2008年12月3日水曜日

篤きイタリア-2

3.篤き北部同盟の闘士
<ヴェネツィア行きインターシティ・プラス> ミラノ観光は実質10月4日午前の半日。見たい所、探訪したい所を多々残して6日午前ホテルをチェックアウト。ラッシュアワーを過ぎていたので、地下鉄で中央駅に向かう。前回のブレーシア行きで勝手が分かっているのでスムーズに移動と思いきや、最後の地下鉄改札出口から鉄道駅へのエスカレータが点検中。さほど大きくないスーツケースでも、年寄りには結構堪える。親切を装うスリ等に注意しながら駅中央ホールへ向かう。

 30分も早く着いたので表示板にはまだ当該の列車は見当たらない。発車時間は11時5分、ヴィチェンツァ到着は13時18分。乗車券はMHI社に事前手配してすでに入手済み。昼食をどうするか?到着後の行動に自由度を残すため駅構内のバールでピツァかサンドウィッチと飲み物を購入して、車中で食することにする。初めてのバールでの買い物である。ショーケースの中を物色し欲しい商品名を手早くメモ用紙に書く。飲み物をクーラーから取ってそれとメモ用紙をレジで示す。メモを指し示しながら指を二本立てる。サンドウィッチを二つ欲しいという意味である。英語で料金を言ってくれる!領収書を持ってショーケースに居るおばさんに渡す。何やら質問される!ポカーンとしていると電子レンジを指差すので、首を横に振る。商品を取り出すとまた質問らしきものが来る。再びポカーンとしていると、レジ袋を手に取る。今度は首を縦に振る。イタリア語が全く分からなくても欲しいものがチャンと手に入った。
 やがて表示板に列車の番線が示される。構内のそこここにある改札機で改札する。乗車券には車両と座席番号が印字してある。問題は車両番号である。同じ駅を発車するものでもそれが統一されていない。1号車が先頭の場合もあれば、最後尾の場合もある。さらに行き先が複数の列車を一編成にしている場合もある(ブレーシア行きの場合は最初の停車駅だからこの恐れはなかった)。
 大勢の乗客が駅職員を取り囲んで確認している。番線が直前に変わったと言うような話も経験者から聞かされているので、私もその囲みの中に入る。駅員(後でわかるが実は当該列車の車掌だった)に切符を示すと、「この列車です。この車両です」と最後尾の車両を指差しながら英語で答えてくれる。早速乗り込む。ブレーシア行きは着替え・洗面だけの手提げかばん、今回はスーツケース。ホームとデッキの高さの差が辛い。これは最後まで付きまとう鉄道旅行の難所である(こんな所を悪人はチャンスと狙っている)。
 実は国内旅行は全て一等車とした。この理由は、第一は料金が普通車と比べそれほど高くないこと、第二にセキュリティ確保のためである。
 今度の列車も特急だがユーロスターではなくインターシティ。電気機関車で牽引するタイプである。従って客席はコンパートメント形式。6人用コンパートメントには先客が二人すでに席を占めている。進行方向の窓側に座るのは中年の女性、通路側に座っていて我々が来て中央席に移ったのは中年の男性。二人とも旅行者というよりビジネスに出かける雰囲気だ。コンパートメント形式の列車が初めての家内はチョッとびっくりした表情になる。“ボンジョルノ”男性が声をかけてくれ気分が和む。
 38年前のフランス、その後カナダとロシアで何度かこの形式の列車に乗ったことがある。それらはカーテンが有ったり、ドアー全体が木製だったりで、通路と遮断され、密室に閉じ込められる感じだった。しかし今回は、前後の仕切り壁こそ木製で見通せないものの、通路側は仕切りもドアーも透明ガラスで作られ閉塞感が無く明るい。開放車両に慣れた日本人にはこの方が落ち着く。6人部屋に4人。今日の旅は2時間少々、ユッタリした気分で過ごせそうだ。
 発車時間が来る。しかし列車は動かない。通路越しに見えるデッキではまだ人の出入りが続いている。他の客は悠然としている。「(ハハーン これがイタリアンスタイルなんだな)」 10分、15分依然動かない。25分位して「メカニカルトラブルで遅れています」と英語で車内放送がある。結局出発は約30分遅れになってしまう。シルバーノが駅で待っていることが気にかかるが、不思議とイライラ感も不快感も起こってこない。明るい風土と好天のせいだろうか?ブレーシアから先は初体験だが前回と変わらぬ長閑な車窓風景が続く。
 出発前から通路で携帯電話をかけていたサングラスを掛けた若い男が、検札の車掌と何か話している。やがて我々のコンパートメントに入ってきた。
