2013年1月22日火曜日

決断科学ノート-134(メインフレームを替える-28;稟議書提出前後)




次期システム検討の詰めに際して、創立記念日NKH常務の部屋で起した私の不始末(機密保持不履行)はこの件を前へ進めるに当って、いろいろな不都合を生ぜさせることになる。MTKさんと伴にお詫びに伺うため秘書室にアレンジを頼むが、その時間がくると“ダメ”が入る。こんなことが9月末まで続く。
前にも書いたように、この年(1983年)は、年初から情報システム室にとって例年とは異なることが次々と派生する年だった。
先ず1月にTTEC(東燃テクノロジー;エンジニアリング会社)にシステム部が発足、TCSIBMACSと横河電機・CENTUMを中核とするプラント運転制御システム)をIBMと一緒に販売することを始めた。その波及ビジネスとして連休明け頃から出光石油化学向けに生産管理システムのコンサルテーションを始めており、この準備・推進に私自身かなり時間をとられていた。
また4月からTCSプロジェクト推進のキーパーソンで、汎用機技術にも詳しいTKWさんが慶応ビジネススクールに1年間通うことになり、ほとんど不在に近い状態になった。
同じく4月それまで室次長だったMTKさんが室長となり、TTECの部長職を私に引き継ぐことになった。
その私に、今度は海外ビジネススクールでの研修話が持ち上がってくる。場合によると7月早々出発のケースも考えられたが、これは最初の候補校(スタンフォード大)から「日本人枠は既に満杯」との返事が来て、9月中旬からコース開講のカリフォルニア大学バークレー校に行くことに変わる。
加えて、本社事務業務改革プロジェクト(Tiger-Ⅱ)が、これも連休明けから本格化し、次期システムは決まらぬまま、分析・設計業務がスタートし、機械計算課のメンバーを中心にシステム開発グループが発足、課長のMYIさんは実質的にこのリーダーを兼務することになる。
この様に情報システム室の主だった管理職の周辺に大きな環境変化が起こる中での次期システム選択である。特に私の米国行きは極めて微妙な時期になる。富士通はR380の販売が好調で、受注生産ではなくしばらく先行見込み生産をするので、9月中に正式発注があれば年内納入が可能との見通しを提案してきている。MTKさん、MYIさん、それに私とも、稟議書採否はともかく(不可の場合は、Tiger-Ⅱに不都合なところもあるがIBM継続)私の出発前に決裁が行われることを必須と考えていた。
そんなわけで、NKHさんに対する謝罪・釈明の機会が与えられぬまま、8月に入ると富士通に絞った稟議書の作成にかかった。予算はリース物件切替継続になるのでほとんど問題は無い。業務革新のため端末は大幅に増えるが、省力効果で充分それは補える。MF切替の難易度・時間も事前の試行でスムーズに出来る見通しが立っている。先端技術研究開発でも決して見劣りしない。日本語処理と日本型経営環境での実績ではIBMより遥かに優れている。稟議書の骨子はこんなもので、9月初旬には完成し、承認を求める手続きを開始した。起案から最終承認至るラインは、数理システム課長・機械計算課長→室長→副社長→社長。合議は経理部門(予算)、購買部門(調達)、技術部門(主要ユーザー)、人事部門(業務革新プロジェクト)、製造部門(主要ユーザー)等であるが、ユーザー部門や合議関係者の受け取り方も好意的なもので、部長レベルまでは難なく承認印を押してくれた。後は役員を残すのみとなったが鍵を握るNKHさんは会ってもくれない。
9月末「まあ、気にせず行ってこいよ」とのMTKさんの一言に、後ろ髪を引かれつつバークレーに出発した。

(次回;教室に届いた電報)

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