2009年8月25日火曜日

決断科学ノート-16(沿岸防空軍団長の怒り)

 シーレーンの守りは英国の生命線である。これは海軍と空軍の共同作戦域でもある。現在“OR生みの親”と称せられる、ブラケットはマンチェスター大学教授のまま軍の各種の委員会メンバーやアドバイザーを務めていた。最初は空軍省の防空科学委員会、次いで航空科学研究所、陸軍の対空砲軍団、更に空軍の沿岸防空軍団の顧問を務め、その後海軍省の科学顧問に転じ、対潜作戦や護送船団作戦に数理応用を鋭意進めていく。
 これらの仕事の内、沿岸防空軍団時代から海軍省に移動した初期の時代はほとんどシーレーン確保のための数理手法開発(そのための人材育成・体制作りを含む)に傾注し、現場から高く評価されている。それらは、航空爆雷の起爆深度設定、Uボートによる哨戒・爆撃機発見を遅らせる塗装色、Uボートと共同作戦をとる長距離哨戒機、フォッケウルフ(FW)-200攻撃のための複座戦闘機の運用問題、新兵器導入における不確実性の解析など多彩なもので、これらの相乗効果が着実に商船の被害を減じていき、ついに彼のグループは海軍軍令部副部長直轄組織にまでになる。
 他国の軍隊ではとかく縄張り争いが目立つ、空軍と海軍の協調も理想的になっていく。それは空軍の三つの実戦部隊(他の二つは、戦闘機軍団と爆撃機軍団)の一つである沿岸防空軍団の日常指揮を海軍に移し、両軍の連帯責任の下で運用する形にしている。一般に強力な上位課題が在る時、対立する組織はその行動基準を変え協力する(旧帝国陸海軍や現在の中央官庁はそれでも変えない?)。それほどUボートの脅威が凄まじかったともいえる。
 この様に、一見順調に進んでいるように見えた対Uボート作戦だが、まだ安心は出来ない。戦争内閣の対潜水艦委員会(2週間に1回、首相官邸で開催)は海軍に更なる強化策について報告を求める。海軍省はこれをブラケットに命じたため、作られた報告書がブラッケトとその時の沿岸防空軍団長、スレッサー中将との激しい論争を呼ぶことになる。報告書の内容とまとめ方に問題があった。
 その内容は、190機の重爆撃機を爆撃機軍団から沿岸防空軍団に回すことを提言するものであった。これは長年、何度も論じられてきた空軍存立の理念に関わる問題に波及する、単なる資源配分問題では無く、高度に政治的な火種なのだ。バトル・オブ・ブリテンを辛うじて耐え、本来の役割である“守りよりも攻撃”に転じた空軍では「一機でも多くの爆撃機をドイツ都市爆撃に!」が日々の合言葉である。スレッサーも空軍の本流に在る人。「爆撃機の転用など全く必要ない!兵器の要否を決めるのは自分だ!」と提言を支持しない。
 ブラケットにしてみれば、英国が戦い続けられるかどうかシーレーンの確保にある。これ以上の上位課題は無いとの認識だし、海軍から命じられた仕事ゆえスレッサー(空軍)に相談することでもないと考えていた(空軍に根回しが必要ならば海軍のしかるべきラインですべき)。スレッサーは一言も相談に与らなかったことにも腹が立った。「沿岸防空軍団は最もOR利用に理解があった組織なのに!」と怒りをぶちまける。「科学者も使い方を誤ると無価値だ!戦略は計算尺(スライド・ルール)で作るものではない!」
 戦後二人はこのことに関して言葉を残している。スレッサーは「空軍OR公史」の中でORが今次の大戦で極めて有効な武器であったと賞賛しつつ、あの時の怒りの言葉「戦略は計算尺(スライド・ルール)で作るものではない」を締めくくりとしている。
 一方のブラケットは、「空軍の指導者がORグループによって整えられた“統計・計算”という突っつき棒で小突かれのた打ち回り、あげく“戦争は兵器で勝つもので、計算尺ではない”と吼えていたのを憶えている。しかし、事実はこの時から“計算尺戦略が常態化したんだ”」と。
 OR利用推進はその初期の段階でもこんなシーンがあった。その後の平時における利用にもそれは変わらない。数理担当者は組織内で如何に立ち回るか、考えさせられるエピソードである。

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