2009年8月6日木曜日

今月の本棚-11(7月)

On My Bookshelf-11(July)
<今月読んだ本(7月)>

1)世界を制した「日本的技術発想」(志村幸雄);講談社
2)2011年新聞・テレビ消滅(佐々木俊尚);文芸春秋社(新書)
3)汽車旅放浪記(関川夏央);新潮社(文庫)
4)「アメリカ社会」入門(コリン・ジョイス);NHK出版(新書)
5)昭和のまぼろし(小林信彦);文芸春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1.世界を制した「日本的技術発想」 わが国製造業の将来を危惧する声が出だしてからもう10年位経つだろうか?ただ当時の危機感は専ら3K職場としての問題だった。特に優秀な人材の理系離れ・現場離れである。しかし、最近はグローバル競争における退潮の兆しに対する危惧に変じてきている。新興国の生産技術の向上が目覚しい反面、生産の現場を海外に移したわが国企業の管理技術の相対的な低下や国際基準作りに対する国際政治上の力不足などがそれである。また、個々の企業がバブル経済崩壊後、投資効率を一段と重視することから来る、シェアー低下なども問題点と言えよう。さらに、国家財政が苦しく政治的な安定を欠く環境から、魅力的な国家プロジェクトも立ち上がってきていない。80年代から90年代にかけての自信過剰ともいえるあの勢いはどこに行ってしまったのだろう?
 こんな世相を反映して、“もの造り”に関する督戦・啓蒙的な書物が数多く出版されてきている。本書もその系列に属するものである。筆者は工業調査会と言う出版社を主宰する、ベテランの技術(科学ではない)ジャーナリストであることから、他の本で主に取り上げられる組立加工業(機械や電子)ばかりでなく化学などにも視点を広げ、日本技術の特質を、事例を中心に素人にも分かりやすくかつ興味深く解説している点は評価できる。伝統文化と技術の関係を解説する件で、和時計(明るさ・暗さが基準)の仕掛けや金沢泊の技術の電子工業(導線の折りたたみ)への応用などを取り上げているのは、エンジニアにも足元を見直す良い機会を与えてくれている。
 しかしながら、この種の本に共通するのだが、“なんとかしよう”と言う熱意は十分伝わるものの、“どうすべきか”が今ひとつはっきりしない。わが国が国際社会の中で豊かに暮らしていくためには、製造業の頑張り以外道は無い。特に金融危機以降その感は益々強くなってきている。基礎研究、新製品開発、市場開拓、製造技術それぞれの分野で日本的発想・文化を最大限に生かした壮大な国家改造、民族の質的変換をテーマにした議論が待たれる。

2.2011年新聞・テレビ消滅  現役時代、新入社員導入教育で新聞を定期購読している者を質したら、ほとんどゼロだった。10年位前のことである。3人の子供(と言っても30代だが)の内一人はネットで十分と新聞を取っていない。タイムズ(英)、ニューヨークタイムズも外から資本を導入した。歴史のあるシカゴ・トリビューンは潰れた。わが国の全国紙も経営は厳しい。明らかに新聞界にグローバルな変化が起こっている。
 テレビの惨状はそれ以前から始まっている。1957年、評論家の大宅壮一が「紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い」と喝破しているが、それから半世紀経ち、まともな社会人はほとんど相手にしていない。私はもう10年以上NHKのニュースと天気予報を観るくらいである(時々テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトを観るが)。
 筆者は元毎日新聞記者であり、その後IT関連メディアの世界に転じたジャーナリストである。その体験に基づく「既存メディア崩壊論」だけに説得力がある。ポイントはメディアの既存ビジネスモデル;種々の既得権と広告それに取材から編集・販売に至る垂直モデルから成っているが、これがネットの普及で急速に壊れてきているという点である。メディア・政・官による既得権複合体の実態は、メディアによって確り封印されてきたが、ネット社会ではこれが隠しきれないことなどこの本でよく分かった。無論既存メディアも電子新聞のようにネット進出を図っているが、日米ともとても経済ベースに乗るものではない。有料でも見に行く情報は専門性の高さが勝負だが、一般紙の内容にはこれだけの価値は無い。
 2011年に焦点を合わせているのは、例の地上ディジタル波への切り替え(電波の独占権が弱まると言うのだがここはよく分からない)がこの年であることと、わが国のメディア・ビジネス環境はアメリカの3年遅れと言う仮説から来ている。
 ネットの力をやや過大評価している気もするが、“驕るメディアは久しからず”が近々実現することを願って止まない。
 この“驕れるメディア”は決して私の私見ではなく、大学生向け講演で全国紙の幹部が「われわれが皆さんに、どの記事を読むべきか教えてあげるんですよ。これが新聞の意味です」と語ったことがこの本に記されている。

