2008年9月30日火曜日

今月の本棚-9月

On my book shelf-3

<今月読んだ本-9月>
1)東京少年(小林信彦);新潮文庫
2)阿片王-満州の夜と霧-(佐野真一);新潮文庫
3)ローマ人の物語 32,33,34-迷走する帝国-(塩野七生);新潮文庫
4)文豪たちの大陸横断鉄道(小島英俊);新潮新書
5)成功の主役は「脇役」だった(嶋田高司);早稲田出版
<愚評昧説>
1)東京少年;第一回に取り上げた、好きな小林信彦物。前回の一連のエッセイが現代時評であったのに対し、今回は疎開をテーマにした自伝小説である。昭和19年の夏休みから20年12月まで、著者が国民学校(今の小学校)の6年生から中学一年生までの社会も自身(肉体も精神も急変する)も特異な時期の体験をベースに綴っている。
 地方には近しい縁者のいない、三代にわたる江戸っ子の、最初の疎開は学童集団疎開で、疎開先は埼玉県飯能からさらにバスでしばらく入った田舎のお寺である。最上級生で、そこそこ出来の良い著者はまとめ役を仰せつかるが、今までとは違う生活環境下でリーダーシップを握るのは荒れた生活を日々体験してきた、貧しく、腕力や悪知恵の利く連中であり、著者は孤立していく。早熟な子なだけに、大人たち(引率教師を含む)の言動を冷ややかに見つめる態度も、更なる孤独をもたらす。東京への帰還を願う思いが募る。それまでの空襲で東京に残ったそれぞれの家族にも異変が生じつつあり、集団疎開解散の日が近づいてくる。運命の3月29日(東京大空襲)、その日が帰る日と決まるが、準備が間に合わず、自宅は消失するものの奇跡的にこの戦火を免れる。
 次の疎開先は、母親の遠縁に当る新潟県高田の農家になるが、今度は家族(両親、弟)疎開である。著者は東京の中学に合格していたが、戦災で学校が閉鎖、地元の高田中学の生徒になっている。先の集団とは違い家族そろっての疎開は家の中にいる限り、一見平穏な毎日だが、学校や町ではよそ者の悲哀を味わうことになる。そして、家庭内でも、実は生活力の無い父親の姿を知ることになり、微妙な年頃だけに父への反感・絶望が、帰郷願望と重なり、鬱々とした毎日を過ごすことになる。
 最後は母親の才覚で、焼けずに残った青山の母の実家に向かう、上野から青山に至る地下鉄の停車駅毎に匂いをかぎながら都会への帰還を実感して終わる。
 疎開・戦災と敗戦・引揚げ(満州)、そして年齢(私はこの年国民学校1年生)の違いはあるものの、この混乱期における生活破壊と望郷の思い、帰還の安堵は共通するものがあり、久々にあの時代の雰囲気に浸かった。
2)阿片王;この本は、水泳仲間のSさんが、満州育ちの私にと貸してくれたものである。“満州物”は随分読んできたが、専ら政治・軍事物であった。政治・軍事が満州の表舞台とすれば、これは当にそれを支える舞台裏と言える。阿片戦略なくして、満州国や南京政府の財政、また関東軍や支那派遣軍の作戦遂行は成立しなかったことをこの本で知った。
 里見甫という男(極東裁判でA級戦犯→無罪放免)と彼が作り上げた阿片シンジケートは、遠くはペルシャまで阿片調達を行い、これを既存(中国暗黒組織)の阿片流通ルートを通じて満州・中国に流し、莫大な利益を得ていた。この利益は傀儡政府・軍部に還元され、大陸における日本の政・戦略を維持するために使われてきたのである。
 彼が他の胡散臭い御用商人達(笹川良一、児玉誉士夫)の存在と異なるのは、私腹を肥やさなかったところにある。本妻に家を残したことを除けば、手にした金も組織の活動が円滑に進むよう使われたようだ。最後に東京で住んでいた家も他人名義のものであるし、晩年生まれた長男のために、彼の死後嘗ての関係者(岸信介を含む)が奉加帳を廻して育英資金を募ったほどである。
 この本の後半は彼を巡る“女”に大半が占められている。本妻を含め多数の女性が登場し、筆者は盛んだった女性関係から、謎の多い“里見像”を明らかにしようと言う意図があったものと思われる。ただ、個人的な感想は“くどい”の一語である。ただ、ここで筆者の意図を勘ぐれば、満州帝国史の主役、皇帝溥儀と里見との関係をなんとでも繋ぐために、梅村(北支から奉天に逃れる途上滞在した旅館の女中頭)と言う女性の存在・役割を明確にしたかったのかもしれない。
 それにしても、ノンフィクションとしてのテーマ、調査、考証などさすが一流のノンフィクション作家の作品、読み応えのあるものであった。
