2009年1月12日月曜日

篤きイタリア-4

5.ルネサンス発祥の地;フィレンツェ

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 ヴェネツィアのサンタルチア駅を発してフィレンツェに向かう列車は10時43分発のユーロスターにした。フィレンツェ、ローマを経てナポリまで行く、典型的な観光列車である。
 あの「旅情」では、確か電気機関車に引かれる列車からキャサリン・ヘップバーンが窓から身を乗り出しで、ロッサノ・ブラッツィに手を振るシーンがあった。ユーロスターでは窓は開かないし、別れを惜しむ人もいない。
 先にも書いたように、国内移動は全て鉄道としユーロスターかインターシティの一等を手配した。しかし、ヴィチェンツァからヴェネツィアでは、ホームの案内板に描かれた車番順序(最終車両が1号車)と完全に反対になった編成でやって来たため、1号車を待っていた我々の前に来たのは最終番号車(確か10号車)の普通車だった。幸いガラガラに空いていたのでそのままヴェネツィアまでこの車両で行った。
 そんな訳で、ここヴェネツィアから乗る列車がユーロスター初めての一等車である。ユーロスターの一等車は、コンパートメント形式ではなく、通路を挟んで片側が4人のボックスシート、反対側は二人向かいあわせシートになっている。率直に言って、シートやインテリアは新幹線のグリーン車の方が一等車らしい。我々の席は4人掛けボックスシートの通路側だった。
サンタルチア駅を発した時には、二人席は仲間らしい二人の中年男性観光客が占めたが、4人席の窓側は空席だった。やがて内陸側の最初の駅、メストレへ着くと我々と似たような年恰好の白人カップルがやってきた。どうやら夫婦らしい。口数は少なく、それも静かな語り口。今度の乗車時間は3時間弱ある。長時間の同席者として好ましい。
 メストレそしてミラノ方面への分岐点、パドヴァで比較的長い時間停まったので、パドヴァを出た時には既に11時をまわっていた。検札の車掌が行き過ぎると直ぐに、昼食の注文取りがやってきた。食堂車でのきちんとした昼食のようだ。二人組み男性客はそれを注文したが、相席のカップルは何やら話してやめにする。どうやら食事持参のようだ。我々もフィレンツェ到着が1時半なので、予めサンタルチア駅のビュッフェで、ホットサンドウィッチと飲みものを用意しておいたのでパスする。隣が食べ始めたらこちらも始めようと思っていたが、なかなか始まらない。到着時間が気になるので一言「食事をしてもいいですか?」とことわってお先に始める。
 ヴェネツィアからフィレンツェへの路線はイタリアの背骨、アペニン山脈を横切る。ここではさすがのユーロスターもスピードが落ちる。その分周りの景色を堪能できる時間が増えることになる。食事を始める時の挨拶でこちらが英語を話せると分かったこともあり、「紅葉がきれいね」と言うようなことから隣の夫婦と会話が始まった。聞けばアイルランドのダブリンから来た引退者とのこと。「アイルランドには行ったことはありませんが、昨年は半年英国に滞在し大学で勉強していました」 これで先方はもう一歩踏み込んできた。「どんなお仕事だったんですか」「石油会社のエンジニアでした」「あら、主人は鉄道関係のエンジニアだったのよ」「そうでしたか。子供の頃は鉄道技師が夢で大学では機械工学を専攻しました」「私の専攻は電気工学です」 しばし似た者同志の穏やかな会話が続く。
 分水嶺のトンネルを抜けると列車は一気にスピードを増し、トスカーナ平原をフィレンツェへと快走する。ローマ観光のあとフィレンツェに戻ると言う彼らを残しサンタ・マリア・ノヴェッラ駅で別れる。

<ルネサンス遺産> 到着時間は午後1時半。秋の陽光だが眩しいくらい明るい。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェッリ、彼等を支えたメジチ家。闇を光に変えた200年(14世紀~16世紀)がここに詰まっている。