3.汽車旅放浪記 一言で言えば“暇つぶしに読む本”である。鉄道モノは最も好きなその種の読み物。読んできたものの中では宮脇俊三、内田百閒などがその代表的なものといえる。もっとも、この二人はただの“暇つぶし”で読んだわけではない。二人とも文学として完成度が高く、“学ぶ”と言う要素もかなりあった。
 筆者はノンフィクション作家としてそこそこ知られた人である(私はこれが初めて)。少年時代から旅と鉄道は好きだったようで、書き出しは就学前に法事で上京するために乗った上越線から始まり、高校時代の自転車旅行へと続いていく。
 この本の特徴は、以前この欄で紹介した「文豪たちの大陸横断鉄道」同様、“鉄道の旅と作家たち”にある。最初の上越線は無論あの「雪国」であり、川端康成である。坂口安吾(久留里線、小港鉄道)、松本清張(鹿児島本線)、林芙美子(筑豊本線)、太宰治の津軽線や漱石の「三四郎」の導入部としての山陽鉄道・東海道本線へと展開していく。ここに登場する作家は私の興味の対象外(漱石は除く)で全く読んでいなだけに、近代日本文学への誘いとして、思わぬ収穫があった。
 もっと嬉しかったのは、二人の先達、宮脇俊三と内田百閒の旅を取り上げていることである。特に宮脇については印刷様式を変えて90ページ近く費やして、その内容や背景の補足説明を、自分の足で確かめながら筆者なりの観察眼で書いている。またあの「阿房(アホウ)列車」シリーズで有名な内田百閒は出身地、岡山だけは行っていないことなどもこの本で知った。彼が借金漬けだった(それでも一等車指定である)ことは有名だが、岡山のそれはとても立ち寄れる状態ではなかったようである。さすが百閒!とも言える姿が浮かんでくる。
 暇つぶしも偶には悪くない。

4.「アメリカ社会」入門  英国人同一筆者(オックスフォードを出た、当時デーリーテレグラフの東京駐在記者)による姉妹編に2006年12月に出版された「ニッポン社会」入門がある。渡英に際して、同期入社のF君が「参考になるよ」と贈ってくれた本である。確かに若干の皮肉とユーモアを交え、英国社会の実態がニッポンとの対比で愉快に描かれ、英国人との付き合いに生かすことが出来た。
 その彼が米国に渡り、ニューヨークを拠点にフリーランスのジャーナリストとして体験する米国社会の特質を、英国・日本と比べながら見事に焙り出している。
 英国生まれの筆者が最初に住んだ外国は日本。結局15年住むことになるのだが、来日前予想していたことは「日本で暮らす前、イギリスとはまるっきり違う国を想像していた。しかし、長く住むうちに、(中略)、結局、人間のすることはどこもたいして変わらないという考えに行き着いた」という。次の外国、アメリカについては「アメリカ人はだいたいイギリス人と似ているだろう、(中略)と考えアメリカにやって来たのだが、完全に間違っていた」とまるで逆の結論に達するのである。
 我々日本人、そしてこの二国以外の人間も、両国にまたがる“紐帯”を強く感じ、“アングロ・サクソン”としばしばひとまとめにする傾向がある。しかし、筆者によれば“米国”は他の国とはまるで異なる国だと言うのである。このユニークさを、ビール、スポーツ、貧富の格差、アメリカ英語、社交術、宗教そして歴史上の逸話などを例に説明していく。
 その事例を二三簡単に紹介すると;米国人は英国が階級社会だと非難するが、政治の世界でファミリーや二世・三世(ジュニアーという名付け方は英国には無い)が幅を利かせているのは圧倒的に米国だと言う。また、信心深く、それが原理主義的傾向を帯びやすいのも英国との違いだと。ビジネスの世界では人脈作り(ネットワーキング)が不可欠で、上昇意欲の強い人ほどこれに熱心だが、英国ではこんなことをあからさまに行う人間は、相手にされない。
 こんな話を聞いていると、 二年前、初めて英国の小さな町に約5ヶ月滞在し、彼らの慎ましい生活の仕方に親近感を感じたことが思い起こされる。
  “グローバル・スタンダード”の掛け声の中で、実は世界のどこにも無い“米国流”のやり方を、ビジネスでも日常生活でも知らず知らずの内に押しつけられている恐れがある事を本書で知った。

5.昭和のまぼろし
 本欄で何度か紹介した、小林信彦“週間文春”連載の時評「本音を申せば」の最新文庫版である。得意のエンターテイメント(映画、芝居など)を材料にしたものが多いが、政治絡みもあり、独特の辛口かつユーモラスな語り口に、スカッとした読後感を味わえる。

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