 車掌が前のほうに移動するとしばらくして、辺りを窺がうように黒人が前のコンパートメントを開けては中の乗客に話しかけ、何かパンフレットのようなものを渡している。我々のところへ来た時ちらっと見ると封筒状のものを一緒に渡す。どうやらアフリカ人で、ユニセフもどき(インチキ)の寄付を募っているらしい。当然違法行為で車掌を気にして挙動が落ち着かない。ヴェローナのひと駅手前の湖畔駅にはこんな連中が何人もいた。遥かに望見できる美しいガルダ湖と違法移民、イタリアの明と暗を同時に見ることになった。
 ヴェネト州に入って最初の大きな駅はヴェローナ、ここで合い客は皆下車する。大学生であろう若い女性とおばさんが入れ替りで乗り込んでくる。窓際に座った女子学生が教科書のようなものを開いている。注意してみていると、かなり高等な物理学と思しき数式がやたらと出てくる。恐れ入りました。
 やがて列車はシルバーノの待つヴィチェンツァ駅に20分遅れで到着した。


<建築世界遺産の町:ヴィチェンツァ>
 ミラノのような大都市の中央駅は終端型で到着列車は頭から突っ込んで、出る時は後ろが先頭になる。ホームへのアクセス通路そして駅舎本体は列車が出入りする反対側にある。ヴィチェンツァの駅は日本の鉄道駅同様通過型である。イタリアの駅には改札機能が無い(乗車の時は自分で印字機械に打刻させる)ので、通過型駅で駅舎に直結したホームに着くと構外へ出るのに複数の出口がある。最後尾で降りると、直ぐ近くの駐車場へは駅の中央まで行く必要がないので、降りた人は三々五々散っていく。中央ホールらしき所まで歩いている人は少ない。
 シルバーノは何処だ?ホールもあまり混雑していない。出迎え人も居ない。線路を跨ぐホームとの出入り口は別の所にあるので、そこへ行ってみる。やはり居ない!駅舎の外へ出てみる。駅前の広場はブレーシアより広々している。そこにもシルバーノは居ない!お互い携帯の番号は知っている。電話を掛け始めた時、何かに憑かれたように前を横切った男が居た。雰囲気でシルバーノだと直感した。「シルバーノ!」声をかけるが気が付かない。「シルバーノ!」と更に大声で叫びながらあと追う。やっと気が付く。「オォー!何処に居たんだ?」「ホールに居たんだが・・・・」「俺はホームを探していたんだ」 これが12年ぶりの再会である。
 駅横に停めた車は古いオペルのセダン。色はベージュだが汚れが目立つ。ドアーが大きく凹んでいる。擦り傷もいたる所にある。スーツケースを積み込むために開けたトランクの中には、いろんなものが散乱している。小事にこだわらない彼の大らかさの表われなのだろう。
 「先ずホテルに行ってチェックイン。一休みしなくていいかな?昼食は?」「昼食は車内で摂った。休息は必要ない」「OK!それではチェックインしたらロビーでこれからの予定を調整しよう」
 ホテル(Hotel Boscolo de la Vill)は微妙な位置にある。歩くにはチョッと遠いがタクシーでは近すぎる。MHI社はそれでもタクシー利用を勧めてくれたが、彼の出迎えで問題は解決した。「ホテルはなかなかいいホテルだ。しかし、ホテル周辺はあまり環境がよくない。出歩く時は注意するように」 ホテルへの道すがらこんな忠告をしてくれる。
 ホテルの正面はメインストリートに面しておらずわき道を入った所にある。一見東南アジアのホテルへアプローチしていく感じである(わき道の舗装や隣接する建物などがお粗末)。車寄せも無い。しかし、造りは彼が言うように悪くは無い。ロビーも広いしエレベーターも早い。部屋もアメリカンスタイルのチェーンホテル風で広さも十分。反面ヨーロッパの味わいは希薄だ。
 ロビーで先ずしたことはプレゼントの交換。彼が用意してくれたものは、ヴィチェンツァとサンドリーゴの地図、ヴィチェンツァ周辺の観光ガイドブック(イタリア語!)それにヴェネツィア共和国の旗である。「古い共和国の象徴なんだ」この旗こそ彼の心情と日常活動を伝える象徴でもあるのだろう。
 「今日は、これからヴィチェンツァの町を案内し、次いでバッサーノ・デル・グラッパへそこから自分の住む町、サンドリーゴに戻り夕食にしよう。それからここのホテルに送るよ」「その後、この近くである政治集会に出る。州知事も来るんだが良かったら一緒に参加しないか?」「ウゥン?政治集会?皆英語を話すのかい?」「誰も英語は話さない」 これだけは勘弁してもらう。
 「明日は北の山を中心とする案と南の平野を観光する案がある。どちらがいいかな?」 これはブレーシアで平原のドライブを楽しんだこともあり、“山”を希望する。「明後日は列車の出発時間まで、ヴィチェンツァの郊外を観光し昼食を摂ってから見送るよ」 こうして彼は三日間のフルアテンドで我々のヴィチェンツァ滞在計画をまとめてくれた。
