2010年12月31日金曜日

決断科学ノート-54(ドイツ軍と数理-3;電撃戦と兵站-2;三つの電撃戦-1;ポーランド侵攻)

 電撃戦(この言葉の由来には諸説あるのだが)の嚆矢といわれるのが、1939年9月1日に始まるドイツによるポーランド侵攻である。しかし、軍事専門家や戦史家による後の分析では、対ポーランド戦は「本格的な電撃戦」ではなかったとする見方が大勢である。両国の戦争準備の格段の差異から、この戦いがほぼ2週間で決したこととドイツの宣伝が巧みであったことでその突進力が過大評価されたきらいがあるのだ。
 確かに装甲部隊と空軍の共同作戦はあったが、装甲部隊が作戦で集中的に使われたわけではなく、各装甲師団は戦術レベルで師団ごとに戦っている。当時の参謀本部の評価も「この戦い方が西方で成功するとは思えない」というものだった。
 しかし、ヒトラーはソ連との密約で定められた分割線まで到達すると、返す刀で西方作戦を行うべきと言い出す。この時ドイツが備蓄する弾薬量はあと2週間分しかなかったし、車両の半数は稼動できぬか、重整備が必要だったにも拘らずである。それは陸軍だけのことではなく、空軍も同じだった。ここには怜悧な戦争経済(兵站を含む)の考えは全く存在しない(一応の資材・物資計画は検討されていたが、ヒトラーが決断に際してそれに拘束された形跡は無い)。彼のこの発言は、ポーランド侵攻もそれまでの恫喝外交の延長、旧ドイツ帝国領の回復(ポーランド回廊など)なので英仏の宣戦布告は無いと読んでいたのが見込み違いだったことよる。それでも現実は覆い難く、西方作戦の開始時期は30回近く延期され、8ヵ月後の翌年5月に始まる。皮肉にもこの遅れにより、ドイツ軍は装備の強化、資材手当て、人材育成が行われ、本格的な電撃戦が可能になったのである。
 さて、ポーランド戦役における兵站の実態はどうだったか。装甲力が加わったとは言え、ドイツ国防軍の計画は用兵も兵站も旧来からの考え方から脱しておらず、国境までの輸送は依然鉄道中心である。そこから先の補給は、理想的には鉄道と自動車輸送(200マイルを境に、それより長距離は鉄道が優れていた)の併用となるのだが、敵味方による鉄道破壊は凄まじくポーランド領内では機能しなかった。また、自動車輸送も当時のドイツのトラック保有数はとてもこれに応えられるものではなく、さらに道路の状態も予想以上に悪かったので、損傷率は50%以上に達している。結局輓馬輸送だけが頼りで、「戦車と車両の軍隊」ではなく「馬匹の軍隊」(ドイツ軍の軍馬総数270万頭;これは第一次世界大戦時の2倍!)というのが実態であったのだ。戦車の進撃速度は時速10kmだが、時速4kmの歩兵・輓馬に引きずられてとても電撃とはいえないペース。それでも馬脚を現さなかったのは、ポーランドの準備不足と侵攻距離の短さ(約200マイル)で、戦いが短期間で決したからである。
 第一次世界大戦は「石炭と鉄鋼の戦い」であったが、第二次世界大戦は(荷馬車で戦ったとは言え)「石油とゴムの戦い」。消耗品であるガソリン・タイヤ・弾薬の輸送量は前大戦の比ではない。使える道路は破壊活動やゲリラなどで限られる。そこを、戦車・自動車化歩兵、徒歩歩兵、輸送用トラック、荷馬車で進撃していく。補給の車両や馬車は再び補給所まで戻っていく。交通は混乱し兵站問題も深刻化していく。数理でこれを最適化することなど、とても思い至らなかったことは容易に想像がつく。
(つづく;三つの電撃戦;西方作戦)
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