている。
多くの改革の失敗は、第一段階の“制度導入”後直ちに第二段階の“制度作動”に持ち込んだことにある著者は分析、作動に移る前に「作動させるとどんなことが起こるかを予測することが必定」とし、そのためにある程度時間をかけて、実務を行う官僚や各種諮問委員会あるいは後述の独立機関を含めて、予測や対応策の検討を行うよう提言する。
現時点(第2次安倍内閣)の問題点は、政治主導を一層進めようとする内閣府の肥大化と人事で求心力を保とうとする姿勢である。予期せぬ人事で所轄大臣や事務次官を通ずる従来の指示・報告系統が乱され、実務を担当する下僚はその環境変化に追随できず疲弊して士気は低下、惰性あるいは忖度で業務を処理する状態に陥っている。その結果として、森友・加計問題における議事録に関する偽証あるいは厚生労働省のデータねつ造などが生じていると著者は見る。
このような状況を改善し改革を実らせるためには、政官の関係を敵対的な対立構造にせず、適度な緊張関係を続けながら、官僚をその気にさせ目指すゴールに向かうよう新制度を作動さすべきとの考え方を示す。そしてその際、政府組織内で一応独立機関となっている、内閣法制局、会計検査院、人事院、公文書管理委員会などの第三者機関が、さらに独立性を高め、政治・行政に影響力をおよぼせるようにすべきと主張する。
読んでいて、如何に政治と行政の関係に無知だったかを、具体的に知らされたのは、事務担当官房副長官と法制局長官の役割である。官庁全体をまとめていたのは副官房長官(ここは旧内務官僚(自治・厚生・労働・警察)の指定席だったが最近は経産省出身もいる。また首相秘書官との関係が微妙だ)、与野党が対決する中で両者が納得する法案の解釈を考えだしていたのは法制局長官(野党のみならず、政権政党にとっても解釈に幅が必要、ある意味煙たい存在)なのだ。これだけでも本書を読んだ甲斐はあった。行政学に関する諸学説、戦前からの我が国政官関係、理論展開の理解を助けるための図表、直近の多くの具体例など、初めて学ぶ者に取っつき易くまた分かり易い内容も評価できる。
著者は、1967年生れの政治学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス研究員、東北大学大学院法学研究科教授を経て、現在は東大先端科学技術センター教授。

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