2013年10月31日木曜日

今月の本棚-62(2013年10月分)


<今月読んだ本>
1)零戦(堀越二郎);角川書店(文庫)
2)ライフワークとしてのまちづくり市民参加型の社会をめざして(中村義);文芸社
3)週末はバンコクでちょっと脱力(下川祐治);朝日新聞出版(文庫)
4)工学部ヒラノ名誉教授の告白(今野浩);青土社
5)ビッグデータの正体(ビクター・マイヤー=ショーンベルがー、ケネス・クキエ); 講談社
6)自動車と私 カール・ベンツ自伝(カール・ベンツ);草思社(文庫)
7)大西洋防壁(広田厚司);光人社(文庫)

<愚評昧説>
1)零戦
スタジオ・ジブリの宮崎監督最終作となった「風立ちぬ」は堀辰雄の同名小説に、零戦の設計者、堀越二郎を重ね合わせた作品と聞く。堀辰雄の方には全く興味がないが、堀越二郎は少年時代の憧れの人だった。
戦争に敗れ、日本人による航空機の設計・製造はもとより運用も禁じられた時代、乗り物好きの私の関心は専ら鉄道に向いていた(自動車も乗用車などは戦前のものを使っていた)が、1951年(中学1年生の秋)サンフランシスコ講和条約が調印されると、やっと日本の空が戻ってきた。当時から書店に立寄るのが習慣になっており、そこで目にしたのが創刊されたばかりの航空雑誌である。“世界の
航空機”、“航空情報”に載る最新鋭の米英の軍用機や軽飛行機の写真に目を奪われた。鉄道技師志望は一転航空機技術者へ変じる。だから著者の名前は早くから知っていた。それが挫折するのは大学受験の失敗に依る。しかし“三つ子の魂は百まで”、飛行機への関心は今に続く。
映画「風立ちぬ」が話題になり始めて“堀越二郎”が主人公と知り、「そういえばあの本があるはずだ」と書架を探したが見つからなかった。本書のオリジナルがカッパ・ブックス(光文社の新書)として1970年に発刊された時に購入し読んでいるからだ。そんなとき本屋でフッとこの本を見かけ購入した。
飛行機は人工物の中で最も美しい物と感じる。中でも戦闘機は抜きん出ている。第二次世界大戦には数々の優れた戦闘機が誕生したが、間違いなく零戦はその一つである。そして美しい!個人的に美しいと感じている当時の軍用機に、ムスタング(戦;米)、スピットファイアー(戦;英)、モスキート(戦、偵、爆;英)などがある。ドイツも数々の名機(メッサーシュミットMe109やフォッケウルフFw190;いずれも戦闘機)を生んだが“美しさ”と言う点では今ひとつ欠ける。零戦以外に共通するのはいずれも液冷エンジンを積んでいることである。空冷ではどうしても頭でっかちなり“無骨”な感じになってしまう。それを克服した数少ない、否唯一の成功作が零戦である。美しい飛行機は性能も良い(ここが他の工業製品と全く異なる)。速度、航続距離、空戦性能が就役時には際立っていた(速度と上昇力だけは一部の陸上機(制約が少ない)にやや劣ったが、艦上機としては出色だった)。その名機がどのようにして誕生したのかを、主任設計者である自ら書き下ろしたのが本書である。
著者には零戦に先立つ作品として96艦戦がある。制式艦上戦闘機として、固定脚ではあるがわが国初めての低翼単葉全金属機で、支那事変で大いに活躍、高い評価を得たものである。特に旋回性能は抜群で、米・ソの支援を得ていた中国空軍を圧倒する。しかし、航続距離が短く、戦線が奥地へ移ると爆撃機の援護が出来ず、被害が拡大する。これを解決すべく昭和12年に海軍から提示されるのが、のちに零戦となる十二試艦戦の要求書である。