 ヴィチェンツァの町はもともと城郭都市である。町の北に小高い丘があり古くは修道院だった教会がある。ここから市街の全貌が望める。城郭内は旧市街、建物は低層で屋根瓦はオレンジ色。その外は新市街でビルなどはこの部分にある。ここから旧市街へ戻り、嘗てはヴェネツィアとも繋がっていた運河脇の今はツーリストセンターになっている城郭前の駐車場に車を停め、旧市街を徒歩で観光する。
 ルネサンス期にバッラーディオとその弟子たちによって建てられた主要な歴史的建造物は、今はアンドレア・バッラーディオ大通りと呼ばれる通りにある。華麗なファサード、洒落た窓、小奇麗な中庭を持つ16~17世紀の屋敷は、今ではオフィスやアパートに内部を変えて現在でも使われている。無論それ以前の記念碑的な建物もその中に混じっている。ガイドブックに依ればこの町の建築がやがてヨーロッパの町々の建物・佇まいに大きな影響を与えたとある。残念ながら時間の制約で十分堪能するところまでいかなかったが、ルネサンス建築の雰囲気を味わえただけでもここを訪れた甲斐があった。

<グラッパの町:バッサーノ> 3時少し前ヴィチェンツァの町を離れ、我々はいよいよシルバーノのホームタウン、サンドリーゴ方面に向かう。次の観光スポットはバッサーノ・デル・グラッパ。サンドリーゴより先である。方向は北東、遥かに山並みが見える。途中古い教会二ヵ所で車を停める。一つは現役だが、もう一つは個人の家の庭にあり納屋のような使われ方をしているらしい。片流れ様式の屋根が古さを示すのだという。
 サンドリーゴの町はバイパスする。左(西)側に山城が見え、万里の長城のように山の尾根伝いに城壁がうねっている。「あれは明日観光する」 マロスティカの町だ。
 あのアルコール度の高いリキュール、グラッパの名前のつくバッサーノ・デル・グラッパの町に着いたのは4時少し前だったろうか。今まで訪れた町々と同様ここも城壁に囲まれた町であったことを随所に残している。違うのはどの町より山が間近に迫り、町自身かなり高い所にあることだ。車を停めて案内を始めたシルバーノは直ぐ傍の建物を指差して「ここは病院で、俺はここで生まれたんだ」と言う。ヴェネズエラに渡る前彼の家族はこの辺に住んでいたらしい。
 近くの谷を見下ろす石造りの展望テラスに向かう途中、バールの前で偶然友人たちと会う。どうやら幼馴染というよりは政治活動の同志らしい。どう紹介されたのか分からないが皆握手を求めてくる。
 展望テラスの下はU字谷、谷底にも町があり小さな家々が遠望できる。その遥か先は山が幾重にも重なっている。「下に見える町の向こう側は、かつてはオーストリア領だった。普墺戦争でオーストリアが敗れた後、向こうに見える山頂までイタリア領として回復した」「第一次世界大戦でさらに勝利して、今の国境はあの山の遥か北方まで延びたんだ。ヴェネツィア共和国時代の失地を回復したわけさ」 この地の政治団体で活動する彼のエネルギーの根源はこんな歴史を経た土地に生を受けた生い立ちと無縁では無かろう。
 夕闇迫る城内の広場を案内しながら「今年春にはここの広場で違法移民たちと肉弾戦をやったよ」 こんなヨーロッパの古い田舎町にも肌の色・宗教・文化の違う民族がヒタヒタと浸透してきている。それらを阻止する城壁はない。

<サンドリーゴのピッツァ屋:ヴェッキア・ナポリ>
 サンドリーゴの町に帰り着いた時には日はとっぷり暮れていた。「お腹は空いたかな?」 この日のランチは列車内で食べたサンドウィッチのみ。この誘いを待っていた。「少し早いがディナーにするかな」 確かにまだ6時少し過ぎだ。
 来る時はバイパスしたサンドリーゴのメインストリートに入る。教会と広場があり、その周辺には商店がある。その中のパスタ屋に向かいながら「ここはなかなか美味いピッツァを食べさせるんだ。しょっちゅう来ている店なんだよ」 店は“Vecchia Napoli(古いナポリ)”と言うバール兼ピッツェリアだった。確かに少し早いらしく、お客は誰もいず、オヤジが赤い火がチロチロ見える大きな窯の前で作業をしているだけだった。シルバーノが調理場に向かい何やら話をしている。我々のことを説明している雰囲気だ。その内おかみさんが出てくる。家族経営らしい。
 メニューを見ると、英語が併記してある。こんなところでも英語があるのに感心していると「この辺はローマよりもミュンヘンの方が遥かに近い。ビジネスもそちらの方が活発なんだ」と言う。EUの共通語は英語と言うことらしい。
 彼は壁に張られた当店推薦の“Baccala”と言うのを注文、我々は無難なマルガリータとサラミを頼む。そしてシルバーノが赤ワインを勧める。彼も同じものを頼んでいる。これからホテルまで小一時間ドライブをするのにである。どうもイタリアでは適量のワインは問題ないのかもしれない。昼抜きに近い状態もあろうが、ここのピッツァは味付け、焼き加減そしてサイズとも絶品であった。