 ホテルはアルノ川に架かる有名なヴェッキオ橋の袂に在るエルミタージュホテル。手ぶらなら歩けるくらいの距離だが荷物があるのでタクシーにした。イタリアに来てはじめて乗るタクシーである。車は荷物の積みやすいフィアットのバンであった。少し回り道をしたようだが、これは旧い町の通りがほとんど一方通行であるため止むを得ない。車を橋の袂のカフェテラスの前で停め、運転手が荷物を降ろしながら「そこの角を曲がった所です。看板があります」とカタコト英語と手ぶりで教えてくれる。車が入れない通りなので、言われたとおりスーツケースを引きずってそれと思しき所まで行くが見つからない。直ぐ先にまた曲がり角があるのでそこまで行ってみるが、ホテルの入口などない。もう一度始めの曲がり角へ戻り建物の銘版をチェックする。直ぐ傍の入口が開いており階段が上に続いている。入口の年代物の灰色の石版の銘版をよく見ると“Hermitage”と読める。入口には何も無くただ階段だけ。重いスーツケースをもって階段を上がると、そこにエレベーター・ホールがあった。1台きりの呼び出しボタンを押すがエレベーターは来ない。押しボタンの横に何故かテン・キーのボタンがある。階段を上った踊り場に“フロント;5F”とあったので“5”を押してみる。何も変わらない。モタモタしていると、やがて上からエレベーターが下りてきてドアマンのような男が降りてきたので「これはホテルのフロントへ行くのか?」と聞くと「そうです。5階です」と言って階段を下りていった。5階にはガラス戸(このガラス戸は受付の居る時間だけ開けられている)で隔てた部屋があり、机に置かれた電話で話をしているおばさんが一人居るだけ。電話が終わるのを待って来意を告げると、部屋と階段下玄関(玄関は10時に閉まるので)のキーをくれ、その際エレベーターの暗証番号を教えてくれた。あのエレベーター・ホールにあったテン・キーは、宿泊客がエレベーターを呼び出すためのものだったのだ。部屋は旧いヨーロッパスタイルで天井が高く家具等も質素だが、明るく清潔で、アルノ川とヴェッキオ橋もチョッと見えるところが良い。
 その日の観光は2時半頃から始めることになった。翌日の半日観光で予定されていない、ホテルから近いウッフィツィ美術館を重点的に見ることにした。美術館の外回廊は長蛇の行列。待ち時間は“1時間”とある。別にやることも無いので行列に並んでいると30分位で入ることが出来た。時間が少し遅いのが幸いしたようだ。展示物については専門の案内書に譲るが、書籍の写真などで目にした作品が多々あり、それらを見ると感動よりもついホッとしてしまう。知識だけの教養(?)を脱しきれないわが身が情けない。それでもボッティチェッリの「春」や「ヴィーナス誕生」などはそれまでの宗教色の強い絵画に比べ明るく自然で、新しい時代の到来を感じさせてくれる。言葉でそして知識として知っていたルネサンスがここでは現実のものとして理解できる。
 さて美術鑑賞はこれで終わり、ウッフィツィ美術館そのものを少し紹介したい。この美術館の名前“ウッフィッツ”はラテン語のオフィスと言うことで、この建物は16世紀半ばに建てられた、当時の行政府用オフィスである。形は長いコの字型で3階建てだが天井の高さが極めて高い。絵画の展示は3階が主体である(2階にもあるがここは最近ギャラリーになった所)。当然エレベーターはないのでこの3階まで石の階段を上るのだが、これが何ともきつい。そのため現在外付けのエレベーターを取り付けるための大掛かりな工事が行われている。コの字型の外側が区切られた展示室(昔はオフィス)内側は広くて長い廊下である。この廊下はヴェッキオ宮(旧宮殿)とアルノ川を隔てたピッティ宮(新宮殿)に至る長い回廊の一部を成しており、ヴェッキオ橋上屋を経て新宮殿に至る。この回廊をあのヒトラーも歩いている。
