2011年9月1日木曜日

今月の本棚-36(2011年8月分)

<今月読んだ本>
1)8月16日の夜会(蓮見圭一);新潮社(文庫)
2)戦略外交原論(兼原信克);日本経済新聞出版社
3)英雄たちの朝(ジョー・ウォルトン);創元社(文庫)
4)ワシントンハイツ(秋尾沙戸子);新潮社(文庫)
5)三陸海岸大津波(吉村昭);文藝春秋社(文庫)

<愚評昧説>
1)8月16日の夜会
 20年くらい前まで、終戦記念日が近づくとあの戦争に関する映画や本がどっと出るのが常だった。しかし、最近は映画・TVは無論本もめっきり少なくなった。そんな中で目にしたのが本書である。
 軍事・戦争物は好みのジャンルだが、主たる興味は近代兵器とその運用システムにある(特に飛行機、戦車、潜水艦、機動部隊)。その点で旧日本陸軍は最も遠いところにあり、もう一つの関心分野、満洲関連を除けばほとんど読まない。著者の名前も知らなかった。戦争物が極端に少なくなったこの頃だから、偶々手にとってみた本である。
 舞台は沖縄である。しかし、あの凄惨な本島の戦いではない。否、数人の米兵との対決、撃ち合いはあるものの、これは戦闘を主題にした話でもない。本島中央西に延びる本部半島から指呼の間に浮かぶ伊江島と言う小島での、島民と敗残兵たちの物語である。しかし、「あの戦争にこんなことがあったのか!」と言う新鮮な発見と、今に及ぶ沖縄戦の奥の深さ(反軍事基地感情)を知ることが出来たのは、思わぬ収穫であった。
 主人公が二人で時代も違う二重構成の小説である。一人はこの島に身分を偽り、青年学校の教師として赴任していた中野学校卒業の下級士官。もう一人はその士官と交流のあった、現地召集された沖縄出身の兵士の孫。祖父の死でこの孫と元教師(士官)が出会い、遺灰を沖縄の海に流しに出かけることを契機に、当時の島の様子が語られる。
 教えるべき若者のいない島へやってきた若い教師を、誰もが胡散臭い目で見つめる。やがて本島の戦いに敗れた重砲隊の敗残兵(指揮官は陸士出の大尉)や不時着した海軍のパイロット(下士官)なども加わり、島民との共同生活が始まる。本島が落ち、付近の島も米軍に占領されると、両者の間に疑心暗鬼が広がり、少年までがスパイと疑われ殺される。この少年は奄美大島から奴隷として買われてきたため、島民から余所者として蔑まれ、苛められている。しかし、買主にとっては大枚を叩いた大切な財産、殺してしまっては元も子もない。引き金を引くのは軍人だ。
 この他にも不時着した米軍パイロットや占領された隣の島(伊是名島)から除隊を前に遊びにやってきた米兵が殺害されるのだが、軍人は島民をたくみに煽り彼らに実行させる。こうすることにより、島民の口封じが出来るからなのだ。この島に平和が戻るのは9月20日(旧暦8月15日)であった。職業軍人に対する島民・現地招集兵の恨みは消えない。
 参考文献に名も知らぬ出版社(晩聲社)からの本が二冊(島の風景、虐殺の島)挙げられている。多分ストーリーの骨子はこれを基にしているのであろう。結婚相手を戦争で失い何度も結婚させられる女性、少年奴隷(奄美大島から買われて来るこのような少年は、戦前沖縄に大勢居たようだ)の話、実質的な島の支配者だった大尉は晩年中米の大使になっていることなど、皆事実に近いことだと考えられる。一つだけ信じられないのは、当時の米軍がヘリコプターを使っていることである(実用実験段階にあったが、沖縄戦で利用されたという記録は見たことがない)。