「はたして、こんな飛行機が設計できるか」用兵側(特に戦闘機乗り;源田実など)の過酷な要求に堀越は自問し、軍側との会議で「世界を見通しても、このたびの戦闘機に対する目標は、あまりにも高すぎるように思います。要求される性能のうち、どれか一つか二つ引き下げていただけないでしょぅか」と質問する。答は予想通り「引き下げられない」と言うものだった。
ポイントとなるのは重量軽減。エンジンの出力と大きさの制限から、発艦距離(向かい風10mで70m)、航続距離(巡航速度で8時間;2000kmを超す)、速度(500km以上)、空戦(旋回)性能、上昇力などを一気に解決できるのは重量を減らすしかない。本書の核を成す第二章“不可能への挑戦”ではこの問題への、自らの身を削るような努力と創意が語られる。
試験飛行、制式採用、事故と原因究明、生産技術や材料問題、太平洋戦争前半における無敵の活躍、やがて露になる限界、次期艦戦「烈風」開発の苦難。零戦のすべて、堀越二郎の人生のすべてをこの一冊に込めて書かれた本といっていいし、その後に書かれた零戦物もほとんどがこれを敷衍している。
久し振りの再読であった。大筋では記憶と違わなかったが、細部は読み直してあらためて、当時の日本航空技術の開拓者の志し・レベルの高さと限界(人材、エンジン開発、材料、量産技術など)への挑戦に感動を新たにした。若い技術者やそれを目指す人に是非読んでもらいたい本である。

2)ライフワークとしてのまちづくり市民参加型の社会をめざして
専門・仕事以外のことに時間を費やすことに関心が薄い。学生時代は数多ある部活の内、機械工学と密接に関係した自動車工学研究会に所属しただけ。企業人になってからも組合活動には、義務として務めた職場委員だけ、町内会でも当番に当った時だけ役員を引き受ける。自ら積極的にヴォランティア活動をしたことも無いし、これからも多分やることはないだろう。従って本書を読むまで、こう言う世界にはトンと縁がなかった。
著者は現役時代寮生活や工場勤務を一緒にした友人、長期に滞米生活も経験した優れた化学技術者である。もともと多趣味なこともあって、60歳の定年を待たずに早期退職プログラムを選び、高齢化社会や地域社会また環境問題に貢献する活動を行っていることはOB会やフェースブックを通じて知ってはいたが、今回本書を読んで、それが年寄りの暇つぶしではないことを確り教えられた。最初はひとつひとつの活動が独立したものとしてスタートするのだが、どこかでシナジーが起こり、関連を持つようになって、変化する社会(高齢化や過疎化など)に適合する街づくりや人材育成全般を総合的にカバーする専門家になっていく姿を具体的に見せてくれるのだ。
最初に紹介されるのは親族(本人は僧侶ではないが、ここに住まいがある)が営む寺の建て直しである。いまどきのお寺はコンクリート造りも多いが、伝統木造建築の寺を再建することにする。このための調査や寺社大工との交流にはエンジニアとしての下地が充分生かされる。しかし、単に昔の姿を再現するのではなく、自分達の老後や環境も考え、エコやシニアライフも考慮した要求も盛り込むことを忘れない。これが切っ掛けで寺社建築や環境問題、高齢化社会に対する接点が出来ていく。
好きな旅も一見さんの観光客に留まらず、旅行者の目を居住者に転じさせ、それまでの経験や知識を踏まえ、“街づくり”へ発展していく。ここまでくると組織的な活動になりNPOや地方行政も絡んでくる。そこにはまた別の課題も多く、新たな行動規範が求められ、ノウハウが蓄積されていく。