 この日(10日)はこのあとウッフィッツ美術館やヴェッキオ宮のあるシニョリーア広場のカフェテラスで一休みして、さらにドオーモ、メジチ家が寄進した教会;サン・ロレンツォ教会の周辺を散策、さらにヴェッキオ橋を渡って川向こうへも出かけ、再びシニョリーア広場に戻って、オープンレストランで夕食とした。とにかく何処も大変な人数の内外観光客で、レストランには日本語のメニューがあった。

<老体鞭打つ徒歩ツアー> 翌11日の午前は市内の徒歩ツアーである。鉄道駅に隣接したバスセンターの待合室に集まった日本人は10人足らず、若いカップルがここでも多い。案内してくれるのはUさんという大柄な日本人女性ガイド。コースはメジチ家のライバル、ストロッツィ家の教会;サンタ・マリア・ノヴェッラ教会→ブランドショップが並ぶトルナプオーリ通り→共和国広場→シニョリーア広場に至りウッフィッツィ美術館、ここまでの建物は中に入らず外側から眺め、説明を聞くだけだ。この後嘗てフィレンツェ共和国の政庁であったヴェッキオ宮の中を見学する。市民会議が開かれた大広間にはミケランジェロの彫刻もある。ここは現在も市役所として使われている。13世紀の建物に国宝級の美術品が置かれているような場所が、現役として利用されるなどイタリアならではの感があった。ここを見た後はヴェッキオ橋を見学、そこから中心部に戻ってドオーモの内外を見学した。ドオーモはミラノでも内部を見学しているが、ミラノに比べるとここは装飾的でなく質素な感じがする。ドオーモの前にはフィレンツェ最古の聖堂建造物と言われる洗礼堂がある。
 ここでグループ徒歩ツアーは終わるのだが、ガイドのUさんは昼食の場所やボッタクリ注意のジェラード(アイスクリーム)屋など、それ以降の行動に役立つ情報を与えてくれた。私もお土産に関して有効な情報をもらうことが出来た(後述)。
 昼食までには少し時間があったので、ドオーモの中心クーポラ(ドーム部分)の外側にある回廊に上ることにした。なんせ15世紀の建物である。上るには階段しかない。それも500段近くある。北側の入口から長い行列が延々と続いている。行列に並ぶ時、前の黒人男性に英語で「これが行列の最後か?」と確認した。それがきっかけで彼と会話を始める。彼はカナダ人で、仕事でこの方面に来たついでに休みを利用してここに来たという。彼もイタリア語はダメらしい。そうこうしていると後ろの集まってきた若いアメリカ人と思しきグループの一人が「英語は話せますか?」「ええ少し」「ここは行列の最後ですか?どのくらいかかりますかね?」 あとはカナダ人が引き取ってくれた。やっと中に入ると今度は階段登りが堪える。途中で若い人に先を譲りたいが、なかなか十分なスペースのあるところへ出ない。難行苦行である。最後に表へ出るところは階段ではなくはしご。一方通行である。それでも苦労して上った甲斐はあった。好天の空の下、フィレンツェの町が360度見渡せる。オレンジ色一色の花畑である。
 昼食はUさんが別れ際にいくつか教えてくれた中の、ドオーモ近くのパスタ屋に出かけてみた。何と入口近くの席に、Uさん他何人かの日本人女性ガイドが食事中だった。ここで生活している人が利用する店に不味くて高い料理などあるはずが無い。ビールとピッツァで午後への鋭気を補給した。
 午後先ず出かけたのは、トスカーナに君臨し、法王まで出したメジチ家の礼拝堂とそれに接続するサン・ロレンツォ教会。色の違う各種の大理石で装飾された“君主の礼拝堂”。広々した空間に石造りの棺がいくつも置かれて、往時の権勢が偲ばれる。これに続く“新聖具室”と呼ばれる正方形の霊廟はミケランジェロの作で、部屋ばかりでなく墓碑の彫刻も彼の作品である。王家の廟所は英国のウェストミンスター寺院、クレムリンにあるロシア・ロマノフ家のものを見ているが、棺の大きさ・配置・空間のバランス・内部装飾どれをとってもここには敵わない。ルネサンス発祥の地と周辺国の文化度の違いなのであろうか?
 この後並ぶのを覚悟で、ミケランジェロのダビテ像で有名なアカデミア美術館へ出掛けたが、午後も遅かったせいか15分くらいの待ち時間で中へ入れた。見ものは唯一つ、ダビテ像である。他の見物客も概ね同じで、小さな美術館はここの周りだけ込み合っている。まるでギリシャ彫刻のようなあの若々しく清潔な力強さは、美術に特別な関心がない者にも、自然に「美しい」と感じさせるものがある。これは木彫や金属の彫像に比べ、大理石の明るさ・経年変化の少なさによるのかもしれないが、それ以上に作者の若さ(ミケランジェロ26歳の作品)がもたらしたものと見たい。伝説上のダビテは巨人ゴリアテを倒して王になるのだが、この像は当時共和制だったこの地方を王家の支配に置こうとする動き(メジチ家)に立ち向かう象徴として、共和制支持者だったミケランジェロが作りあげたものであるという。後年メジチ家の霊廟を作ることになったとき彼はどんな思いで仕事をしていたのであろうか?
 これで名所巡りはアルノ川対岸のピッティ宮を除いて終わった。まだまだ見所は多々あるのだが、お土産を求めたり残りのピッティ宮見学の時間を考えるとこれが精一杯だった。
 午前中のツアーの別れ際に、ガイドのUさんにお土産について質問をした。一つは孫のためにピノキオの操り人形を求めるのは何処がいいか?これは前日の夕方ピッティ宮広場まで行った帰りに、沢山ピノキオを揃えた店があったのだが、気に入った一品は糸が切れて結んであり、それ以外に手持ちがないと言うことであきらめた経緯があった。Uさんにそのことを話すと「ピノキオだったら私もあの店が一番と思っていましたが…」との答え。何処でも見かけるお土産なので「無ければローマでも」と思っていたところ、幸いダビテ像を見たあと、ドオーモを経てピッティ宮へ向かう途上、何の変哲も無い雑貨屋の店先に求めたいと思っていたピノキオがぶら下がっており、手に入れることが出来た。

 もう一つは自分のもので、ドライブ用の皮手袋である。イタリアへ来る前はファッションの都、ミラノで求める算段にしていたが、マネルビオ行きが入り買い物の時間が全く無かった。前日街を歩いていると、ある洋品店でそれらしきものを見かけたが、専門店があるのではないかと思い求めずにいた。Uさんに「皮手袋の専門店はないか?」と問うと、「それならいい店があります。ヴェッキオ橋を渡って少し行った左側に“マドバ”と言う製造会社の販売所があります。種類も豊富で、サイズなど丁寧にチェックしてピッタリのものを探しくれます」とのこと。早速出かけてみると、“MADOVA”と言う小さな店だが当に専門店、壁一面の棚はサイズやデザイン別に小分けされ、そこにビッシリ手袋が並べてある。カウンターの上には二本の棒が交差して角度が変えられる、何やら手のサイズを測る物差しのようなものがある。「ドライビング・グラブはありますか?」「ありますよ」指先まであるのが3種類、手先をカットしたものが2種類カウンターに並べられた。「ドライビング・グラブは大・中・小のサイズしかありません」 他のグラブはサイズがもっと小刻みになっているようだ。試着をしてみて、柔らかい子牛の皮で出来た、手の甲の側が明るい茶色・手のひら側がこげ茶の、指先をカットしたものを求めた。
 店にはもう一人英語を話すおばさんが買い物をしていた。私が試着しているのを見て「あの手袋は何なの?」「ドライブする時にはめる手袋です」と他の店員とやり取りしていた。私が自分用のものを決めて、支払いをしていると「あなたのおかげで息子に良いお土産を見つけられたわ」とお礼を言われた。
 このあと最後の観光スポット、ピッティ宮へ出かけた。もう時間は4時過ぎ。見学終了時間は5時までなので、切符売り場で「1時間しかないけれど、いいですか?」と念を押される。ヴェッキオ宮が建物だけで中庭以外庭園が無いのに対して、ここは庭園が売り物。とても全部は廻り切れないのは承知で入園する。入口のおじさんに「駆け足で廻っておいで」と送り出される。庭園の頂上部から西日に照らされた美しいオレンジ色のフィレンツェが一望できた。これだけで入園料を十分取り戻した。
 長い徒歩観光の一日はこうして終わった。老体にはキツイ一日だった。