 密度の濃いシルバーノゆかりの地半日観光は、言わば田舎に住む蕎麦通の友人贔屓の店で“ざる”を食するように終わった。
 翌晩のディナーも同じ店で摂った。昨日シルバーノが頼んだ“Baccala”を頼んでみた。食べると何やら魚の味がする。でも何の魚か分からない。シルバーノに聞いて分かったことはどうやら“干ダラ”らしい。これはこの辺で作るのではなくノールウェーからの輸入品で、随分昔から当地の名物料理になっているとのことであった。

<イタリア産業革命発祥の地:スキオ> 翌7日の出発は9時。ロビーに下りるとすでにシルバーノが待っている。昨晩は我々をホテルに送った後政治集会のはず。献身的なホスト振りに感謝の気持ちでいっぱいだ。
 今日の予定を話してくれる。先ず、サンドリーゴ経由でヴィチェンツァ北西の山岳地帯の町スキオに行く。次いで一旦サンドリーゴに戻りここで昼食。昼食後昨日の午後バッサーノ・デル・グラッパに行く途中垣間見た山城のあるマロスティカの町を訪れる。ここからはこの一帯の地理・歴史に詳しい彼の友人が参加し、昨日見残したグラッパの見所を含め案内してくれる。最後はサンドリーゴに戻り、シルバーノの自宅でしばし休んだ後例の“古いナポリ”でディナー。今日も盛り沢山の観光メニュー。幸い晴天つづき。楽しい一日になりそうだ。
 サンドリーゴの町へは10時頃着く。街道筋の工業団地のカフェ兼バール兼レストランで小休止。スキオへ向かう前に工業団地を案内してくれ、その中のある工場で車を止め「自宅にファックスが無いので、ここのものを使わせてもらっているんだ。チョッと中を案内しよう」と言う。イタリアで工場を見学するとは思わなかったがエンジニアの血が騒ぐ!
 そこはかなり大きい印刷・製本工場だった。どうやら彼の政治団体が発行する機関紙(彼は編集長のような役割)やパンフレットをここに頼んでいるらしい。事務所でいろいろな人を紹介され、お茶まで付き合うことになった。日本の同種の工場を見学したことがないので比較は難しいが、製本工程には日本製の機械もある整理整頓のよく行き届いた工場だった。
 スキオの町はサンドリーゴの北西1時間弱の所にある。鉄道駅近くの駐車場に車を止め町へ向かう。緑が多く清潔な感じの町だ。さらに北の方には険しい山並が遠望される。聞けばこの町はイタリア産業革命発祥の地とのこと。この山がちの地形は水力発電に適し、それを動力に繊維工業が発達したのだと言う。嘗ての工場はオフィスや展示館(シルバーノはこれを見せるつもりでいたのだが、現在改修中だった)などに転じているようだが、確かにそれらしき形状の建物が散見され、古いイタリアの中規模産業都市の佇まいを今に残している。なじまないのはスカーフを被ったアジア系の女性たちの町行く姿である(シルバーノによればインドネシア人)。
 スキオの町を徒歩で一巡した後、車でさらに北へ向かう。シルバーノは昨日の計画検討時「山岳地帯に行きたい」と言う私の願いを律儀に果たそうとしているのだ。道は高速道路では無くトレントを経てスイス、オーストリアへ繋がる旧街道、スキオの町も市街周辺部の道は旧道そのままなので信号で片側交互交通もある。やがて人家がまばらになると道の勾配も増しカーブが多くなる。しかしオンボロオペルは健気に頑張っている。この車はマニュアル車、シルバーノは車そのものには全く興味が無いようだが、運転技術はなかなかのもので、頻繁なシフトワークがエンジンの力を目いっぱい引き出しているのだ。
 「第一次世界大戦時オーストリア軍はここまで攻め込んだんだ」「この洞穴はオーストリア軍の武器弾薬庫」 器用にハンドルを操りながらシルバーノが説明してくれる。あのヘミングウェイの「武器よさらば」の世界はここだったのだろうか?この辺はオーストリア・ハンガリー帝国が版図を広げていた時代はオーストリア領、彼の曽祖父はオーストリア国籍で陸軍の士官だった。普墺戦争でイタリアは失地回復、彼の祖父は第一次世界大戦に応召、イタリア兵として戦死したとのこと。この地の複雑な民族模様が彼の政治活動につながっているのは間違いない。
 こんな会話をしていると、突然眼前に峨々たる岩山が現れる。そんな筈は無いと思いながらも「アルプスか!?」と問うと「いやいやただの岩山。アルプスはズーッと先さ」「もう少し上って引き返す。写真が撮りたかったら言ってくれ」」 もっとヒルクライムを楽しみたかったが、帰路のダウンヒルでブレーキがフェードして利かなくなるのではないか?と気になる。方向転換できるスペースのあるところでUターン。