本書の特長は、何と言っても著者の多方面に対する、若い頃から持っている好奇心(唎酒師から司馬遼太郎研究まで)と自身の体験に基づいて具体的に書かれているところにある。老後を如何に過ごすか、成熟・高齢化社会にどう向き合うか、既に後期高齢者目前の私よりは40代、50代の人が読めば、今からの過ごし方が少しは変わり、第2の人生への備えが出来るのではなかろうか。

3)週末はバンコクでちょっと脱力
私の読書傾向はノンフィクション中心なので、本欄閲覧者で小説好きの友人・知人からは「よくこんな硬い本を読みますね!」などと揶揄(だと私は受け取っている)されることがある。戦争・外交、技術・IT、伝記・時評などが多いことは確かだが、興味がある分野だから、特別読むのにエネルギーを消耗しているわけではない(偶に、最後まで読み通すのに苦痛を感じる本が無いではないが)。とは言っても“気楽な時間を過ごす”のに相応しいジャンルはある。一つは軍事サスペンスやスパイ小説、もうひとつが旅行記である。
下川祐治の旅行本は本欄で、5,6冊既に紹介しているが、この人を知ってから、私にとって“下川祐治でちょっと脱力”と言ったところである。旅先の社会を掘り下げている点では鋭いものがあるのだが、語り口にほんわか・ほのぼの感があり、ホッとする。東南アジア(人)に対する、日本人(時には中国人)から見た“ゆるさ”を容認する姿勢に妙に納得感があるのだ。
今回の舞台は、長年居住し言葉にも不自由しないタイのバンコク。著者の最新書下ろしで、直近の(政治情勢を含めた)バンコク事情を紹介する。私も1984年、2003年、2008年と3回訪れているので親近感のある(そして好きな)町であることから本書を手にした。
タイトルの通り、週末の短い期間をバンコクで過ごす旅を想定して、日本発の飛行機に乗るところから始まり、夜行便帰国前のひと時を過ごす川沿いの食堂(表紙写真)で終わる旅行記の形式になっている。しかし、中身はこれをリアルタイムの時間軸で追うのではなく、数十年前からごく最近の体験までを、週末の行動・出来事に、その都度反映させながら書いていくので、時間的(歴史的)対比を楽しむようになっている。つまり現状に至るプロセスを追うことでバンコク(タイ)社会の変化とその背景を理解できるのだ。
例えば、第二章の「空港から市内へ」はスワンプーム新空港に降り立ち都心までの交通を語るのだが、それ以前のドーンムアン旧空港とどのように違ってきたか(違わないか)。タクシー(正しくぼる)、リムジン(ハイヤー;私は安全性からこれを利用するよう旅行社から進められたが、一見公的機関にでも運営されているように見えたが、実は利権の巣窟で暴利を貪っている)、空港バスなどの裏の仕組みを語り、上手く利用するためにはどうするべきかをおしえてくれる。
この調子で、ホテル(ベトナム戦争時の欧米人向けホテルの現地人化)、食事(道端屋台での夕食)、飲み屋(ライブ音楽を懐かしむ)、観光(大洪水と運河巡り、お寺院で昼寝)とテーマを変えながら、バンコクの週末が進んでいく。写真家が同行したようでスナップ写真(白黒で小さいのが難点だが)も多く、それらを楽しむことも出来る。
最後にバンコク在住者(11人)による短文のバンコク旅行案内が1章設けられているがこれは蛇足(無いほうがいい)である。航空会社のPR誌にあるような半宣伝エッセイのようで、深みが全く感じられず、折角の“下川調”とのアンバランスがはなはだしい。著者本人が望んだのだろうか?(多分編集者の浅知恵だろう。あるいは著者の情報集めの協力者にお礼?まさか!)