<恨みのTボーンステーキ> 旅行の楽しみの重要な因子に食がある。決してグルメ志向ではないがその土地の名物を味わいたい。イタリアでは各種パスタは当然として、それ以外にミラノにはカツレツ、ヴェネツィアはシーフード、そしてフィレンツェには牛の胃袋の煮込みとフィレンツェ風ステーキ(Tボーンステーキ)があることを事前調査で知った。ミラノ風カツレツはミラノでゆっくりディナーを取るチャンスが無かったものの、マネルビオのディナーで味わうことが出来た。ヴェネツィアのシーフードは例の“めざし”でがっかりさせられた。
 フィレンツェには胃袋、ステーキ以外にも秋はジビエ(野鳥・野獣)料理も名物らしい。そこで離日前先ずジビエの可能性をMHI社に聞いてみたところ、確かに山が近いフィレンツェではジビエを食する所があるが、それは街中ではなく、行き帰り車をチャーターして郊外まで出かけねばならないと言う。これはチョッとそれまでの旅の様子が分からないので止めることにした。胃袋かステーキか?胃袋ではないが牛の煮込み料理はサンドリーゴの昼食で一度体験している。今夜はステーキにしよう。長い一日の市内徒歩観光のあと、一休みし夜の帳が降りる頃そう決めてホテルを出た。こんな時いつもならコンシュルジかフロントに適当な店を教えてもらうのだが、このホテルのフロントは宿泊階の上にあり、しかもガラス戸の向こうにおばちゃんが一人と言うような所なので、行き当たりばったりで探すことにした。昨晩もこの調子でまずまずの夕食を楽しめたから今夜も何とかなるだろう。これがケチの付はじめである。
 昨晩と同じシニョリーア広場は避け、今朝のツアーで出かけた共和国広場に何件か屋外にも席があるレストランが在ったので、そこへ出かけてみることにした。店の前に置かれたメニューや客の入り具合をチェックしながら適当な店を探し、ダークスーツを着たウェーターに案内を求め席に着いた。ここまでは特に問題は無かった。しかしなかなかメニューを持ってこない。案内役と注文取りは別の担当になることが多いのだが、案内してくれたウェーターが一人で動き回っている。こちらが待っているのを横目で見て「チョッと待ってください」と言うような動作をするのだがこちらの席まで来ない。それでも大分待ってやっと英語のニューを持ってきてくれる。メニューは入口で確認してはあるが、眺めるのも楽しみだ。前菜、パスタ、ステーキ、ハーフボトルの赤と決めてオーダー準備完了で待つのだが、一人増えたウェーターも席には来てくれない。客は次々入ってくるがこの対応も間に合わず、入口で帰ってしまう客もいる。
 最初に案内したウェーターはこちらがイライラしているのに気がついている。やがてさらに一人、赤い上着にエプロンをしたウェーターが加わり、彼が笑顔を浮かべながら注文をとりにやってきた。「これでやっとありつける!」 ワインは直ぐに供された。悪くない!しかし、前菜は現れない。どうもピッツァのような定番料理と飲み物は比較的早く持ってこられるが本格料理は遅いようだ。イライラしているのは我々だけではない。隣の席に着いた英語を話す中年女性の二人連れが「これ以上待てない」と言うように口をへの字に曲げて両手を広げて席を立つ。しかし、別の席に着いた、これも観光客らしい老夫婦のところへ例のステーキが運ばれてくるのを見ると如何にも美味しそうだ。「もう少し待てばあれにありつけるんだ!しばしの我慢だ!」 しかし期待は外れ相変わらず何も来ない。とっぷり日の暮れた中でイライラは我慢の限界を超す。赤い上着のウェーターは甲斐甲斐しく動き回っているが、何とか彼の目を捉えて席に呼び「ワインがきてから30分を越すのにあとは何も来ない!もう待てない!ワイン代だけ払うから精算してくれ!」「もう直来ます。待ってください」と言うような態度だが「とにかく伝票もってこい!」 渋々レジに行き伝票を持ってきたウェーターに勘定きっかりの金を渡し席を立った。恨み骨髄のフィレンツェ風ステーキ始末記である。
 この後別のレストランに入ったがここでは魚料理を薦められた。しかしヴェネツィアの魚料理に懲りて、ビールと前菜、パスタだけにした。隣席のご婦人の美味しそうな魚のムニエルを見てヴェネツィアの“めざし”の恨みが重なった。

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