2009年10月8日木曜日

決断科学ノート-19(科学者と政治-2;ブラケットの場合②)

 政府・国策検討の場から遠ざけられていたブラケットは、その後も講演や雑誌などに政治的発言を積極的にしている。その関心事はおよそ次の三分野に整理できる。核戦略(核軍縮)、後進国救済支援、英国の科学技術振興策がそれらである。いずれのテーマも高度に政治的な問題を含むが、彼の主張の根底には全て科学者としての考え方が貫かれている。それは“科学は、産業を振興し、貧しさからの脱却を図り、世界の平和を実現する最良の手段だ”と言う考え方である(核戦略に関しては、大量殺戮に関する人道的な視点、またアメリカの一極支配に対する警戒感もあるが)。
 この情報発信の間、物理学者としての研究活動に大きな変化が起こっている。戦前・戦時在籍し、長年勤めたマンチェスター大学(1937~53)を去りインペリアル・カレッジに移って、物理学部長としてその拡大計画(財務を含む)実現に深く関わるようになっていく。また本人の研究関心事も、宇宙線→地磁気学・古地磁気学→岩石磁気学へと移って行くのだが、これも“宇宙と地球の関係を物理学で解明する”と言うテーマの中で極めて緊密な関係にあり、機軸は一貫性を保っている。(余談だが、潜水艦磁気探知機の発明・発案は諸説ある。戦時中ブラケットもこの開発に関わっており、英国では彼を実用システムの研究開発者する説が有力;旧帝国海軍の関係者は、航空機搭載用は日本が唯一実用化に成功したと言うが…)
 この様な活動の中で、人々は彼のそれまでの言動の本質を理解するようになり、容共主義者(あるいは共産主義者)と見る誤解が少しずつ解けていく。のちに二度にわたって首相を務めることになるハロルド・ウィルソンと知り合うのは、ウィルソンがアトリー内閣の商務大臣の時で、政府研究機関の成果を民間に普及するための組織、National Research and Development Corporation(N.R.D.C.)のメンバーの一人としてブラケットを選んだ時、1949年からと言われている。このポストは戦時中あるいは学者としての名声かから見れば高い(国の大きな施策に深く関わる)ものではないが、彼の復権につながる切掛けをつくることになる。ここで戦後の先進国の貿易・産業分析(無論OR的に)を行った彼は、敗戦国のドイツにも劣る英国の実情(技術革新、生産性、貿易額など)に危機感を強く持つようになる。しかしアトリー政権は1951年下野、保守党がその後1964年まで政権を担当する。彼はその危機感を在野から訴えるしかなかった。
 1960年の労働党党首選でヒュー・ゲイッケルに敗れたウィルソンは、1963年思いがけないゲイッケルの急死で党首への道が開けてきた。その年の労働党大会でウィルソンはブラケットが提唱していた産業振興策の目玉、生産省(Ministry of Production)構想をぶち上げる。総選挙を予測された翌年、ブラケットは更にこれをN.R.D.C.を母体にした、政府のR&D予算を統括する、科学技術省(Ministry of Technology;MOT)として練り上げ、著名な左翼系週刊誌、The New Statesmanに発表し、ウィルソンもその設立を約束する。
 1964年10月の労働党の勝利とウィルソン政権の誕生でこのMOT構想は実現、初代担当大臣は科学者で作家のC.P.スノー(のちのスノー卿;代表作「The Two Cultures;科学と人間性」)が任ぜられ、ブラケットは省運営委員会の副委員長(委員長はスノー自身)として1969年秋までその地位に留まって、自ら描いた構想を実現すべくこの役職に情熱を注いでいく。特にその前半はまるで副大臣のように彼の考えは全て受け入れられ、仕事の優先度も彼によって決せられたと言う。しかし、ウィルソンが後年「彼が望めば貴族院議員にして大臣にすることも可能だったが、彼はそれを望まなかった」と述べているように、政治的野心とそれによる役得など、全く心の内に無かったようだ。それもあってか、後半はMOTと他省庁との整理統合が進められ、彼の意図とは異なる組織に変貌、居場所を失ってしまう。
 科学と人間を愛することで際立った彼に、その良きバランスをとるために必要な政治性がいま少し有ったらと言うことであろうか?

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