4)工学部ヒラノ名誉教授の告白
本欄おなじみの“工学部ヒラノ教授”シリーズ第7弾である。今回のキーワードは、タイトルにあるように“名誉教授”と“告白”である。既刊は現役の助教授、教授時代に材料を求めたものであったのに対して、本書では、ヒラノ教授(と影響力大の孟母)の少年時代、東工大を停年(公務員の定年)退官するときに贈られた“名誉教授”の実態、第三の勤務先中央大学理工学部を20113月末で定年退職した後の過ごし方、そして教授の定年を待つように亡くなった夫人(介護度5)との想い出にかなりの紙数が割かれる。
何度か紹介してきたように教授と私は大学学部卒業年次では1年違い(私は1962年、教授は1963年;私は1年浪人で教授は現役だから小学校就学は2年違うことになる)。しかし、今回あらためて同時代人であることをきわめて具体的に知らされることになった。それは少年時代に読んでいた本と映画が見事にオーバーラップしているからである。小学生のとき読んでいたという講談社の「少年・少女世界名作全集」、中学生時代の映画少年が観た「駅馬車」「荒野の決闘」「珍道中シリーズ」「底抜けシリーズ」などがそれらである。しかし、家庭環境は全く違う。母には内緒でこっそり映画の入場券を渡してくれる映画ファンの父(駅弁大学の数学教授)。我が家とはまるで逆だ。
読書や映画好きは同じでも勉強に関しては大違い。中学に入ると、友人の父親(大新聞の論説主幹)に「これからの時代は英語だ!」と言われ、英語の勉強に邁進する。英文学を教える大学教授に個人指導を受け「君はうちの学生より実力がある」と評価され、「将来は英文学者に」の思いを抱くほど。
しかしそこに立ちはだかるのは「法学部は権力者の手先、経済学部は資本家の手先、文学部は非国民、工学部はタダの職人、大学と呼べるのは理学部(数学科)だけ」が口癖の孟母である。高校で遥かに先を行く天才数学少年に出会ったヒラノ少年はその数学者への道も勝負あったと考え、工学部の応用数学科に進む。
夫人のことはシリーズにはほとんど描かれていないが、確か中学か高校の同級生だったはずである。病名を正確に記憶していないが、始めは身体の一部が麻痺し、やがて車椅子が必要になり、ついに寝たきりの生活、さらに視力も失っていく。介護施設で全て任せることも出来るのかもしれないが、ヒラノ教授は自らも介護施設で同居生活するやり方を選ぶ。まだ中央大学に籍があるとき、それまでの生活パターンを変えて(書棚を含め家具はほとんど持ち込めない。夜中の介護が必須)、仕事と介護を両立させる。「あなたの定年まで生きていたい」それが夫人の最後の願い。しかし、日にち・時間の判断も出来る状態ではなくなってゆく。330日友人と飲んでいると介護施設から緊急連絡。「容態が急変したので戻ってきて欲しい」とのこと。幸い抗生物質の投与で翌朝意識も回復、嬉しくなった教授は「今日は331日、定年退職の日だよ」と口走ってしまう。4349年目の結婚記念日、それを告げると夫人は瞼を少し動かして「分かった」の答えを返してくる。しかし、自宅に戻ると呼び出し電話。駆けつけると心臓マッサーの最中、医師は延命の要否を問うが教授の返事は(妻は、生命の最後の一滴まで使って約束を果たしてくれた)「延命措置はなさらないでください」 いま独居生活を営む名誉教授は週2回のお墓参りを欠かさない。負けず嫌いな国際A級学者はまた心の優しい人でもあるのだ。
 “工学部の語り部”と称して執筆活動に励み、年3冊はエンジニア小説(セミ・フィクション)を世に送り出したいと意欲満々の名誉教授に、同世代・高度成長時代を生きたエンジニアとして、エールを送ると伴に次作に期待するところ大である。

蛇足;“告白”は著者の考えとは異なるようである。しかし本のタイトルと帯は、著者ではなく編集者が決めるのだそうだ。

5)ビッグデータの正体