2)戦略外交原論
 少し仰々しいタイトル(特に、“原論”)に惹かれて購入した。期待外れであった。先ず“原論”と言うからには客観的でなければならない。また、それを支える確固とした哲学が必要である。著者もそれは気が付いているとみえ、いろいろな歴史的事例を援用しつつその客観性と考え方の一般化を引き出そうとしているが、牽強付会で自説に落とし込もうとする姿勢が見え見えだ。自ら理想と考える外交官像、それによるあるべき外交と言うのが本書の実態といえる。相応しいのは“日本外交私論(あるいは試論)”あたりであろう。
 本書は著者(現役上級外交官;現駐韓国公使(多分筆頭))が非常勤講師を務める大学法学部で行った講義録である。構成は3部(Ⅰ.国益とは何か、Ⅱ.国際情勢を戦略的に読む、Ⅲ.国益を実現するための課題)から成る。第Ⅱ部、第Ⅲ部は学部学生にわが国を取り巻く国際情勢とそれへの取り組みを解説するという観点からはよくまとまっていると思うが、問題は第Ⅰ部である。ここでは、人間社会はどう構成されていったか、国家の発生はどのように進んだか、価値観とはいかなるものか、国益とは何か、外交官とは何か、国益を守るため外交交渉にどのような姿勢で臨むべきかなどが語られるのだが、この理論構築に四書五経(特に孟子;性善説)、仏典、葉隠れなどの武士道物や松蔭に関する書物、またルソーなどの西欧啓蒙思想などが多数引用され、その根本に人間・人間社会の善・良心が据えられ論理が展開されていく。この部分がどうも“個人的な理想主義”の匂い紛々、付け焼刃の感を免れない。
 それもあり著者とこの著作に関するつぶやき(ツィター)を調べてみると、古典引用の間違い(原典の意味解釈から年代の齟齬まで)が中国研究家や歴史研究者と思しき人たちから多数寄せられている。これは実務家が学問・研究の世界(抽象化)に入るときの典型的なミスマッチの例といえる。学部学生対象とは言え、迷惑な話ではなかろうか。


3)英雄たちの朝
 1940年5月10日に開始された西方電撃戦の勢いは凄まじく、二週間後の5月24日には英仏連合軍をダンケルクに追い詰める。ドイツ装甲部隊の指揮官たちは一気にそれを包囲殲滅しようと欲するが、ヒトラーは何故か停止を命じる。これには諸説あるが、真の理由は不明のままである。一説には英国との和平交渉の余地を残すためだったとも言われている。この小説はこの説を受けて、ドイツと単独講和を結んだその後の英国政界を巡る政治ミステリーである。
 6月の本欄(-34)で紹介した「遥かなる未踏峰」の解説記事の中で、“ジョンブル魂を強く思い起こさせる”秀作のひとつとして載っていたので読んでみることになった。結論を言えば、こちらが想像したストーリーとは全く違うものだった。ボタンを掛け違ったのは、この小説は戦争・軍事ミステリーでは全く無く、殺人事件の謎解きと言う伝統的な探偵小説だったことである。確かに、政治力を持つ上流階級に食らいついて執拗に真相を究明するミドルクラスの警部補は“ジョンブル魂”の権化と言ってよく、解説が間違っていたわけではなく、こちらが迂闊だっただけである。
 ただ、殺人物ミステリーとしては、背景となる英国上流階級・政界の話がくどく、ロジックの組み立てが甘くなってしまい緊迫感を欠く。これが2010年度「週刊文春」ミステリーベスト10の2位とは、私には信じられないことである。著者(カナダ人、女性)は本書を含むファージング(英語の題名;保守党右派の貴族の館の所在地)3部作で売り出すのだが、元々は幻想小説が専門だったようで、本格派の推理小説家ではないことも、この物足りなさに関係しているような気がする。
 英国社会のホモや反ユダヤが舞台回しの重要な鍵になるが、これは英国社会の実態を現しているのかもしれない。古き英国貴族階級の世界を垣間見る面白さだけが何とか興味を持続させてくれたが、ひとに薦めるような本ではない。