 案の定下りは怖かった。マニュアル車ゆえ頻繁にシフトダウンしてエンジンブレーキを利かせているものの、結構フートブレーキも使っている。古い車なのでディスクブレーキかどうか分からない。ドラムブレーキだったらどうしよう!? 「チョッとこの辺で写真を撮りたい」小さな村が見えたとき口実を設けて停車してもらう。本音は少しでもブレーキを冷やしたかったからだ。手洗い、写真撮影、付近の散策にできるだけ時間をとるようにしたが気休め程度の休憩だった。出発前に前輪を覗いてみたらディスクが見えてひと安心。
 サンドリーゴ出発時に立寄ったバール兼レストランに戻ったのは1時頃。店内はいまだ昼食客で混んでおりテーブルは満席。そこここにシルバーノの知り合いが居り彼は挨拶に余念が無い。やがてテーブルが空いておばさんが注文をとりに来る。今日のお薦めは“牛のホワイトソース煮”だという。「飲み物は?」とシルバーノが聞くので、ワインを飲みたかったが車での観光、午後は彼の友人にも会うので炭酸入りのミネラルウォータを頼む。しかし彼はここでも赤ワインをオーダーしたのである。街道筋のレストラン、道に面した駐車広場や工業団地へのわき道にはたくさん車が駐車している。ほとんどここのお客に違いない。あちこちのテーブルで結構ワインをやっている。どうもイタリアでは飲酒運転の基準が日本とは異なるようだ。料理は薄味で肉は柔らかく美味しかったが、肉料理に赤ワインがあればもっと良かったのに!

<ミニ万里の長城:マロスティカ> サンドリーゴからマロスティカまではひとっ走り。ここで彼の友人と会い町を案内してもらうことになっている。平地の城壁が山へ立ち上がる西側の折曲がり部分の外側に駐車場がある。ここに車を停めて。西側の城門を通って広場を横切り、南門の外に出る。バス停広場にインフォメーションがある。ここが待ち合わせ場所だ。
 やがてブルーメタリックのミニバンがやってくる。チェコのシュコダ製だ。降り立った男は西欧人としても大柄でがっしりしている。英語は話さないのでシルバーノの通訳で会話が始まる。名前はフランチェスコ、この町の生まれ育ち。今は会計士をしながら郷土史家のような活動もしているらしい。また、ここが大切だが、シルバーノの政治活動の仲間でもある。
 この町のランドマークは二つの城である。つまり上の城(山城)と下の城(平城)である。城そのもの、広場、記念碑などが主な見所で秘宝などが展示してあるわけではない。早速南門周辺から徒歩観光を始める。
 この周辺は古くヴェローナに起こったスカーラ家の領地で、この城郭都市は14世紀から建設が始まったものである。北辺の城壁は山の尾根伝いにあり、北門は山の中腹にある。あとの東西・南門は平地にあり、東西門を結ぶ通りは自動車も通行(一方通行)する町のメインストリートになっている。下の城(カステッロ・インフォリオーレ)は城郭で囲まれたエリアの中心部にある。この城の南側、南門に至る広場は明るい茶色とベージュの大理石で千鳥模様に作られ、まるで大きなチェス盤のようだ。そうこの町を有名にしているもう一つの名物、それは隔年この盤の上で行われる人間チェス(イタリア語でスカッキ)なのである。起源は1454年、二人の騎士が一人の王女をめぐって戦ったという歴史がある。今年は開催年で9月にその催しが開かれたとか。
 平城の裏を東西に通るメインストリートの北側は古い居住区、教会があり、さらに山の中腹には元修道院だった大きな建物がある。居住区内を通る石畳の道の一部はローマ時代のもので、道路の中央部がなだらかに盛り上がって左右の排水溝に雨水が流れるようになっており、道路中央は色の違う石を用いて分離帯を示している。こんなことをフランチェスコが丁寧に説明してくれる。
 居住区を東に向かい、東門を出て城壁の外側に沿って北に向かい東壁が途切れた所で北壁に沿って西に向かう。もう舗装は無い。道は山の尾根に沿って急な上りになる。城壁も山の勾配に合わせて波打つようになる。北門があった所には門ばかりではなくオフィスのような機能を果たす建物などが残っているが今は改修されて人家になっていた。
 ここからは浅い谷を隔てて遥か北方の山々が見える。西日に明るいその谷間を指差しながら、フランチェスコが「この谷間にはローマ時代の街道が通じており、往時は軍団がここを通ってドナウ川に達していたんだ」と語る。ローマ帝国滅亡につながるゴート族の侵入は、その逆に北東方面からこの町を通過したに違いない。シルバーノ、フランチェスコ共に北部同盟シンパ・ヴェネツィア共和国回顧派である。ローマを中心とする南部イタリアへの共感はない。彼らはひょっとするとローマ人ではなく、ゴート族の末裔かも知れないと思ったりもする。
 東門近くのカフェで小休止。シルバーノはビールを飲む。車を運転するフランチェスコは紅茶、私はコーヒー。歩き回った後のビールが旨そうだ!