“意思決定と数理”を一応ライフワークと考えているので、昨今“ビッグデータ”を取り上げる書物から目が離せない。今年に入ってから「ビッグデータの覇者」「統計学が最強の学問である」を読み、本欄で紹介したのもそれゆえである。流行り物は玉石混合だが、幸いこの2冊は人にも薦められる本だった。そして今回の「ビッグデータの正体」も前2者を凌ぐ面白いものであった。
「覇者」はグーグル、アマゾン、フェースブックなどこれを使って商売をする企業に焦点を当てた“経営物”、「統計学」は文字通りビッグデータ利用の一分野統計学の解説を行うもので“技術物”と言える。それに対して本書はビッグデータの社会的インパクトあるいはそれによる思考プロセスの変化を取り上げた“社会・思想物”と言っていいだろう。
原題は“Big Data”ずばりそのものである。しかし、それに“正体”を加えたことで印象は随分異なってくるし、読んでみて「なるほど。うまいタイトルだ!」と編集者のセンスに感心した(本のタイトルと帯は、先に書いたように著者ではなく編集者が決める。原題には小さな文字で内容を示すやや長い副題があるが“正体”とはほど遠い)。
その“正体”は影の部分あるいは留意点を示すばかりでなく、ビッグデータと密接に関わってきたそれ以前の言葉、データマイニング(大量のデータの中から役立つ情報を発見・抽出する)やビジネスインテリジェンス(大量のデータをビジネスに役立つ情報に変える)と同じ次元で論ずるものではないことを暗示している(これらはビッグデータの枝葉に過ぎない)。
では“正体”とは何か?先ず“ビッグ”の量と質の違い;量的には一企業や行政機関などが抱えるデータとは桁違いの量、質的には本来の目的と関係の無い情報や精度が劣るものを包含する。その例として書き出しは、インフルエンザの発症と流行を保健衛生機関よりもグーグルの検索情報がはるかに早く発見・予告した話から始まる。類似の例はアマゾンが専門家に委ねていた書評を、一般読者の投稿に切替たことの背景・効用としても示される。この“正体”は“量は質を凌駕する”と言うことである。
もう一つの“正体”、そして個人的に最も衝撃を受けたことは、物事の考え方や意思決定の仕方が、因果関係重視(仮設主導型)から相関関係重視(データ主導型)に変わっていくと言う主張である。今までの学問は仮説を立てては試行錯誤の繰り返しで進歩してきたと言えるが、それはスモールデータしか集められなかったからで、これからは違うと言うのである。世の中が求めているのは「理由」ではなく「答え」であり、ビッグデータを利用した相関関係分析により「答え」が出るスピードが速くなる可能性が高まってきているとの見方をとる。これは一見乱暴な主張に見えるが、プリンストン大学カーネマン教授(心理学・行動経済学;ノーベル経済学賞受賞者)の「二つの思考法」を援用して、仮説主導型を論理的思考法、データ主導型を直感的思考法と置き換え、その補足を行っている。この主張に全面的に賛同するわけではないが(特に、仮説不要やデータ主導=直感思考)、ビッグデータの本質を考える上で、斬新は視点を与えてくれた。
著者、ショーンベルガーはハバード大学行政大学院で教鞭をとった後オックスフォード大学に転じインターネット・ガヴァナンス(規制)を講じる教授、ビッグデータの世界的権威の一人。クキエは英エコノミスト誌のデータ・エディタ。

蛇足;ビッグデータに関して読んだ3冊に共通して取り上げられた本かある。映画にもなった貧乏球団(オークランド・アスレティックス)経営がテーマの「マネー・ボール」がそれである。ビッグデータの入門はそこから始めるのがいいのかもしれない。

6)自動車と私-カール・ベンツ自伝-
自動車の生みの親(彼のクルマは1886年頃に動いた。自称自動車発明者はドイツを含めあちこちに居るが…)が乞われてやっと書いた自伝である。192480歳誕生祝の場面で終わるが、内容は唯の回顧談ではなく臨場感がある。
