2014年5月31日土曜日

今月の本棚-69(2014年4月分)


<今月読んだ本>
1) 旅はゲストルーム(Ⅰ、Ⅱ)(浦一也);集英社(知恵の森文庫)
2) 大戦略の哲人たち(石津朋之);日本経済新聞出版社
3) ポーカー・フェース(沢木耕太郎);新潮社(文庫)
4) 国際メディア情報戦((高木徹);講談社(現代新書)
5) 原発ホワイトアウト(若杉冽);講談社

<愚評昧説>
1)旅はゲストルーム(Ⅰ、Ⅱ)
ここのところ好きな読書ジャンルの一つ、旅(特に海外)や乗り物に関する面白い本になかなか行き当たらないことは何度か本欄でぼやいてきた。そんな時Amazonから本書の紹介メールが届いた。開いてみた商品紹介画面を見たとき「これはどこかで見たような表紙デザインだな」と感じた。泊まったホテルの部屋の見取り図(平面図)である。蔵書を探ってみると、それは作家妹尾河童の「河童が覗いたインド」であった。貧乏旅行で滞在したインドの宿泊部屋をいくつも描いて旅を語る興味深い内容に惹かれ、それが記憶に残っていたのだ。「あれと同じなら楽しく読めるに違いない!」と2巻同時に取り寄せた。
結論から言うと、一見同じような形式で書かれたものだが、内容は全く異なる“凄い本”であった。河童の本は中身で読ませる。本書は図面で読ませる。これが決定的な違いである。だからと言って本書が読み物として劣るわけではない。ホテルを取り巻く環境(ビジネス、景観)と歴史を交えながら、建築なかでもインテリアに徹底的に注視し、宿泊した部屋を細かいところまで観察し、平面図(水彩で色付け)を中心(一部スケッチもある)にそれを簡潔に解説したエッセイは、ただの旅行記とは全く異なるユニークなものだ。
取り上げられるは、ビバリーヒルズのセレブ御用達豪華ホテル、上海の超高層近代ホテル、ヨーロッパの格式高いクラシックホテルや修道院・古城改造ホテルからスペイン・バスク地方の雑貨屋二階の旅籠やブータンの簡素なホテルまで2巻で約120室。中には私が宿泊したり(グランドハイアット・ソウル、シャングリラ・シンガポール)食事を楽しんだ所(マークホプキンス・サンフランシスコ)もある。
何が“凄い”か?先ずチェックインすると部屋および家具備品まで徹底的に(平面だけでなく高さを含む)、古くは巻尺で最近は携帯レーザー測定器を使って採寸し、それを備え付けのレターペーパーに1/50の縮尺で記録し彩色する(1枚で描ききれない所が数例;リージェント・シュロスホテル・ベルリンなど)。家具備品や消耗品(ミニバーの中身や化粧品類など)は、デザイナー、メーカー、ブランドまで確認。設備機能(例えば浴槽の排水時間)まで測定する。所要時間は1時間半から2時間。副題の“測って描いたホテルの部屋たち”が内容を端的に表している。
いくら旅や建築が趣味でもここまで素人がやる訳はない。著者は東京芸大で修士までインテリアデザインを学び、我が国を代表する建築設計事務所日建設計に入社、現在はその子会社日建スペースデザイン社の代表取締役と母校の講師を務める人である。
このような習慣は入社時に先輩から教えられ、いまや仕事と趣味が渾然一体になっている。海外出張ばかりでなく夫人との家族旅行で訪れたときにもこう言う所作が許されるのは、夫婦同業であることによるが、時にはその同業者にも呆れられることがあるようだ。祖父は大きなホテルの支配人、油絵を7歳から習う生い立ちも併せてその“凄さ(神は細部に宿る)”が伝わってくる。景観や備品のスケッチも素晴らしく、早く知っていれば、版の大きい単行本を求めるべきだった(絶版)。
建築インテリアが中心とはいえ、料理や酒の話(かなりの酒好きと推察)、あるいはサービスの話題も豊富で海外旅行好きにお薦めの2巻である。唯一の難点は宿泊時期が明確でないものが多いことだ(図面に記入されているのが少ない。本文から類推できるものも限られる。名称・所属チェーンが変わっているものも少なくない)。