 南門の駐車場に戻り、今度はフランチェスコの車で山城(カステッロ・スーペリオーレ)観光だ。ミニバンは中も外もきれいで新車のようだ。急峻なつづら折れの道を小気味よく登っていく。この車は座高位置が高く助手席は最高の眺めを堪能できる。城壁の上は、嘗ては歩けたが今は崩壊箇所が多く補修工事がおこなわれている。城門は一台ぎりぎりの幅しかない。上の“城”は城というより砦と言ったほうが良い。現在ではレストランになっている。その前に車を駐車し、さらに階段を上り、仮補修した城壁の最上部に登る。真下には平城とチェス盤、城壁外につながる新市街地が展望できる。アパートやオフィスビルが見えるが高層建築は幸い4階までで止まっているという。この季節、この時間、遠方は霞んでいるがシーズンによってはヴェネツィアやヴェローナまで遠望できるそうだ。北方を見ると北門跡からの眺めがさらに遠くまで見通せる。高地を押さえることが戦いの帰趨を決めた時代、この城は当に“カステッロ・スーペリオーレ(優位の城)”であったに違いない。

<ボッサーノ・デル・グラッパ再訪>
 これでフランチェスコの案内は終わりかと思っていると、車はシルバーノが停めた駐車場に寄らずヴィチェンツァ~サンドリーゴ~グラッパを結ぶ街道に出る。シルバーノが後ろから「グラッパ周辺には、昨日自分が案内できなかった見所がまだまだ在るので、詳しいフランチェスコが案内してくれる」と言う。
 最初に訪れたのは、グラッパの手前にあるヴィラである。ヴィラと言うのは日本ではリゾートマンションの名前などによく見かけるが、本物は貴族や富豪の豪邸である。英国ではマナーと言うのがこれにあたると言っていい。そのヴィラはこの地方の水運を担ってきたブレンタ川を背にした土地にあり、デザイン・建築はバッラーディオ自身ではなく弟子たちの作品、パルテノン風の円柱が一際目立つ建物だった。敷地の中を街道が走っているので、当時の広い庭は見る影も無いが、正面の本館と左右の別館(使用人居住区各種作業場や厩などがあった)はその時のままで保存されている(建物だけで家具什器の類は無い)。裏はブレンタ川まで続き、ヴェネツィアへも行くことが出来る船着場が在ったとのこと。
 このあとグラッパ郊外の傾斜地に建つものや掘割のあるヴィラを案内してもらった。いずれも個人所有で現在も使われており、敷地内に入ることは出来ず、当に垣間見ることしか出来なかったが、その佇まいは隆盛期のヴェネツィアの富を窺がわせるものであった。
 次に訪れたのはグラッパ市内に架かるヴェッキオ橋(コベルト橋)である。この橋はバッラーディオの設計で屋根が付いているところが特色である(と言ってもこのタイプの橋はイタリアではあちこちにある。またヴェッキオという言葉は“古い”と言う意味でフィレンツェにも同じ名前の橋がある)。実はこの橋は第二次世界大戦でアメリカ軍の爆撃で破壊され、現在のものは戦後復元されたものだと言う。こんな話を聞くとき、三国同盟の仲間としてアメリカへの恨みを共有するような気分になるのは私の世代が最後かもしれない。
 この橋の袂にはこの地方のリキュール、グラッパの販売所とそれに関する小さな博物館(?)がある。博物館の方はもう閉館していたが、販売所の周りでは観光客や若者が小型のグラス(ウィスキーのシングル用グラスのような)に注がれた無色透明の液体をちびりちびりやっている。私も飲んでみたいと思ったが、二人が全くその気を示さないので我慢することにした。結局この酒を飲んだのは、帰りのアリタリア航空の機内だった。本来ブランデーに近いはずだが(厳密にはブランデーはワインを蒸留するのに対しグラッパはワインの搾りかすを蒸留する)、味はスッキリして上等なウォッカに近い感じがした。30~60度と言うアルコール純度から来る共通性だろうか?