3)ローマ人の物語-迷走する帝国;シリーズ累計600万部の超ベストセラーである。ローマ帝国の誕生から滅亡まで、既にハードカバーは完結している。内容紹介は端折るが、文庫本32~34は在位期間の短い軍人皇帝が続出する紀元3世紀の物語である。何やら頻々と総理大臣が変わるわが国の現在を思わせる。
 ここではこの大作を書いた塩野七生について、私なりの見方を紹介したい。塩野七生の著作に始めて接したのは1994年で、「サイレント・マイノリティ」、「イタリア遺聞」の2冊(文庫本)からである。いずれも評論・随筆で、イタリアについての深い知識・見聞を基に現代社会・政治・文明批評を展開するところに興味を惹かれた。そこでそれに続く小説3部作「レバントの海戦」、「ロードス島攻防記」、「コンスタンチノープル陥落」を読んでみた。率直に言って評論・随筆に比べ期待外れだった。なんと言っても小説としての盛り上がりを欠くのである。ただ、これらの作品を“ノンフィクション的”に読むと、それなりの面白さがある。例えば、船の構造や土木工事などエンジニアリングの面で“そうだったのか!”と言うような細かな説明が丁寧に書かれ、好奇心を満たされることがしばしばあった。そんな訳でその後はこの人の書いたものを長く読んでいなかった。
 ローマ人の物語が始まったとき、書店でパラパラと眺め、これが例のノンフィクション的小説とでも言うようなスタイルだったことから、あの3部作を思い出し、またハードカバーのシリーズ物であることにも抵抗があって購入しなかった。しかし、“すべての道はローマに通ず”の巻が出たとき(2002年2月)、あのエンジニアリング・ノンフィクションをもっと知りたいと購入した。詳細な説明に加えて、それが政治・経済・文化に波及する様が面白く描かれている。題材に対する入念な調査、作家としての年輪があの3部作とはまるで違った作品になっており、あらためて第一巻から読んでみたいと思うようになった。幸い、同じ年の8月に文庫版がスタートそれ以来発売を待ちかねる日々が続いている。
 ローマ人の物語は、著者の登場人物(執政官、皇帝、それを巡る人々)への思い入れが強くそれがこの長編を面白くしている鍵であるのは間違いない。特に、カエサルへの尊敬・思慕は“身も心も”という感じで盛り上がる。それだけに、司馬遼太郎同様、小説の内容イコール歴史と言う誤解を読者に与えかねない危うさが在る。大半の日本人にとってそれまでのローマ史は受験の世界史を出なかっただけに、この著作によるローマ史観がわが国において正史になってくるような気がする。もう一つの面白さは初期の随筆などに見られる、ローマ史・イタリア史から現代日本社会(政治・経済・国際関係など)を見る目が、読書の読み方次第で、ふんだんに出てくるところにある。時間をかけて熟成した材料を鋭い観察力で批判する姿勢が好ましい。
 “迷走する帝国”の巻(文庫本では34巻)で特筆したいのは、最終章の“ローマとキリスト教”を書いたくだりである。何故キリスト教はローマ社会に浸透して行ったか、を先人の研究を交えながら解説し、著者の仮説を(1)偶像崇拝、(2)割礼、(3)帝国の公職と軍務、(4)グレイ・ゾーン、に求めてその普及を説いている。中でも興味深いのが(4)のグレイ・ゾーン説で、ローマが多神教であったことから、戒律の厳しい宗教(ユダヤ教)との違いに着目している点である。同じキリスト教でも白黒を明確にしたがる宗派・指導者の時に迫害が起きていると言うのは納得できるところである。
 あるイタリア通の先輩に「この小説が英語で書かれたらノーベル賞ものですね」と言ったら、「ノーベル賞はどれだけ世のため人のためになるかが決め手だから無理だろう」との返事が返ってきた。私は、川端康成や大江健三郎の作品に比べてその点で遜色は無いと思うが如何なものであろうか。
4)文豪たちの大陸横断鉄道;筆者は元商社マンであるが、鉄チャン(鉄道ファン)でもあり、既に鉄道に関する著書を何冊か出している。本職以外にのめり込む様な趣味を持つのは英国人の好むところだが、私の好みでもある。鉄道と旅行の組み合わせ、それに歴史の味付けとくれば見逃すわけにはいかない。夏目漱石、志賀直哉、里見弴、永井荷風、林芙美子、横光利一、野上弥生子など錚々たる作家が、満鉄、シベリア鉄道、アメリカ大陸横断鉄道、ヨーロッパ各国の鉄道に乗り、車内、車窓、立寄る土地どちを語る様子は、海外旅行が洋行と言われた時代とそれぞれの書き手の人柄を浮かび上がらせ、小説とは違った当時の世相が味わえる。