2)大戦略の哲人たち
“戦略”と言う言葉を知ったのはいつごろだろう?多分月遅れの航空雑誌を見るようになった頃だろう(中学末期~高校)。“戦略爆撃”や“戦略空軍”から“戦略”の意味を類推していたように思う。当時の理解は、まだその残滓が身近(小学校から高校まで台東区なので戦災体験者の学友が居た)に残る“大規模都市爆撃”と密接に関わる軍事用語としてである。戦略と言う言葉を話し、書くことを始めたのはいつ頃からだろう?40歳を過ぎ経営計画立案などに携わるようになってからの様な気がする。曰く「我が社の情報システム戦略は・・・」などと言うようにである。それに対して「それは戦略ではなく戦術あるいは計画ではないか?」などと先輩に揶揄され、この言葉を使うことに随分気を遣うようになった。書物などでも軍事用語としては比較的理解しやすいが、経営やスポーツに使われるとき依然として「著者は分かっているのだろうか?」と感じることが今でも絶えない。
本書の“はじめに”でも著者は「戦略とは極めて多義的で曖昧な概念である」と“戦略”の用語定義の難しさから説き起こしていく。そこでは敵の政治経済の心臓部を直撃する戦略爆撃や物資の供給路を海軍力で絶つ海上封鎖戦略などを純然たる(軍事)戦略と位置付け、その上に在る概念「国家目的遂行に際しての政策」を大戦略(グランド・ストラテジー)とする、英国の戦略思想家リデル・ハートの考え方(さらにそれに大きな影響を与えた19世紀プロシャの軍事思想家クラウゼヴィッツの戦争論)を援用して、本書で取り上げる戦略論の枠組み・骨格を定義する。つまりこの本の内容は狭義の軍事戦略(大規模作戦)を解説するのではなく、国家の在り方に深く関わる考え方とその提唱者たちを紹介するものである。
時あたかも集団的自衛権論議が喧しい今日この頃、安全保障と国際関係を根源的なところから学んでみよう、これが本書を手に取った動機である。
ここで取り上げられる戦略思想家は6人;
・ハルフォード・マッキンダー(英);地政学の祖;地理学を基盤にした、欧州中心の戦略論(大英帝国対ロシア、ドイツ)。1947年に死去したので“現代”とは言い難いが、“地政学”(彼自身は“学”と意識していない)に基づく国家戦略は現代でも盛んに論じられている。
・マイケル・ハワード(英);国際戦略研究所創設者、クラウゼヴィッツ研究家;戦争研究を一つの学問領域として確立した最も重要な学者。
・バーバード・ブロディ(米);ランド研究所研究員、原爆を“絶対兵器(単なる大きな兵器ではなく)”ととらえた核抑止力戦略の先駆者(核時代のクラウゼヴィッツ)、1978年死去。
・ヘンリー・キッシンジャー(米);制限戦争理論(通常兵器と核の段階的運用)とデタント、この分野で理論と実務(国家安全保障担当首席補佐官、国務長官)を担った唯一の人物。
・エドワード・ルトワック(米);戦略国際問題研究所研究員、イラク戦争に反対、著書「戦争論」は欧米大学学習者の現代戦争学・戦略学の基本文献;ポストヒロイックウォー(死傷者の無い戦争)・パラドキシカル・ロジック(平和のためには戦争を!)など挑発的な論理を展開。
・マーチン・ファン・クレフェルト(イスラエル);ヘブライ大学歴史学部教授、非三位(政治・軍事・国民)一体(あるいは非対称;テロ・ゲリラ、国の枠を超えた宗教戦争など)戦争論→クラウゼヴィッツ批判;戦争は“政治”といった狭義で合理的な枠組みでとらえるべきでなく、広義の“文化”という文脈の上でとらえることで初めて理解できると主張。
いずれも当該分野で国際情勢と技術の変化に対応した新たな国家戦略の在り方を提言してきた戦略思想家である。著者はこれにリデル・ハートを含めて7人を“哲人”としているが、リデル・ハートに関しては別に著わしているので本書から省いている。これらの人々がベスト6なのかどうか判断する力は私にはないが、選ばれたメンバーに軍人がいないこと、マッキンダーを除けばすべてユダヤ系であることが特に印象に残った。
本書の書き方は、先ずそれぞれの理論を著作(一部インタビューもある)に基づいて解説し、それらと先駆者(特にクラウゼヴィッツ、リデル・ハート)や影響者の論との比較を行い、時間的変遷を含めて考察し、現代への適応性を評価する形をとっている。記述方式を統一しているので、相互の違いが分かりやすく、安全保障政策、戦争・戦略理解の入門書的な読み方に適した書と言える。
著者は防衛省防衛研究所戦史研究センター国際紛争史研究室長。“大戦略”研究および適用が大国中心進められている内実を本書で示しつつ、我が国独自の大戦略の必要性と可能性を本書末尾で主張している。
本書を読んで、我が国の安全保障論議があまりにも表層的・場当たり的であると痛感させられた。大学の国際関係論の授業などで、堂々とこのようなことが教えられ、学会活動などが広く活発に行われることが、厚みのあり現実的な自国を取り巻く戦略論醸成に不可欠との感を深くした。