4)ワシントンハイツ
 少年時代(1950年代;小学校6年生から高校生まで)何度か明治神宮の横にあったワシントンハイツ(今の代々木体育館、NHK、代々木公園)を外から垣間見たことがある。ハリウッド映画のアメリカがそこに在った。貧しい日本とは別世界である。
 この本が単行本で出たとき(2009年7月)から気になっていた。しかし、ハードカバーの本は保存場所や価格の点で、最近はほとんど買わないことにしているので見送った。幸い比較的早く文庫版が出たので購入したが、予想した内容とは全く異なるものだった(悪かったわけではない)。
 こちらが勝手に期待し予想したのは、あの時代におけるワシントンハイツの中と外の圧倒的な生活ギャップである。まだ戦争の残滓がいたるところに残る都心で、中ではどんな人がどんな生活を営んでいたのか、中から見た外はどのように見えたか。周辺の日本人は中をどう見ていたのか。こんなことが興味の中心だった。無論本書でも、断片的にあるいは枕としてこのような内容も紹介されるのだが、それは団子の串のようなもので、団子はワシントンハイツそのものではなかったのである。
 団子は、東京爆撃、降伏文書調印、戦争裁判、パージ、夜の女、食糧援助、平和憲法制定、警察予備隊の誕生、安保騒動など、敗戦から占領、やがて主権回復までのプロセスなのである。個々のトピックは著者独自の調査によるものもあるものの、既に多くの人々によって書かれてきたことが多く、特に新鮮味を感じることは無かった。副題の“GHQが東京に刻んだ戦後”こそタイトルに相応しいと言える。
 あとがきを読んで初めて、著者がこの本で訴えたいことは、今日の日本がここに書かれた占領政策の延長線に在り、依然としてアメリカの属国のような状態にあることを、日本人に広く知らしめ、真の独立国に脱皮することを促していることが分かった。それは貴重な意見ではあるのだが、本文を読む限りそれが切々と伝わらないのは、読者の読みが浅いのか、はたまた著者の表現力が空回りしているのか、難しいところである。
 著者は1957年生まれ、その年代以降の人にとってはこうしてまとめてある戦後史とその現在が、日米関係を理解するのに手ごろなのかもしれないが、私にとってはハードカバーを買わなかったことは正解であった。


5)三陸海岸大津波
 3月11日のあの時間、私は自室で本欄でも紹介した「定刻発車」を読んでいた。いつに無い大きな揺れに、東西両壁面の書棚から何冊か本が降ってきた。しばらくすると停電。復旧したのは深夜。TVに繰り返し映し出される大津波に驚かされた。しばらくするとこの本が書店に平積みされ、ベストセラーに登場してきた。単行本(題名は“海の壁”)が出版されたのは、今から40年前、1971年である。文庫本も初めは新潮社からでて、今は文藝春秋社に移っている。超ロングセラーと言っていい。
 著者は私の好きな作家の一人である。とは言っても読んでいるのは専ら「戦艦武蔵」を始めとする戦争物で、この本は読んでもいないし知りもしなかった。読んでみて薄い冊子ながらその奥の深さと、訴求力にあらためて感服した。
 取り上げられているのは明治29年(これが今回のケースに一番近い)、昭和8年、そして昭和35年のチリ地震による三つの津波である。帯に<吉村記録文学の傑作>とあるように、これは小説ではない。と言って詳細な調査を重ねたノンフィクションとも違う。内容は三つの津波のデーターブックとも言えるが、それを生存者の話、古文書、子供たちの作文などを交えて、更に気象学者や地震学者などから理論的裏づけをとって、読み物として纏め上げている。津波の高さ一つとってもその定義が簡単でなく、一見信じがたい数字が無視できないことなどがよく解る。
 文系人間の資質が最高に生かされた自然科学読み物として、科学・技術を一般人に語り理解させる手本と言っていい。

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