 マロスティカの駐車場に戻り、フランチェスコに別れと感謝を告げサンドリーゴへの道をとる。直ぐにシルバーノにフランチェスコのファミリーネームを聞くと「チョッと難しい名前なんだ。スカナガッタと言うんだ」「スカナガッタ?おぼえやすい!決して忘れないよ!(“好かなかった”どころか大好きだ)」

<シルバーノ家訪問>
 本日のハイライトはシルバーノ家訪問である。家族が皆遠隔地にいて(奥さんはコロンビアへ里帰り、長女はトリエステ、次女はトレントの大学に在学)、男一人のところへお邪魔するのは本意ではなかったが、普通のイタリア人の生活の場を見てみたいと言う好奇心には勝てなかった。今朝行動計画を聞かされ、彼の自宅立ち寄りが含まれていることを知った時「ヤッタ!」と言う気分だった。
 グラッパからマロスティカを経てヴィチェンツァを結ぶ街道の中間点にあるサンドリーゴは、これら三都市とは違い、古い町ではあるが城郭都市ではない。平坦な土地はいくつもの道路と運河が入り込み、付近は農地や工業団地である。歴史的にはどうやら市場町らしい。パスタ屋のある中心部は石造りの古い建物が並んでいるが、周辺部は低層のコンクリート製個人住宅(2階建て)やアパート(2階から4階建て)が多い。建物の色が黄色っぽく塗られ屋根がオレンジ色であること敷地にゆとりがあることを除けば日本の郊外都市の景観に似ている。
 彼の自宅もこんな様式の4階建てアパートの4階の一区画であった。ガラス扉が一階階段ホールにあり、ここから入って階段を上る。エレベーターは無い。玄関を入って左側は広いリビング・ダイニング、玄関の先はキッチンだがここは玄関からは見えず、ダイニング側とつながっている。キッチンとダイニングの間に石造りの小さなカウンターがあり、少人数の食事はここで摂れる。ダイニングには伸縮自在(訪問時は4人用にセット)のダイニングテーブルがあり、ここでお茶をいただいた。一部屋になったリビング側にはソファーとテーブル、壁には化粧棚や大型TVが置かれている。バスルームと寝室はこの広いリビング・ダイニングのさらに奥になる。バスルームを使わせてもらい、夫婦の寝室を見せてもらった。大きなダブルベッドの頭の部分は壁に接しており、その壁に何枚かの大きなヨーロッパの地図が張られている。歴史的な民族と土着宗教の変遷を示しているとのことだった。これ以外に二人の娘さんたちの部屋があるはずだがそれは見ていない。もし我々が彼の申し出を受けてここに泊まることになっていれば、それらの部屋が使われたのだろう。
 キッチンからベランダに出られる。ここの広さは日本のアパートに比べやや幅があり、丸テーブルや屋外用の椅子が置かれている。陽気のいい日はここで食事も可能だ。ただ造りが華奢で地震でもあると崩落してしまいそうだ。「この辺では地震は無いのかい?」「先ず無いね。何百年か前バルカン半島で強い地震がありトリエステでモニュメントの土台がずれたくらいかな?」 ヴェスヴィオス火山の噴火によるポンペイ最後の日を印象付けられた日本人にとって、予期せぬ答えが返ってきた。
 こんなやり取りをダイニングテーブルでお茶(わざわざ緑茶を用意してくれた)を飲みながら語らっていると、彼の携帯電話に呼び出しがかかった。しばらく何やら話していると「急な用事が出来た2,30分で片付くから、二人で気楽に過ごしていてくれ。戻ったら食事に行こう」 何とも大らかな性格である。初めて訪問した外国人を置いたまま彼は出かけてしまった。
 帰って来た彼の一声は「我々の政治活動に大変うれしいニュースが得られた」だった。それが何を意味するのかはいまだに不明である。
 もし彼の家を訪ねる機会があったら、これだけはと言う願いがあった。12年前訪日の際彼が大変な読書家で2000冊を超える書籍を持っていることを聞かされた。彼の博識とマルチリンガルそして精力的な政治活動(文筆活動)はこの読書量からもたらされると推察している。その知的活動の根源である勉強部屋(書斎?)を見てみたい。これがその願いである。留守にするために戸締りを始めたシルバーノに「君の書斎は何処にあるんだ?見せてくれないか?」と頼んでみた。「OK。外へ出るとき案内するよ」意外な返事が返ってきた。このアパートには地下に収納用の小部屋やガレージのような空間があり、彼はこの二つを別に借り(?)ているのである。収納用小部屋にはPCが置かれドアー側以外の3面は書棚。廊下を挟んで反対側のガレージ側にも書棚がありこの2ヶ所のスペースに約2000冊の本と資料などがビッシリ詰め込まれていた(ガレージには自転車や何やらも置かれている)。今まで目にしたことも無いユニークな書斎。目的は達せられた。
