2011年2月27日日曜日

決断科学ノート-59(大転換点TCSプロジェクト-2;前奏-2;多彩な第一世代プロコン)

 石油化学へのSPC導入、和歌山工場でのDDCによるスタートアップ。プラント建設は続き、新設・既存主要プラントへのプロコン適用は60年代終盤から70年代前半にかけて、止むことがなかった。プロコンの方も日進月歩、少しでも良いもの(性能、機能、価格)をその都度選んでいった結果、一段落ついたときには多種多様な機種がグループ内に散在することになった。
 DDCではYODICが機能を一段と強化した-600にモデルチェンジし、東燃川崎工場のオンサイト(主要精製装置)、オフサイト(受入・出荷、調合、在槽管理)に採用された。しかし、石油化学ではコンビナート各社とパイプラインでつながっていることもあり、万一のトラブル対策に問題ありとして、このプラント直結部分の制御には依然電子式アナログ・コントローラが使われることになる。
 SPCは石油化学のTOSBAC(東芝)-7000(GE-4020の国産化)を皮切りに、和歌山のOG-2プロジェクトでFACOM(富士通)-270-20が稼動、このシステムはその他のプラントも含め専ら運転データー収集処理に使われるようになる。次いで東燃川崎工場の大規模拡張計画でIBM-1800の導入が決まり、ほぼ同時期に東燃和歌山工場のFCC最適化にMELCOM(三菱電機)-350-30が採用された。石油化学は、その後第3スチーム・クラッカー(ナフサを分解してエチレン・プロピレン等を生産する装置)、ユーティリティ、試験室用品質管理システムと継続してT-7000を採用し、東燃(日網石油精製を含む)も川崎後はIBM-1800に機種を絞り込むが、それでも用途によって異なるシステム(石油化学;TOSBAC-40、東燃;Y(山武)-516;和歌山オフサイト)が入り、まるでプロコンのデパートのような状態を呈するようになる。
 時間が経つに従いこの多種多様なプロコン設置の問題点が露わになってくる。基盤的な技術にしろ応用的なものにしろ、それをマスターするには相当な時間を要する。当時はアプリケーション開発担当者(プロセスを熟知したSE)でもOSの概念を理解した上でコンピュータ言語(FORTRAN)を駆使して、制御システムを開発するのだが、折角一つのシステムに馴染んでも、別のコンピュータで開発するときには、一から学び直さねばならない。また完成させたアプリケーションを他へ移植することも簡単には出来ない。
 システムの保守はハード、ソフト共に深部への理解度が一層求められるので、担当者はほとんど人柱になってしまい、人材の育成・活用に著しい制約が生ずる。さらに保守部品の問題も出てくる。メーカーを含めた供給体制は問題ないのだが、工場内・事業所間の横の融通が利かない。一朝有事の際(エマージェンシーなど)、この制約は決して軽くは無いのである。
 加えて、 “多種”と言う問題とはかけ離れたことだが、当時のプロコンは汎用機と異なり、特殊用途(信頼性やスピード)のため拡張性に著しく制約があった。特に集中型のDDCではそれが顕著だった。
 さらに、70年代後半から具体化する工場管理用コンピュータとこの多種のプロコンとの接続に関する諸々の問題も派生した。統一標準仕様が無いため、それぞれの接合ソフトを開発しなければならないし、通信性能は遅いものに合わせなければならなくなる。
 これらの欠陥がシステム担当者以外にもはっきり見えてきたのが第一次石油危機である。原油価格は高騰し、それまで経済性が期待できなかった多くの運転改善対象が一気に適用促進項目として浮上してきた。経営トップや工場管理職はそれらの改善を一日も早く実現するよう強く求めてくる。コンピュータに余裕のある間はそれに応えることができても、それが尽きると拡張性の壁にぶつかる。移植性の問題が適用のスピードを遅らせる。川崎工場次長のKNIさんに「新たな投資をする前に、すべてのプロコン・アプリケーションを経済性の面から再評価し、低いものは外せ!」と言われたのも、プロコンの存在価値が高まると同時に問題点も顕在化してきた1970年代半ばである。
(次回:前奏-3;業界事情)

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

とても懐かしく読ませていただきました。

Unknown さんのコメント...

とても懐かしく読ませていただきました。
SDKでも1966年にスタートしたアンモニアプラントにて FACOM 270-20によるSPCに始まり 大分コンビナートに於けるエチレンプラントのSPC用途のIBM-1800, アセトアルデヒドプラントの完全DDC用に開発したYODIC-500システムのスタートした1969年は第一世代のシステムが完成、成功した思い出深い年です。 Y.Kojima