 中でも面白かったのは、林芙美子のシベリア鉄道を利用したパリ行きと、夫の交換教授プログラムに付いてロンドンに赴いた野上弥生子が欧州旅行中ドイツのポーランド侵攻に遭遇、避難船(当時は日本は中立なので交換船ではない)でニューヨークへ渡り北米大陸を横断する旅である。
 芙美子は満州里まで満鉄で行きそこからシベリア鉄道に乗り換えるのだが、満州里領事にモスクワの広田大使宛の外交文書を託される。ソ連時代の難しい時期にこれを行う芙美子は、自分を当時の人気女優、マレーネ・ディトリッヒ演ずる「間諜X27」に模して、その様子をやや緊張気味に書き残している。シベリア鉄道はモスクワで終わり、その後はパリへ向かう列車に乗り換え、ポーランド国境、ドイツ国境、そしてフランス国境を越える度に、人々の表情や町並みに明るさが増す様を描いているのが、彼女の前向きな生き方にオーバーラップしてくる。
 この時代の日本人は、留学生、外交官、商社マンなどを除けば外国語に通じているとはとても思えない。芙美子はシベリア鉄道の中でロシア人と拙いカタコトで話したことを残している。またベルリンからパリへ向かう列車内で、今の不景気が相手の国の政治にあると独仏の労働者が互いに相手を非難しあっていると書いている。芙美子はドイツ語やフランス語が分かったのだろうか?
 弥生子のニューヨーク第一印象は船から見た林立する摩天楼の夜景である。その美しさに息を呑む。当時の欧州人からは世界一殺風景な都市と蔑視され、それは弥生子にも先入観として刷り込まれるのだが、避難船から見た夜景はそんな予想を一気に吹き払ってしまう。私も何度かニューヨーク郊外から夜のマンハッタンへ近づく機会があったので、その強烈な衝撃はよく理解できる。弥生子のニューヨーク観で印象的なのは、この摩天楼の街が爆撃され、ビルが倒壊していく様を想像して書いているくだりである。これは欧州の戦乱が始まり、大陸旅行中避難船に向かうためボルドー駅に到着した時の、灯火管制で真っ暗闇となった大都会を体験したことから来ている。不夜城のマンハッタンが欧州から来たものには、既に信じがたい存在になっており爆撃が咄嗟に浮かんだのかもしれない。そして、それは60余年後9・11同時多発テロとして現実になったのである。文豪の世界がこうして今日につながった。
 仕方の無いことだが、文豪たちは鉄道そのものや鉄道車両には余り興味を持たないのが少し残念。
5)成功の主役は「脇役」だった-私のアメリカンドリーム-;ビジネスを引退した今、このような本を手にすることもないのだが、著者が義弟の大学(そしてボート部)の先輩であったことから贈られた。著者紹介を見たら、何と生年月日が一緒だった!同じ年の人生には格別の興味が湧く。
 ここで主役とは“才能”のようなものを意味し、脇役とは“習慣や癖”と筆者は定義している。つまりビジネスマン(更には社会人)としての成功は、持って生まれたものより、心掛けて改善する習慣にあると言うことである。この人のバックグラウンドが教育学博士にも拘らず、アメリカでビジネスのチャンスをつかみ、製造業を起業し、長期に優良経営を続け、会社を売却して一線を退き、出身校(テンプル大学)の役員を務め、個人名の奨学金を提供するまでに至るプロセスを、この「脇役」を中心に体験的に綴ったものである。
 アメリカ留学(特にMBA)でチャンスをつかんだ人の成功物語は、往々にして何か“ギラギラ”したものを感じるが、ここではそれが無い。会社売却に際して、仲介したコンサルタントが「会社の社長への依存度が低いほど高く売れる」と言い、実際彼の会社をコングロマリットに高値で斡旋してくれた話は、会社経営に携わった者として、なかなか含蓄のある言葉だと感じ入った。ビル・ゲーツはやっと引退の道が見えたが、スティーブ・ジョブス(アップル・コンピュータ創設者)は一旦退いた社長職に再度戻り、いまだに一線で活躍している。二人とも、あまりにも優れた「主役」が超長期公演しなければならない環境なのだろう。

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