 二晩目のディナーも同じパスタ屋である。前述のようにこの日は“Baccala”のピッツァにした。飲み物はマロスティカのカフェでシルバーノがビールを旨そうに飲むのを見て“今夜はビールだ”と決めていた。
 前日のように今日も当地の人のディナーにはやや早いのか、入った時は店内に客は居らずメニューには無いサラダなどの話をしていると、おかみさんがOKしてくれる(出てきたものはミニトマトやレタスなどの生野菜だけで、ドレッシングは無くビネガー、塩、胡椒で適当に自分で味付けをする)。
 やがて客が入りだすと、一組の熟年カップルを見てシルバーノが声をかけ席を立った。戻ってきた彼は「弟夫婦なんだ」と言いながら紹介してくれる。当地で医院を開業しているのだと言う。シルバーノが同席を勧めたが合流する仲間がいるらしく別の席に着いた。ホームタウンでの最後の晩餐はこうして終わった。

<ラ・ロトンダ> 10月8日、今日はヴィチェンツァを発ちヴェネツィアへ移動する日だ。同じヴェネト州の中、路線も乗換え無しの直結、所要時間は50分。出発時間は14時20分なので十分ヴィチェンツァ観光の時間がある。
 この日もシルバーノは9時にホテルに来てくれた。チェックアウトを済ませ、この日の予定を聞くと「これからヴィチェンツァ周辺の見所を訪ね、お昼に駅隣接の駐車場に車を停めて旧市街でランチを摂り、発車少し前に駅へ戻る」とのこと。周辺の見所として、ロトンダというバッラーディオの造ったヴィラとチッタデーラという町の名が出た。今日のメニューもお任せコースである。
 ロトンダは16世紀バッラーディオがアルメリコ侯爵の為に作ったヴィラで、ヴィチェンツァの町の西方の小高い丘の上にある。下を走る国道からもよく見えるし、庭園から見下ろす景観も素晴らしい。建物は4面いずれにもギリシャ式円柱で構成されたファサードがあり屋根はドーム状である。円柱の縦の線、梁の三角形、屋根の円形のバランスが見事だ。ゲーテもここを訪れ、あの“イタリア紀行”の中にこの建物を絶賛した一文があるという。
 朝9時にホテルを出てここへ直行したので10時の開館には早すぎた。それまでの時間を潰すためさらに西方に進み国道を離れて北西に向かうと周辺はなだらかに起伏する農地になる。オリ-ブが沢山実をつけている。展望のきく広場に車を停めしばしこの田園風景を愛でる。「これが典型的なヴェネト州の農村風景さ」シルバーノが誇りと慈しみを込めてポツリと語った。
 10時過ぎロトンダに戻り見学をする。今日は曇りで外からの撮影にはイマイチの環境だ。一階は中央部にホール、四隅に部屋があり一部は当時の面影を残している(他は各種資料の展示・説明に使われている)。内部の作り、装飾もギリシャ風である。重苦しいあるいはおどろおどろしたそれ以前のキリスト教美術と明らかに異なる。これがルネサンスなのだろう。
 ここで11時過ぎまで過ごしてしまったのでチッタデーラ見学はパスすることにした。あとでこのチッタデーラを調べてみると、城郭都市の形態が比較的そのままの姿で保存された町らしい。特に城郭都市の防衛拠点となる塔状の砦が十数残っているのが歴史的に希少価値のようだ。英語のCitadelは城郭都市の砦を意味する。この町の名前Cittadellaはその語源に違いない。チョッと残念な気がする。
 車を駅横の駐車場に停め、旧市街のオープンレストランでパスタランチを取る。彼のこれからの運転が気になるが、ここはワイン無しでは済まされない。乾杯!そして三日間の素晴らしい時間をありがとう!
 駅のホームまで送ってくれ、スーツケースをヴェネツィア行きユーロスターに積み込むことまでやってくれた。紫外線よけのガラス窓は外から内部が見えない。顔を窓に押し付けて彼に手を振る。気が付いた彼が微笑みながら手を振り替えした。
 「君の好意を決して忘れないよ!」

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