2015年5月31日日曜日

今月の本棚-81(2015年5月分)


<今月読んだ本>
1) ブンヤ暮らし三十六年-回想の朝日新聞-(永栄潔):草思社
2) 諜報の天才 杉原千畝(白石仁章):新潮社(選書)
3) The Blitzkrieg MythJohn Mosier):Harper Collins
4) 進撃の華人(ファン・パブロ・カルデナル、エリベルト・アラウホ):講談社
5) よく晴れた日にイランへ(蔵前仁一):旅行人
6) 世界でもっとも正確な長さと重さの物語(ロバート・P・クリース);日経BP

<愚評昧説>
1)ブンヤ暮らし三十六年-回想の朝日新聞-
職業と言うものを意識しだしたのは7歳の時である。戦後の満州で生き残るために、子供ながらに、これほど重要なものは無いと感じたからである。満州国唯一の自動車会社に勤務していた父は、事務屋ではあったがにわか工員に転じて、何とかソ連・国民党・八路軍と統治体制が変わっても仕事にありつけ、一家無事日本に帰国できた。爾来適性の有無に拘わらずエンジニア志願一筋、45年の技術屋暮らしだった。
しかし、現役時代父親が著名なエコノミストで新聞社社長も務めていた若い同僚と話していた時「あなたはジャーナリストに向いていたのではないか」と言われびっくりしたことがある。その時まで一顧だにしたことのない世界だったからである。その想像もしなかった世界を、煽情的でもなく教条的(朝日の最も嫌味なところ)でもなく体系的でもなく論理的でもない体験談の列記で、身近に臨場感をもって仮想体験させてくれたのが本書である。読み進む内に新聞づくりの現場と新聞記者なるものが体内に浸み込んでくるような内容と筆致なのだ。手にすることになったのは、本書を貸してくれた友人が、著者と同じ大学寮の先輩後輩で「是非」と薦められたからである。
構成は72編の独立した回顧談から成る。一応新人時代から退職まで時間軸に従って並べられているが、文中で時間が前後することもあり時代史と言うわけではない。従って読みたいところから読み、興味のないことは飛ばしても構わない。しかし、回顧談(退職後にまとめた)とは言え記者としての成長を仮想体験していくには順番に読むことが無難であろう。
富山支局からスタートし、大阪・東京経済部時代、整理部と言う裏方仕事、週刊朝日・論座・AERAなどの雑誌編集などに携わり、最後は「君にしかできない」と赴任した先はBS放送ジョイントヴェンチャーの店仕舞い。その時々に我々も知る話題にまつわる記者や編集者としての苦労話を綴っていく。社会的ニュースでは石油タンパク、カドミウム汚染米から天皇の戦争責任、今も渦中の従軍慰安婦、歴史教科書など。人物では中内功(ダイエー社長)、田部文一郎(三菱商事会長)、山本卓眞(富士通社長)などの財界人や後藤田正晴、石原慎太郎など政治家への取材や交流が取り上げられる。ニュース案件や相手に関することばかりではなく、自らの言動(怒らせたり、恐れさせたりする)まで具体的に記述されるので、まるでその場にいるような雰囲気に浸れる。加えて、原稿の扱われ方、組織・人事管理、労使関係、権力構造などの経営環境・企業風土に関する題材も自ら体験したことに絞り込んでおり、“一般化しない”ところにむしろ客観性を感じさせてくれる。最も評価したのは、かつて自分が書いた記事のその後を丹念に検証していることである(現役時代も裏取りが確りしている)。決して有名人の回顧録のように言い訳めいたところが無い。ここに著者のジャーナリストとしての良心を感じた。つまり、はやりの軽薄な朝日新聞内部暴露本ではないのだ。
本書からうかがえる著者像は、信念があり生真面目で、(相手や場に構わず)本音をズバリ口にする、いささか頑固な人物(部下としてはチョッと使いづらいか?)、最近の朝日のイメージからするとかなり右寄り(これは自らも認めているし、記事が社外の左派から批判されるシーンもある)。あとがきは啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻とたしなむ」で始まる。企業人、組織人としては忸怩たる思いもあるのだろう。しかし、読後感として暗さはなく、真剣な新聞記者魂のようなものが痛烈に伝わり「これは自分にはとても務まる仕事ではない(やはり技術屋で正解だった)」と認識させられた。あの偏向新聞社にも少しはまともなジャーナリストは居たのだ。“朝日新聞批判派(私もそうだが)”にもお薦めの一冊である。