初版がドイツで発刊されたのは1925年、初の邦訳は何と2005年、80年後である。戦前はドイツ語からの翻訳本(特に工学分野では)が沢山あったが戦後は英語ばかり、それでこんなに時間がかかってしまったのだろうか? もっと早くわが国で紹介されてよい本である。
先ず生い立ちから自動車開発を思い立つまでの話;家は代々の鍛冶屋で村の有力者(村長)。父は鍛冶から当時普及し始めた蒸気機関車の機関士に転じる。しかし、30代半ば雨中の脱線事故救援活動がもとで肺炎になり他界。その後母の希望(法律家)で大学進学を目指してギムナジウムに入るが、エンジニア希望断ちがたく高等工業(のちの工科大学)に転校。このころから鉄道とは異なる、道路を走る乗り物の構想が芽生えてくる。卒業後徒弟制度の下働きを数年したあと、機械設計士になり、さらに定置式ガス・エンジン(ポンプなどの動力源)製作事業を起す。この時代に入ると“自動車”がかなり具体的イメージになるが、株主の賛同が得られない。着手するのは結婚し事業も順調に発展して、ある程度まとまった財産が出来てからである。ここまでが言わば導入部。
次が自動車開発のもろもろのアイディア・技術的内容の紹介。紙数を割き丁寧に解説する;
定置式のガス・エンジンと違って、車載のガソリン・エンジンとなるとガソリンを気化するものが必要だ。現代でも少し前まで存在したキャブレターという気化装置を考案することになる。また内燃機関は熱が中に閉じ込められ、冷やさないと金属は膨張するから焼き付いてしまう。シリンダーを水で冷やすジャケットや熱を持った水の温度を下げるラジエータが不可欠だ。また、ガソリン・エンジンは電気火花で点火するが、タイミングをとるのが難しい。これも原理的に解決している。
4輪自動車は2輪バイクと違い方向転換が難しい。外側は内側より早く進まないと上手く曲がれない。差動歯車の利用を思いつく。エンジンを駆動軸に直結してはエンストしてしまう。また停止中でもエンジンを止めるわけにはいかない。クラッチが必要なことに気がつく。操舵方法も馬車の延長線ではない(馬車は一番前に動力源+操舵機能(馬)があるので車輪は固定でいいが、自動車は後輪駆動になるので前輪に複雑な操舵装置が必要になる。彼の発案した最初の自動車は前一輪の三輪車)。
これら数々の難題解決の説明には、特許申請時(つまりほとんどが19世紀)の図面がふんだんに使われ、その努力が具体的によく理解できるようになっている。
3のテーマは、これを社会に受け入れてもらうための苦労である;法規として存在するのは鉄道に関するものくらい。これを適用されてはたまらない。所管や警察の判断はまちまちで、国によっても大きく違う(フランスは比較的寛容だが、英国(赤旗を持って前を走り、人々に危険を知らせる赤旗法)そして母国ドイツ(極端なスピード制限)は融通がきかない)。啓蒙活動、懐柔策に苦慮・奔走する姿はそれまで存在しない社会システム開拓者を活写する。
最後は誰が自動車の発明者がと言うこと;蒸気自動車は彼のクルマより早く出現しているし、ガソリン機関でも同国人のダイムラーやオーストリア人のマルクスなどがそれぞれ名乗りを上げている。しかし、ダイムラーの最初のものは2輪車だったし、のちの4輪も馬車の車体にガソリン・エンジンを載せたものにすぎない。マルクスのものは動かなかったと本人が認めている。また、ヘンリー・フォードは量産システムを確立したのは確かだが、自分が発明者のような言動をしている。このあたりの事情をベンツは非難ではなくやんわり揶揄しながら、自分が発明者であることを主張している。この自伝はこのことのために書かれたのかもしれない。
それにしても、90年前の技術的説明の数々から、如何に現代の車が彼の発明に負っているかを知らされた。

