2013年2月11日月曜日

決断科学ノート-137(メインフレームを替える-31;テープカットとその後;最終回)




東燃の決算期は1月~12月。その期末をひかえて混乱は許されない。11月下旬から新システムへの切替作業にかかり、無事翌19844月にサービスを開始した。新システムの処理能力は4倍、ディスク容量は約2.4倍に強化された。
4月のある吉日、本社コンピュータルームに富士通の山本卓眞社長と東燃MTY社長が揃い、起動式が行われた、そしてその場にはあのNKH常務も同席、富士通役員の方々と和やかに歓談している。この間合議了解の印が捺されぬ稟議書の件が問題になることは無かった。NKHさんの心の内は窺い知ることは出来ぬものの、連隊旗切替は波乱無く進み、本社合理化プロジェクト(Tiger-Ⅱ)推進の態勢は整った。
Tiger-Ⅱはこれ以降、着々と新システムの機能(特に、日本語処理)を最大限に活用して、ユーザー・フレンドリーなアプリケーションを開発、本社のコンピューター利用環境を一気に、オンライン・リアルタイムで行えるように変えていった。技術計算プログラムやLPモデルを使った生産計画検討も、従来の使い方を問題なく継承できたばかりでなく、グラフィック機能等を利用して、よりユーザーに使いやすい形で、情報提供できるようになった。
IBMMFは本社からは消えたものの、工場には生産管理やプラント運転制御用に複数台のMFが導入されていたので、技術情報の入手を始め、IBMとの交流が変わることは無かったし、並行して、新たに富士通との定期的な情報交換の場が出来たので、双方から学ぶことによる相乗効果で112以上になるメリットを享受できるようになった。IBM製品のACS(高度プロセス制御システム)販売協力関係も順調に推移。これらのことは更に1年後情報サービス子会社立ち上げで、大きく効いてくることになる。
決死の稟議書決裁を決行したMTKさんは室長を外されることも無く、その地位に留まった。富士通はその労に報いるように、ユーザー会幹事を依頼、本人もこの役割を楽しんでいた。
最も驚くべきことはNKHさんと富士通の関係である。この切替が行われる以前、NKHさんと交流のある富士通の役員は、第一勧銀から移った経理財務担当の方一人だけだった。それも仕事が同じ領域ゆえの付き合いで、特に親しい関係ではないようであった。そのNKHさんが、いつの頃からか、山本社長(後には関沢社長)と親しく食事を伴にする機会を持つようになったことを営業から聞かされる。あれほど反対していた人が見事に変身するのをみて、“君子豹変する”の喩えを身近に見ると伴に、その柔軟性に大いに学ばされることにもなった。その後NKHさんは大方の予想通り、副社長、社長と昇進していくが、この付き合いはその後も続き、食事の場ではないが、山本社長(会長)との打ち合わせの席に同席することが何度かあり、極めて親しい関係にあることがその場の雰囲気で分った。
IBMMFが全社中核システムとして復活するのは1987年、インテリジェント・リファイナリー(IR)構想が打ち上げられたのが切っ掛けとなる。それぞれの工場にあった生産管理システムの更新期が来ており、FACOM380Rで取り扱っていた本社の生産管理システムを含めて全面的に再構築することになる。この構想ではバッチ処理を基本とする技術プログラムも生産管理システムと連動し、オンラインで扱うことを目論むので、とても既存のFACOM一台で実現することは難しい。結局、事務系統のアプリケーションはFACOM、工場の生産管理機能と本社技術系アプリケーションを新規導入システムに統合することになる。この頃になると日本語処理機能はPCに移り、IBMと国産メーカーに差がなくなってくる。その結果IR用にはIBM3090導入されることが決まる。同時に事務系統のアプリケーションも強化し端末も一人一台態勢にするため、F380を-760にグレードアップすることになった。
大型MF2セットも本社コンピュータルームに置く余地は全く無い。通信環境が一変したこの時期、高い家賃を払って都心にそのスペースを保持する必要は無い。新コンピュータセンターは精製工場としての機能を停止した清水工場の本事務所を改造・耐震強化して使うことになった。19889月から11月にかけ二つの中核MFが新センターに設置され、翌年(平成元年)から本格全面稼動し、その運用はシステムプラザ(SPIN)の子会社東燃システムサービス(TSS)が行うことになった。爾来私がSPINを去る2003年まで、機能強化・周辺機器置き換えは行われたものの、この2MF体制は続いた。
IBMと富士通、世界と日本を代表するコンピュータ・メーカーの旗艦システムの切替と並行利用を行ったことは、企業としても個人としも、大きな財産となり、情報サービス会社立ち上げと、その後の発展は“これ無くして無かった”と断言できる。企業人人生の当に“竹の一節”と言える出来事であった。

(完)

これをもって、長期の連載を終わります。長い間のご愛読、ご声援に深く感謝いたします。有難うございました。

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