2009年10月14日水曜日

センチメンタル・ロング・ドライブ-48年と1400kmの旅-(26)

26.熊野三山-2(本宮へ) この日は朝から曇り勝ち、日が射したのは那智大社に詣でている時だけだった。速玉大社を出たのは3時過ぎ、この時刻にしてはやや暗い感じだ。42号線を新宮市内で別れ168号線に入るとしばらく緩い坂道が熊野川の西岸を上っていく。48年前バスで初めて上って今回で4度目だ。道そのものは基本的に変わっていないが、舗装状態は著しく改善し落石防護柵やガードレールも整備され、道幅や曲がり具合が修正されずっと走りやすくなっている。曇天の暗さで水墨画のような対岸の景色がむしろ強く印象付けられる。
 小一時間分ほどこんな景色が続いて宮井大橋で瀞へ向かう169号線と分かれ、168号線は西に向きを変える。記憶では本宮までほとんど川と併行していた道が長いトンネルに入り再び川沿いに戻る。あきらかにこの道は新しい道だ。ちょっと不安がよぎる。「(中辺路への道もここ同様新しくなってしまったのだろうか?)」と。やがて“川湯温泉”、“湯の峯温泉”への分岐標識が現れるがそれらには構わず直進すると本宮の町に入る。明らかに景観が41年前とは違う。歩道が幅広く取られ、小奇麗な古い田舎家風に造られた土産物屋や飲食店など両側に続いている。最近あちこちで見かける、いかにも観光のために造りましたという雰囲気が見え見えで残念だ。道路を改修するなら、バイパスを造って旧道を残し、お宮さんと古い町そのものを一体として残せなかったのだろうか?
 英国に居た時、代表的な田園地帯と言われるコッツウォルズを訪れた。幾つかの村々を廻ったが、それぞれに特徴があり、古いものが見えないところで手を加えられ、そのままの形で保存されているような所から、この町同様いかにも人口臭・商売臭のする再開発まで各種在った。人気があり、高い評価を受けているのは前者である。わが国の歴史的町並み保存はどうも後者が多い気がする。数少ないこの種の訪問地;倉敷(ここは美術館が主役)、馬籠宿、妻籠宿(ここはかなりまし)、三春町そしてここ本宮で感じたことである。
 さすがに高い杉木立に覆われた長い石段や本宮境内は昔のままである。他の二社が朱塗りであるのに対して、ここの社殿はいずれも無垢の木のままで、それが黒っぽく変色しているのが時代と清廉さを感じさせる。やはり神道はこうありたい。
 無論崇神天皇(B.C.33?)の御世と伝えられるこの神社が何度も建て替えられていることは想像していたが、往時を偲びつつ石段を降りてそこに立つ大社由来の説明書きを読んで驚いた!実はこの社殿は明治後期にここに建てられたもので、元々の所在地は熊野川の中洲に在ったのだという(鳥居の跡だけ残っているとのこと)。中世からの熊野詣はそこで行われていたのだ。何故明治期に移されたのか?!更に説明を読んで二度吃驚!洪水である。無論ただの洪水ではない。明治に入ると近代化が始まる。木材の需要は急騰する。森林資源の権利関係が徳川の手を離れ統制が効かなかったようだ。乱伐が山の保水力を失わせ、洪水が頻発した。人災である!環境破壊である!それにしても罰当たりな事をしたものである。現在発展途上国で広がる環境破壊を非難できない前科が身近なところに在ったわけだ。
 いま紀伊半島は木々に覆われ、熊野川の上流(十津川)にはダムもいくつかある。最近はこの地の水害も聞かなくなっている。明治の人災が何とか復旧したということであろう。しかし、木々と水くらいしか資源のないこの土地で再び何が起こるかわからない。豊かな保水力を持つこの半島の土地を中国資本が狙っているという噂まである。

 こんな歴史を三度目の本宮参拝で初めて知った(熊野街道を走るのは四度目だが、初回は本宮には来ていない)。
(写真はダブルクリックすると拡大します

0 件のコメント: