2010年10月28日木曜日

決断科学ノート-48(トップの意思決定と情報-8;経営者と情報システム部門-3)

 NKHさんの副社長は社長含みだった。経営システム(経営会議の創設など)は彼のイニシアティヴで大幅に変わっていった。その一つとして、副社長直轄であった情報システム室は情報システム部となり技術担当取締役の主管となった。それまでとは違い担当役員が部屋にやってくるようになったが、何となく役割が軽くなったような気がしないでもなかった。この役員は若手課長時代、LP導入には大活躍しその後も製油部長や工場長を経験した人なのだが、この時にはIT活用に関して、もう往時の情熱を維持してはいなかったからだ。それに対して副社長はこの分野に一方ならず関心が高かった。
 この時期部門の大変革をもたらすいくつかの動きが始まっている。一つは本社の大幅な業務合理化とそれに伴う、情報装備の一新プロジェクト。それと1983年に始めた技術子会社におけるシステム技術の外販をきっかけとした、情報サービス子会社設立の検討である。
 販売を持たない特殊な会社ゆえ、工場の情報化は業界でも先頭を走っていたものの、本社は必ずしもそうではなかった。OAブーム到来の中で、その環境改善要望の声が本社スタッフの中で高まっていた。表計算ソフトを組み込んだ特殊なPC(SORD)やスダンドアローン型のワープロ(TOSWORD)などの導入でお茶を濁していたものの、とても全社的な業務革新につながるものではなかった。本社システムの難しさは、定型的な数値処理中心の工場システムとは違い、文書(それも日本語)を扱うところにあった。当時のIBMはこの日本語処理で著しい遅れがあり、これを国産機に置き換える必要が出てきた。それが実現したのは1983年の晩秋である(このメインフレーム入れ替えプロジェクトについては本ノートで別途報告予定)。
 この新しい機械をベースに本社事務業務改革を支援するプロジェクトとしてTIGER-Ⅱ計画が立ち上がった。これは失敗に終わった経営者情報システム、TIGERの名誉回復(失敗を糊塗する?)を込めて名付けられたものである。今度のシステムは役員が直接使うシステムではなく、役員に情報提供するスタッフ業務に焦点を当てたものになった。結論から言えばこれが正解であった。役員とそれを支えるスタッフ、そのスタッフと一心同体でシステム開発を行う部員の間に、密なコミュニケーションの場が醸成され、使い物になるシステムが出来上がったのである。
 プロジェクトは大掛かりなもので、相当数のシステム開発要員を集め、育成する必要があった。また事務系のSEが始めてIBM以外のコンピューターと本格的に取り組む機会を作った。一方で全工場共通の次世代プロセス・コンピュータ(TCS;Tonen Control System)導入は山を越し、1983年春から外販ビジネスに着手していた。TIGER-Ⅱはまだ開発途上にあったものの、完成後の人材活用を考慮して、事務系を含めた外販ビジネスを新規事業として立ち上げる話が、1984年になると副社長周辺から出てくる。
 1985年7月、大部分の情報システム部員は新会社、システムプラザ(SPIN)に移り、本社機構は情報システム関連業務の全社的企画推進を主体とする、少人数のシステム計画部として生まれ変わることになったのである。軍隊で言えば参謀本部機能を残し、実戦部隊は分社化したということである。この考え方はその後の情報サービス業務のアウトソーシングの流れなどから見て、決して間違ってはいなかったと思う。
 今企業内のIT利用に関して望まれていることは、自社の経営戦略・戦術に精通しかつ急速な進歩と広がり持つIT利用に関する知識を持つCIO(Chief Information Officer;必ずしもITの専門家ではない)、参謀としてそれを支える少数の、広い視野を持ち冷めた目で技術動向を見極められる部員の存在であろう。
 社長の一言から発したTIGER(経営者情報システム)の失敗は、企業経営・経営者・情報技術・情報システム部門に関してその後四半世紀にわたって、私を悩まし続け、叱咤し続けてくれた教科書と言える。
(経営者と情報システム部門:完)

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