2013年2月4日月曜日

決断科学ノート-136(メインフレームを替える-30;捨て身の稟議書承認)




カリフォルニア大学バークレー校(本校)、企業向け短期MBAコースへの参加は、その後の私の大きな財産となった。いずれ別テーマでそれについて触れる予定だが、東燃情報システム子会社、システム・プラザの業容拡大はこれ無くして無かったと言えるほどその後に影響力のあるものだった。
約一ヵ月半のコースを無事終え、家内を卒業式に呼んで、その後ソルトレークでレンタカーを借り、ザイオン国立公園、パウエル湖、モニュメントヴァレー、グランドキャニオン、ラスベガスと走る私費旅行に費やした。次期システムが決まっていたこともあり、この旅を晴れ晴れした気分で楽しむことが出来た。
帰国は11月中旬。1120日、この日は日曜日だったがF-380 の搬入があり出勤した。本社があったパレスサイドビルは上階に向かう貨物エレヴェータが無く、8階のガラス壁を外して、高架クレーンで吊り上げて運び込んだことが今でも鮮明に記憶に残る。
それにしても9月下旬の離日からこの日まで2ヶ月しかない。この短期間に何故ここまで来ることが出来たのだろう?特に稟議書の承認でネックになっていたNKH常務の了解をどう取り付けたのだろう?帰国して先ず室長のMTKさんに聞いたことはそれである。それは、驚天動地、当にMTKさんの捨て身の行動があったからなのだ。
入社以来、起案者・部門として、合議関係者・部門として、いろいろな稟議書手続きに関わってきた。最終承認者は金額によって異なるが、大体が工場長か社長であった。全ての承認印をもらうと大きな案件では20個位になる。本件の稟議書も、最下位(起案者)の私から始まり承認印がべたべた捺されている。チャンと主管の副社長印があり、その上の社長印もあった。しかし、肝心のNKHさんの印は無い!長期不在や病気などで欠印が生ずるケースも偶にあったが、NKHさんは毎日出社されている。まるで事情が飲み込めず、思わず「どう言うことですか?」と聞く私に、このために用意されていた、承認規定を示しながらMTKさんが説明してくれた。
それに依れば、合議はパスすることが出来るような表現になっているのである。情報システム室は副社長の直轄、起案元である数理システム課・機械計算課の二人の課長、室長、副社長、社長の印は必須だが、合議印は少なくとの関係部門の誰かが印を捺していれば、欠けてもいいのだという。NKHさんの管轄(経理)では既に、予算課長、経理部長の合議は取り付けてある。技術部門出身者には思いもつかないこの手段を教えてくれたのは、MTKさんと同期入社の購買部長NKNさんであることも、この時聞かされた。MTKさんが困っているのを見るに見兼ねて助言してくれたのだと言う。
しかし、そう言う抜け道が規定上は可能だとしても、なかなか実施に移すことは出来ないのが普通のサラリーマンだろう。それを決した時のMTKさんの心の内はどのようなものだっただろう。NKHさんが他の役員と微妙な関係にある時期とはいえ、将来の社長候補としてトップを走っていることは間違いなく、大勢の人間が彼の顔色を窺い、おもねていた時であれば尚更である。
MTKさんは、最近亡くなった小沢正一と麻布学園(旧制)の同級生、戦時の繰上げ卒業で二人とも海軍兵学校に進む、その年8月終戦、半年足らずの在校、同校最後の期である。もし指揮官になっていたら部下は粉骨砕身、彼のために戦ったに違いない。連隊旗のIBMから富士通へと言う大転換は、このようなリーダーなくして実現しなかった。

(次回;テープカットとその後;最終回)

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