3)ポーカー・フェース
著者の名前は1970年代からノンフィクション・ライターとして知ってはいたが、当時著者が得意としていたスポーツ物に興味のない私にとって、読みたくなる本は無かった。作品に初めて触れたのは1986年に刊行された「深夜特急」(全3巻)である。これは香港からロンドンまで乗合バスを利用して旅する話しで、時代は1970年代前半著者が267歳の頃である。のちに若いバックパッカーのバイブルとなるほどこの分野の名作となる代表作だ。若い人の旅の姿や感性に溢れ内容は「もうこんな旅は出来ないなー」と感じつつ、次作の発刊が待ち遠しかった(特に第12巻と第3巻の間は6年空く)。この待ちの間に読んだのがエッセイ集「バーボン・ストリート」である。
旅に並んでエッセイも好きなジャンルの一つだ。短い文章の中に著者の思いを込めるために、ややもすると味が強くて読み手の嗜好に評価が分かれるが、そこがエッセイの面白いところでもある。それまで好んで読んできた作家(内田百閒、山口瞳など)・優れたエッセイスト(団伊玖磨)の作品には教訓を得たり、“寸鉄くぎを刺す”ピリッとした批判を含むものが多かったが(ある種の緊張感が漂う)、「バーボン・ストリート」はそれらとは一味違い、何か和らいだ雰囲気の中で“清々しい”気分を味わえるものだった。この頃には著者は既に40歳代半ばに差しかかっていたにも拘わらず、である。その作風に惹かれて「チェーン・スモーキング」「彼らの流儀」「シネマと書店とスタジアム」と読みつないで本書となったわけである。
酒場での有名作家(吉行淳之介)とのやりとり、“なりすまし”と言う言葉からの思わぬ連想、高峰秀子の思い出、バカラとばく必勝法、ブラディメリーのメリーはメアリーではないか?など今回も嫌みのない文章で面白い話題が13編。久しぶりに読んでみて(既刊のものも同じだったのかもしれないが)発見した魅力は、当然起承転結は踏んでいるものの、“転”が何度も現れることである。一例は、都心の公園で見た青大将が低所恐怖症(幼児から高層マンションに住んでいた人)になり高山病の話に転じて、さらにやくざの世界入り込む“恐怖の報酬”、読む前には同名のフランス映画でも取り上げるのかと予想していただけに、想定外の展開にすっかり惹き込まれてしまった。
エッセイとしては少し長い(月刊小説新潮に連載)ので夕食後アルコールでも嗜みながら、ゆったりした時間を過ごすのに好適の書である。

