2014年5月5日月曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅰ部)

1;新会社創設-3

NKHさんによって、IBM作成のACSAdvanced Control System)国内需要予測内容検討を指示されたのは1983年。これが情報システム室分社化を目論んだものであったかどうかは結局明らかになることは無かったし、次期メインフレーム(グループ全体の中核汎用コンピュータシステム)の選定に影響することもなかった。しかし、この前後の東燃経営環境を見ておくことは、情報サービス会社設立の背景を理解するうえで役立つと考えるので、少し解説しておきたい。
多くの人がイスラエルとアラブの対立がもたらす一過性のものと思っていた、第一次石油危機の到来は1973年秋。この動きを我が国石油需要の転換期と見た東燃経営陣は、既に機器の発注あるいは一部納入すら行われていた、和歌山第2製油所とも言える有田工場建設の取りやめを決断、他の工場建設・拡張計画もすべて凍結される。これらの決定に大きく影響したのは危機発生の翌年(1974年春)常務に昇格したNKHさんの言動にあったと言われている(後日私自身本人から聞かされた)。その後新事業に向けた動きが胎動し始め、第2次石油危機(1979年春)の前年(1978年春)新事業開発室が発足している。この時代、グル―プ戦略を端的に表すキャッチフレーズとして“強守と模索”と言う言葉がよく使われるようになってくる。“強守”は石油関連事業の経営効率を一層高めること、“模索”は新規事業の探索を意味した。
この標語を情報技術関係に敷衍するとTCSTonen Control System)の開発・適用は当に“強守”に相当し、その販売は“模索”の一つと言えよう。ただTCS販売を次なる新事業の目と見ていたのはその関係者に留まり、新事業開発部が狙う(そしてNKHさんが期待する)情報科学関連探索は高機能マイクロチップ(一時期Zailogのチップを調査していた)や人工知能などこの段階では将来動向がまだはっきり見えていないものに注がれていた。
また“強守”に関しては「各部門はプロフィットセンターを目指せ」と意識改革を求められ、例えば財務はその資産運用、購買は競争購買などに工夫を凝らす動きが出てくる。究極は部門毎の収支を定量的に表し、その存在意義と効率・生産性を評価し、更なる改善につなげることにあった。この部門としての収支をはじくという命題は情報システム室にとってさして難しいものではなかった。それは本社にメインフレームが導入されて以来“付け替え方式”を適用してきていたからである。
この“付け替え方式”とは、コンピュータのリース費用、運用にあたるスタッフの人件費、オフィスのスペース費用、電力費などを基にしたプログラム走行時間当たりの費用をユーザー部門に負担してもらう(付け替える)方式である。ただ目的がコンピュータ利用の効率化にあったので“利益を上げる”と言う発想はなかった。しかし、「各部門プロフィットセンターを目指せ!」はこの従来方式に一石を投じることになる。利用部門はコスト削減のためにコンピュータ利用を削減しようとする。情報技術が経営に深く入り込んでくる時代にも拘わらず、もっと積極的に利用して利益をそれ以上にあげようと言う発想が出てこないのだ。あるいは比較的簡単なプログラムを、部門経費で賄えるPCに置き換えようとする動きなどが出てくる。情報システム室も付け替え費用低減に何が手を打ち、かつ利益を出せる体質に転じなければ縮小(有能な人材の新規事業への転用)、地方移転(工場や研究所の余剰設備活用)に追いやられる恐れもある。実際本業と異質な業務が肥大化しそれを分社化する動きは、IT利用依存度が高まってきていた金融業を中心に石油危機以前から始まっていた。
この1983年、我々はそのような内外の動きに手をこまねいていたわけではなく、11月ついにメインフレームをIBMから富士通に置き換えた(この経緯は事例“メインフレームを替える”に詳述)。リース費用は増加させず、処理能力は飛躍的に上がり、本社業務をオンライン化するに欠かせない優れた日本語処理能力は社内ユーザーから高い評価を得ることが出来た。それ以上に大きな収穫は、この切り替えおよび本社業務アプリケーション開発の中核を担った事務系SEの自信である。TCS以外にも外に打って出る下地が出来たのだ。

(次回;“新会社創設”つづく)


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