2009年8月1日土曜日

決断科学ノート-14(12月30日の国際電話)

 仕事柄海外、特にアメリカのソフトウェア会社と接触する機会は多かった。ソフトウェアと言っても、私の場合広い意味でのプロセス工業(化学や石油関連)の工場操業用と言う極めて特殊な分野のものである。大方は、創業者がその道の権威で、社長兼開発リーダー、経理だけ専門家を雇うと言うような規模である。その究極の形態はこのノート-1で紹介した、CDS社で、創業者は開発に専念し、経営推進者(COO)を雇うのである。こんな会社とビジネスの関係を持つ時は、大体先方も「法律家を入れて面倒な契約を交わしたくないなー」となる。こちらも願ったり叶ったりで、ビジネスの詰めをするのに率直な会話で、短期間で合意点に達する。規模が大きくなっても、創業者が株式公開を目論んだり外部から資金導入したりしない場合は、大体こんなペースで話し合いが進められる。
 問題はこのような会社がある程度の大きさになり、株式公開したり他社に吸収合併されたりした場合である。特に、株主や出資者に経営を託された“経営の専門職”と創業者・開発責任者が分離するような経営管理組織になってくると、創業者の理念や技術者同志の共感に基づく意思決定・合意形成が難しくなってくる。
 2000年の暮れも押し迫った12月30日夕刻、大掃除も終わり風呂に入っていると、家内がコードレスの電話を持って「国際電話よ」と言う。「(こんな年の瀬にいったい誰が?しかも自宅に?)」と思いつつ受話器を取った。それはASP社のD・Mと言うCOO(CEOは居るのだが象徴的な人)からだった。用件は「明日(つまり彼らの年度末)までに、ライセンシングしているソフトウェアパッケージをある数(数億円の単位)購入することを今約束してくれ!そうすれば来年度の卸売価格を大幅に値下げするから」と言うものであった。日本人の感覚では、この年末年始、これだけの金額を電話一本でコミットしろと言う要求は信じられない話である(何度か会食もしているが、自宅の電話番号は教えていなかった。日本人スタッフに調べさせたことが後で分かる)。
 ASP社の基は1980年代MITと米エネルギー庁が協力して立ち上げた、米国プロセス製造業強化策のための、プロセス設計・運転最適化ソフトウェア研究開発プロジェクトチームで、その総帥はL・Eと言う著名なMIT化学工学の教授であった。やがて、出来上がったソフトは学会・産業界で高い評価を受けることになる。そこで、このチームを会社化しNASDAQ上場を果たす。米国の典型的なベンチャービジネス成功モデルと言える。人材もデュポン、ダウ、エクソンなどこの分野を代表する企業や大学から集まり、個人経営が主体の他社を圧倒する勢いで業容を拡大して行った。ただ当初の主要顧客は大学や企業の研究所で、売上・利益は手堅く伸びてはいたものの、他のIT分野成功企業のように株主の期待する大化けは無かった。そこで取られたのが、象徴としてのL・Eを祭り上げ、経営の専門家中心の経営形態に改め、個人ベースの優れた企業をM&Aによって吸収する戦略であった。私とはExxon時代からの付き合いあったT・Bの会社、CDS社もこの戦略の中でASP社に取り込まれてしまう。最大の買収目的は当時ブームになりつつあった、サプライチェーン管理ツールとしてCDS社が持っていた生産管理ソフトウェアを取得することである。ASP社はこの分野に適当な道具が無かったのである。
 CDS社の買収価格は当時の日本円で200億円弱、他社のM&Aとは比べものにならぬくらい高額であったから、経営陣にそれだけのプレッシャーがかかっていた。それまでのプロセス・シミュレーション・ソフトとは異なる大量販売戦略が、明らかに拙速と思えるスピードで展開され、その陣頭指揮をしていたのがCOOのD・Mであった。日本マーケットにおける彼らの誤算は、CDS社と私が経営していたSPI社との長い関係に在った。足掛け10年にわたる総代理店(CDSの吸収後単なる代理店に格下げになったが)として、販売も技術も人材は全てSPI社にあったから、日本でのビジネスは嫌でもこちらに頼らざるを得なかった。
 この買収劇来、私はYahooファイナンスでASP社のインサイダー取引(関係者の株式取得、売買が公開されていた)をモニターするようになった。雇われ経営陣はストックオプションを得るのだが、D・Mを始め経営陣の大方はそれを売却し、高額の売却益を手にしていた。関係者の買い手は専ら創業者、L・Eだった。
 そんな時、上記のような電話が掛かってきたわけである。
 電話への第一答は「これだけ重大な案件は一人では決められない。年が明けたら経営会議にかけ、返事をするよ」と言うものだったが、全く納得しない。「お前はSPI社のCEOなんだろう!何故最終意思決定者として決められないんだ?」「承認規定がありCEOと言えども、これだけの金額は一人で即断は出来ない」「その会議はいつ開けるんだ?明日は?」「日本のビジネスは年末・年始の休暇に入っている。早くて1月5日だ」「世界のどこの国でも年末年始にそんな長い休みは取らない!」「今返事をしなければならないならノーだ!これが私のデシジョンだ!」 ほとんど裸に近い身で2~30分続いたやり取りは、意思決定者の義務・責任と決断を考える局面でいつも思い出す。 彼の非常識ともいえる言動には強烈な外圧が在ったのだ。
 D・Mはその後1年余でASP社を去り、後任のCOOもSEC(証券取引委員会)に虚偽報告で訴えられ、有罪になったと聞く。売却金(譲渡時は株式だったが、その後それを売却)の大半を手にし、一旦ASP社の役員に納まったT・Bは数年後そこを去り、ある日「ASP社に売却したことは間違いだった」とメールしてきた。創設者のL・Eもここを去ったが、昔の名声もあり、個人コンサルタントを続けているらしい。

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