4)国際メディア情報戦
国家運営もここまで来たか!!第1章でいきなりこんな思いを抱かされる。話は1990年代のボスニア紛争である。ユーゴースラヴィア連邦が崩壊していく中で、セルビア人(主にキリスト教徒;少数派)とボスニア人(主にイスラム教徒;多数派)との主導権争いが分離独立宣言したボスニアヘルツェゴビナで始まる。政府主流は多数派のボスニア人だが、セルビアの支援を受けた少数派が武力で巻き返しを図る。「国際世論を味方につけるしか生き残り策はない」こう感じたボスニア政府は外相を米国に送りその支持を取り付けよとする。しかし米国務省の動きは鈍い。そこへ登場するのがルーダー・フィンと言うPR会社(ここでは広告代理店ではなく、“広告をカネで買う以外のこと”はなんでもやる会社;時間や紙面を買うのではなく、報道番組の中に顧客の意思を反映させる)のエキスパート、ジム・ハーフだ。記者会見の設定、話し方、用語(民族浄化をethnic cleansingと表現するがcleansing(洗浄)は英語国民に強烈な印象を与え、一語でボスニアで何が起きているか理解できる)、利用する写真や動画、総てを準備し外相に対メディア対策を指南する。結果世論はボスニア支持に傾き、それが議会を動かし、ついには大統領府もボスニア支持を打ち出して、セルビア首相ミロシェビッチを極悪非道の悪人にしてしまう。独裁国家では程度の差こそあれこのようなメディア・コンサルタントを利用しているとのこと。
著者はこれをNHKスペシャル「民族浄化~ユーゴ・情報戦の内幕~」としてまとめ上げたディレクターである。この他にも同じスペシャル番組「バーミヤン大仏はなぜ破壊されたのか」「情報聖戦~アルカイダ謎のメディア戦略~」なども担当、本書にもこれらに関する取材(当然ジム・ハーフへのインタヴューもある)結果がふんだんに利用されている。
戦場がTVで実況中継され、それによって国際世論が動く時代、自国・自分に有利な状況を、一見中立と見えるメディアを巧みに利用して作り上げていく。一方でメディアの側にも視聴者に受けるような画面や言葉を求める傾向が強まっていることに注視、その倫理価値観の在り方を問題視もしている(残酷映像合戦)。
本書では、ケースとしてアメリカ大統領選挙、ビン・ラディンとアルカイダ教育宣伝活動、米国の対テロ対策、2020年東京オリンピック誘致などを取り上げ、その具体的な手法(主としてTV)から結果まで、知られざる世界を見せてくれる。
読んでいて気になることがあった。それは、先の“倫理問題”にも関わることだが、このようなメディア利用が上手くいく前提には“開かれた社会”の存在が必須とし、インタビューなどで制約を設けるべきでないと主張していることである。特に、事前に質問に枠をはめるのはけしからんとしている(何でもあり。意表を突かれたときの変化こそカメラチャンス)。これを見て“メディアの驕り(独りよがり)”を感じないわけには行かない。視聴者は本当にそこまで求めているだろうか?(昼のワイドショーの視聴者が標準か?)
興味深い本ではあるが、衆愚化の著しい内外の政治環境を見るとき、決して後味の良い本ではなかった。

5)原発ホワイトアウト
本書は、原発再稼働に向けた政官財の動きをテーマにした官僚小説である。著者は覆面作家であるが、帯の紹介には東大法学部卒の現役キャリア官僚であると記されている。折しも読了直後に大飯原発再稼働を認めない判決が福井地裁で下された。
こういう本(国内政治の内幕もの)はまず自分では購入しないし興味もない。読むことになった経緯は、2ヶ月に一回開かれる東燃同期の飲み会で毎度原発が話題になることから、仲間の一人が読み終えた本を回覧するよう提供してくれたことによる。
読後感は、小説としての完成度は今一つだが、政・官・財(企業)・メディアの見えざる糸の絡みをリアルに描くところはさすがにキャリア官僚でなければ書けない!の内容である。覆面で書いたことも、その覆面を剥ぎとろうとする動きがあることも、四者の関係をここまで暴かれると困る組織や人が居ることの証左だろう。
登場人物は、経済産業政策を牛耳る保守政党の実力者、資源エネルギー庁次長、同期の原子力規制庁審議官(技官)、電力会社総務部長から業界団体に出向中の常務理事の4人が主役級。これに脇役としてTVアナウンサー・記者出身の魅力的な女性フリー・ジャーナリスト、彼女にハニートラップを仕掛けられ極秘情報を流す原子力規制庁の若手官僚、原発再稼働に慎重な県知事などが絡む。
大震災による原発事故を契機に高まる電力政策の大胆な見直しを形骸化し、早期原発再稼働を図ろうとする経産省トップ、容易に再稼働を容認しない地方自治体、電力業界から流れる巨額の政治資金、反対者を懐柔するための便宜供与あるいは潰すための国策捜査など、モデルとなる複数の有名事件を下敷きにしながら話を組み立てているが、直ぐにそのモデルが分かってしまい、現実の事件が一連のつながりを持つものでないだけに、如何にも作り話の印象がぬぐえない。むしろ読みどころは、官僚・政治家・産業人のやり取りの細部表現にある。例えば、どういう手順で新しい政策が起案され、その見かけと実効を如何に使い分けられるようにするか、そのために官僚はどんな政治家にどのようにアプローチするか、これは現実に難しい政策立案に携わった者でなければ書けないし、こういうところは極めて臨場感に富んでいる。
表題はいかにも反原発の本のようにみえるが、本来原発稼働問題は舞台回しの材料に過ぎない。従って真剣に原発問題を考えようとする人には期待外れになるだろう。
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