2012年8月11日土曜日

決断科学ノート-108(メインフレームを替えるー2;非IBMという考え方)



1960年代から80年代中頃まで、汎用コンピュータの世界はIBMが断トツだったが、それでも70年代半ばあたりまでは多くの会社がこの分野で、覇を競い合っていた(50年代まで遡ると、米国初の商用コンピュータはUNIVAC-Ⅰである)。米国ではUNIVAC、バローズ、NCR、ハネウェル、CDCGEなど。欧州では英国のICL、フランスのマシン・ブル、ドイツにはシーメンス。わが国は富士通、日立、東芝、NECが頑張っていた。
このような混戦の中からIBMが抜け出すのは、何といても1964年のS360発表以降である。この機械は、真空管→トランジスタと移行してきた電子回路を構成する素子がICになったことから“第三世代”と呼ばれ、最新技術を売り物にしていた。性能・信頼性が抜群に向上、言語もアッセンブラーは無論、COBOL(事務用)、FORTRAN(科学技術用)が使え、主記憶装置を初めとする各構成部に幅を持たせることが可能な作りになっていたので、用途・ユーザーが一気に広がった。真の意味での“汎用機”出現である。各社は当然これに対抗する新型機開発にかかったが、技術的にも経済的にも極めて厳しい状況に置かれ、やがて撤退かニッチ・マーケットへ追いやられていく。そんな中で、日の出の勢いの日本経済と国策(富士通・日立、東芝・NEC、三菱電機・沖の3グループに集約、グループ内では大・中・小を分ける)をバックに国産各社はIBMの巨城に挑み続けていた。
IBMの商売の仕方は、“自社標準製品を売る”ことに徹している。選択肢はあるが顧客向け特注はない(NASAのようなところは別だが)。顧客がコンピュータを買うのは、それを使って“従来の業務の仕方を変えること(それに依って経営効率を高める)”である。素のコンピュータは何の役にも立たない。ここには明らかに売り手と買い手の間にギャップがある。今ならシステム・インテグレータと言う仲介者がここを埋めるのだが、それがはっきり独立したビジネスとして認知されるには、90年代まで待たなければならない。IBMがこのサーヴィスを始めるのは、ダウンサイジングの流れの中で、経営危機に陥り、1993年ガースナーが乗り込んで、大改革を断行してからである。
国産各社のIBM対抗策の決め手はここにあった。「期待通り動くまでお手伝いします」 コンピュータ導入初期の頃のサーヴィス報酬は“ハードのオマケ”程度で、とても儲けるところまでいかないが、各社ともここに力を入れていた。結果として、知らず知らずのうちにシステム・インテグレータとしてのノウハウを身に付けることにはなったが・・・。
IBM商法の第二の特徴は厳格な定価販売である。それも国産機と比べると高い。仕様が決まると営業が見積書を持ってくる。調達部門は何とか値引きを求める。ここが彼らの力の見せ所であるし、売り手の方も同様である。しかし、IBMとの間ではほとんどその余地が無い。営業が出来ることは、性能や規模を落とすこと、一部に中古品使用を薦めること、リース会社を咬ませてリース料金を下げることくらいである。“出精値引き”でぎりぎりまで頑張る国産各社とは担当者の遣り甲斐も変わってくる。
何とか採用が決まると契約である。IBMは自社様式・内容の契約書を持ってきて「済みませんが、この通りでサインしてください」と置いていく。買う側から見るとIBMに一方的に有利な内容に受け取れるが、基本的に修正は認められない。「(社内事情があるので)ペナルティなど絶対課さないから、稼働率の数字を一行入れてくれ」などと頼んでもダメである(実際には、現場;営業・SECE、はそれに向けて頑張ってくれるのだが・・・)。
嫌米思想、くたばれヤンキース!突出した強者に対する、嫌悪感はどんな社会にも存在する。「IBMは慇懃無礼な会社だ!それに引き換え、国産X社はよく日本的経営を分かっている」こんな話をしばしば聞いたものである。

(次回;予兆)

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