2012年4月13日金曜日

決断科学ノート-113(自動車を巡る話題-7;自動車ジャーナリズム-2;コンテンツ)




この半世紀、夢であり憧れであったクルマは、やがてマイカーとして身近なものとなり、使う側の関心・ニーズも変化してくる。さらに国内市場が成熟し、グローバルな資源・環境問題がクローズアップされ、種々の制約が加えられるようになる。この間のわが国自動車産業の成長は著しく、その変化をチャンスとして捉え、トップランナーへと発展してきたが、必ずしも安閑としていられる状況ではない。一つの例は、世界的には自家用車の中心を占める、セダンのマーケットにおける、日本車の存在感の薄さである。そしてその責任の一端は自動車ジャーナリズムにもある。過度な外国車礼賛と(重箱の隅を突くような)技術偏重である。
わが国乗用車生産の実質的なスタートは戦後、それも昭和30年(1955年)前後である。トヨタからクラウンとマスター(主にタクシー向け)が日産からダットサン800(やがて1000)が発売される。とにかく量産車を作れるようになったと言う段階で、とても世界市場に出せるようなものではなかった。それでも当時国産乗用車を生産できる国は米・英・独・仏・伊くらいだったから快挙だったのである。
当時の自動車雑誌の記事は、専ら技術的な内容が濃く、世界の先端技術に如何に伍しているかを解説する記事が多かった。筆者は主に自動車会社の技術者や機械工学の研究者。従って“運転する”、“所有する”と言う視点を欠いていた。
1950年代末期、本格的な乗用車生産に経験の浅いことを補うように、日産がオースチン(英)、日野がルノー(仏)、いすゞがヒルマン(英)と提携し、ノックダウンを始めると、彼我の比較が行われるようになり、それは技術ばかりではなくインテリアデザインにまでおよぶようになる。やっと“所有する”に踏み込んだ話題が自動車雑誌に取り上げられるようになってくる。
こんな時代、この“所有する”に加えて“楽しむ”視点を前面に出して創刊(1962年)されたのが、前回紹介した「カーグラフィック(CG)」である。特に外国車の試乗評価レポートはこの雑誌の目玉であり、人気抜群であった。第一回の特集は、何とメルセデス・ベンツである。まだまだ発展途上だった国産乗用車との比較も記事の中に散見され、厳しい評価を受けていた。しかし、学ぶことの多かった国産車メーカーへの愛の鞭となったことも確かである。
問題は、ここで育った自動車ジャーナリストが、必ずしも国産車を正当に評価せず、外車礼賛の風潮を今に引き摺っていることである。国産車が取り上げられるのは極めてまれである一方、米国車を除けば先ず外車の悪口を書かない。
それ故に、身近な存在である国産車を取り上げ、真摯に分析し(提灯記事でない)、消費者に適切な情報を提供して欲しいという願いは、潜在的に購入予定者や自動車愛好家の間に高まっていた。その期待に応えたのが徳大寺の「間違いだらけのクルマ選び」であった。この本によって、一時徳大寺は業界(メーカーのみならずジャ-ナリズムからも)から村八分に会うような扱いを受けたとも言われる。しかし、日本人の生活(所得など)を踏まえた、歯切れの良い評価は消費者や自動車ファンの圧倒的な支持を得ることになり、言わば“バイヤーズレポート”として、長く人気をはくすことになる。彼のような目で国産乗用車(特にセダン)を取り上げ、地道に報じていればミニバンと軽自動車が溢れる自動車ガラパゴス列島が少しは違うものになっていたのではなかろうか。
このガラパゴス化のもう一つの遠因に、かつて“Road & Track(米国自動車雑誌)”で読んだようなドライブ紀行がほとんど今の自動車雑誌に取り上げられないことがある。運転の楽しみはクルマだけではなく道や風景、あるいは土地々々の文化との触れ合いによってもたらされる。この楽しみを伝える努力を全く欠いては、自動車産業の特殊化(ひいては衰退化)が進むばかりでなく、自動車ジャーナリズムも同じ道を辿ることになるのではなかろうか。「旅と文化とクルマの融合」、こんなコンテンツが切に望まれる。
(次回;自動車ジャーナリスト;本テーマ最終回)

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