7)大西洋防壁
“ナヴァロンの要塞”と言う戦争名画がある(原作アリスティア・マクリーン。主演グレゴリー・ペック)。TVでしばしば放映されているから、ご存知の方も多いだろう。エーゲ海の狭い水域しか航行できない海路を、孤立した部隊救援の船団が進まなければならない。しかしナヴァロン島の断崖絶壁に穿たれたナチスドイツの巨砲基地がその通過を許さない。空からの空爆は不可能、海から攻めてもこの巨砲に返り討ちになるだけ。少人数の特殊コマンドがそこに潜入し、爆破する。こんなストーリーである。とにかくこの巨砲とその稼動機械システムが凄い。「本当にこんな基地が在ったのだろうか?」 映画を観終わってもいつまでもこの疑問が残った。この本を読んで、「ネタがここにあったのでないか」の感を強くした。
大西洋防壁(アトランティック・ヴァル)とは、ドイツが西方電撃戦に勝利したあと、ノルウェーからデンマーク、オランダ、ベルギーそして英仏海峡を経てスペイン国境まで5000kmを超える海岸部に、連合軍の大陸反攻に備えて築いた、現代版万里の長城とも言える、沿岸砲台の鎖である。万里の長城のように隙間無く連続したものは無論無理で、敵の侵攻確度が高いと思われるところ(英仏海峡部)、重要海軍基地(主にUボート)や主要な港湾は密度高く、そうでないところはかなりの距離を置いて砲台や歩兵・砲兵陣地が設置された。
当初の動機は残る敵、英国への上陸作戦支援にあり、英仏海峡から敵艦船を排除することにあったが、バトル・オブ・ブリテンの失敗で制空権奪取が適わず上陸作戦は断念。その後は専ら防衛の性格を持つようになっていく。
使われた兵器(主に大砲)は戦艦の主砲や第一次大戦時の長距離砲を近代化したもの、列車砲、戦利品(特にフランス)など多種多様、射程は海峡を横断して英国本土に届くものもあった。また水際で叩くためには戦車の砲塔を陣地に固定設置したものもある。3040センチ砲の陣地は天井厚が鉄筋入りで4メートルもあり、大型爆弾や艦砲の砲爆撃にも耐えられる強固なものである。使われた資材は、概算でコンクリート2700万立方メートル(6210万トン;因みにフランスのマジノ線は1200万トン)、鉄鋼は140万トンと算出されている。
本書では、これらの砲台・陣地のプロット、建設組織(特殊建設部隊;トート機関;これについてはかなり詳しく書かれている)、運用組織(大型長距離砲は海軍、近接戦闘陣地は陸軍、対空防衛は空軍)、戦闘組織(約60万人;東部戦線へ精鋭を大量に割かれたため、ノルマンジー上陸作戦時には二線級の老兵が主になっていた)、各種砲台・陣地の仕様(サイズや部屋の構造)、装備された兵器(特に大型砲は詳しく解説。一連の砲台の弱味は、接近戦に有効な要塞砲(強力な短射程・大量発射の砲)の開発・配備が本格的に行われていなかったことを上げている)。反攻軍との戦闘状況(破壊状況)などがかなり詳細に書かれ、写真や図も多くその実態がよく理解できる。おそらくわが国で初めてその全容が紹介されたと言っていい(素になっているのは、トート機関の副総監(総監のトート博士は戦時中墜落死しているので実質的トップ)が軍事訴追免除を交換に米陸軍戦史部のために書いた報告書)。
最後に当時のドイツ軍、連合軍の将軍や軍事評論家にこの防壁の意義を論評させているが、軍学者のリデル・ハートを含む多くが、「ほとんど実効が無く、資源・兵器を東部に振り向けていれば、戦況はかなり変わったものになった」としている。
簡単には撤去できない巨大なコンクリートの塊は今でも欧州西部海岸線の随所に残されている(さすがに砲はないが)。はるか数千年ののち、近代の万里の長城はどのように受け取られるのだろうか?

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