2009年7月26日日曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(13)

13.走馬灯の40年-2<SSS後の所有車-1> 鶴見に住んで川崎に通う生活、便利な住環境、建設プロジェクトで残業続き、では車が必要なこともほとんど無かった。1971年6月長男が生まれた。それでもさして車無しで不自由は感じなかった。しかし、1973年6月第二子(長女)が生まれる少し前から、住まいも保土ヶ谷と戸塚の間の社宅に移り、一方で大型のショッピングセンターが生活の基盤になりつつあった時代になると、さすがに車無しは著しく行動を制約されることが明らかだった。何を買うか?
 ホンダは1960年代中ごろF1参戦と4輪車生産に乗り出すのだが、当初大衆車は無くS500(のちに600、800とエンジン容量をアップ)と言う二座オープンのスポーツカーだった。当然一部のマニアには評価されたものの、普及は限られたものだった。満を持して1967年軽自動車のN-360を発表し、大ヒットさせる。空冷エンジンを横置きにしたFFで、小さな外形寸法にも関わらず、客室スペースを最大限に確保するコンセプトは、明らかに欧州で人気のあったBMC(オースチンなど英国の乗用車メーカーが合併して出来た会社)・ミニからの借り物である(事実当時のBMCも“模倣”と批判している)が、日本独自の車種であった軽自動車を一歩欧米のファミリーカーに近づけた先駆者と言える。しかし、エンジンが空冷であることはF1がそうであったように、この業界では少数派である。この空冷へのこだわりは、オートバイで成功した御大本田宗一郎によるもので、熱力学的には水冷に明らかに分があった。若い技術者たちは果敢にこれに挑戦、その結果1972年に実現したのが、N-360の後継車、水冷エンジンのホンダ・ライフ(現在同名のブランドがあるが全く別)である。ミニにはない4ドアタイプもあった。1973年連休この車を入手した。私にとって初めての軽自動車、FF(前輪駆動)そして新車である。
 子供二人の四人家族、実家へ出かける際や買い物に欠かせぬ我が家の足として重宝な車だったが、走りを楽しむ類のものではない。長距離ドライブと言っても房総半島や富士五湖辺りが適当なところだった。購入の翌年、第一次石油ショックが起こるが、燃費の良い軽自動車は家計への負担増をミニマムに抑えてくれた。
 ライフに乗って5年、1978年7月に第三子誕生が予定されていた。いくら子供とは言え軽自動車に3人は辛い。次の車は何にするか?この時代、大ヒットしたフォルクスワーゲン・ゴルフの影響で大衆車のFFシフトが始まっていたが、ホンダを除けば決して完成度は高くなかった。ホンダはライフの後あのCVCCエンジンで有名なシビックを発売していた。これは日米市場で好感を持って受け入れられていた。しかし、エンジンはともかく、寸詰まりのツーボックス・ハッチバック・スタイルがどうも気に入らない。そんな時、明らかにアメリカ市場で更なる飛躍を目論むアコードが1977年発売された。シビックよりワイドで流麗なクーペのようなハッチバック、エンジンの容量は1600cc、パワーに不足は無い。すっかりこの車に魅せられ、次女が生まれる少し前ベージュの新車を手に入れた。無論マニュアルである。
 この車で親子5人夏休みにはグランドツーリングを楽しんだ。何度かの箱根行き、外房や伊豆の海、赤倉に在った保養所へ出かけ、ここを拠点に親不知まで日本海に沿って走った旅、八ヶ岳を経て小海線沿いに信州を巡る旅、東北自動車道から磐梯朝日に抜け裏磐梯に泊まり数日を過ごし、帰途は会津若松から鬼怒川を経由して帰浜したこともある。富士山5合目の駐車場に停めて、初登頂したのもこの車だった。
 重心が低く、足回りが硬めに出来ているので、山岳地帯のワインディング・ロードでは安定性がよく、運転を大いに楽しんだ。ただ、軽自動車とはハンドルの重さがまるで違い、腕力が一段と求められたのは、あの時代(大衆車にパワーステアリングは標準装備ではなかった)だから仕方の無いことだが、当時の大型FFの欠陥と言えないことも無い。
 ホンダの目論見通りアメリカで大人気を博し、70年代終わりから80年代初めにかけて、渡米すると東でも西でも至る所で見かけた。ワシントン郊外に住むバークレーの友人もセカンドカーとしてこの車を持っていた(ファーストカーはリンカーン・コンチネンタル)。

 3人の子供の成長と重なる、思い出多きこの車に結局9年乗った。
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