2)諜報の天才 杉原千畝
この人が第2次世界大戦勃発後バルト三国のひとつリトアニアでユダヤ人避難民に大量の日本通過ヴィザを発給し、彼らを救ったことで戦後のユダヤ人社会、イスラエルから高く評価されていることは、TVのドキュメンタリー番組などで知っていた。「(官僚でありながら)独断でよくあれほどのことをやったなー」と言う敬意はそれらを通じて持っていたが、それ以上ことは知らなかった。今回本書を手にすることになったのは、タイトルにある“諜報の天才”である。大胆なヒューマニズムを発揮した外交官と言うよりは“有能なスパイ”をイメージさせるそれに惹かれて衝動買いをしたわけである(著者は諜報=スパイの短絡を本書の中で戒めているが)。
最近は外交専門官(キャリア外交官ではない)であった佐藤優の活発な執筆活動を通じ、語学や国に特化した専門官の世界が知られてきているが、杉原もその種の外交官であった。専門はロシア語、これも売れっ子の佐藤と同じである。1900年(明治33年)生まれの杉原は旧制中学卒業後一時早稲田の高等師範部(現教育学部)に籍を置くものの直ぐに外務省留学生試験(英語必須、ドイツ語選択)に合格(1919年)、ロシア語専門官の道を歩み始める。当時は革命直後、ロシアへの留学は叶わず、ハルビンで学ぶことになる。ここは革命を逃れた白系ロシア人の町、単に語学研修に励むばかりでなく、交友関係を広げていく。卒業後はハルビン領事館勤務となりロシア人女性と結婚する(1935年協議離婚)。この時代の業績は、第一にリットン(満州事変)調査団報告書に対するフランス語(独学)で書いた反駁書(国際連盟に提出)であり、省内の一部にこれに注目(欧州でのインテリジェント・オフィサーに使える)する者がいた。次いで北清鉄道のソ連からの買収である(1935年;それまでの鉄道利権は南満州に限られていた)。この買収交渉において、杉原の持つ情報(細密な経済評価が行える経営情報;例えば実働可能な貨車数)が大いに寄与、破格の値段でこれを入手できる(当初ソ連提案の15)。しかし、裏情報に通じた杉原はソ連にマークされ、ソ連への赴任要請は拒否(ペルソナ・ノン・グラータ)される。下級若手外交官では国際慣例上ありえない事態に、大臣・大使を巻き込んだ外交問題になっていくが結局実現は叶わない(この真の理由は現時点でも明らかになっていないが、紙数を費やし著者は推論する)。
次善の任地はソ連と国境を接するフィンランド(1937年、同じ年三国防協定調印、この赴任の際もシベリア鉄道の利用が許されない)。これが結局“リトアニア”につながっていくのだが、実際に時間を割き、注力していたのは領事館開設準備(1939720日指令)とポーランド人(主にユダヤ系)を通じたソ連情報収集ネットワーク作りであった。同じ日の人事に、5人の対ソ情報専門家(杉原を含み全員ロシア専門官)がソ連・バルト3国・ポーランドへ赴任を命じられていることを著者は突きとめる。動機は5月に発生したノモンハン事件と密接に関係しているのだ。本書はここから“リトアニア諜報網”に入り、杉原のインテリジェント・オフィサーとしての資質(語学センス、ポーランド人とのコミュニケーションにおけるフランス語の重要性など)・活動・時代背景(ドイツ・英仏・ポーランド・ソ連・日本の複雑な関係)を掘り下げていく。そこにはソ連軍に抑留されたポーランド兵救援組織やソ連・ドイツに対する武装闘争同盟と密接な関係を構築し、専らソ連情報の収集分析に傾注していく姿が人間関係を中心に詳述される。
無論“命のヴィザ”についても、発給要件に関する本省の指示(十分な旅費、最終訪問国ヴィザの必要性)への対応策、発給数、発給日、移動が始まってからの日本国内の動きなどが詳細に検証される。
“命のヴィザ”に関して著者が提示する最も興味深いテーマは、「ナチスを逃れる」が真実であったのか?と言う点である。バルト3国のソ連併合は19406月から7月にかけて、ドイツ軍の西方(ベネルクス3国、フランス)電撃戦の勝利が見えてからである。それまでドイツと3国の関係は中立で悪くはなかった。もしナチスを恐れるのであれば、ポーランド戦以降直ぐに逃避行が起こっていたはずであるが、その時期東欧系ユダヤ人の移住活動は少なくともパニック状態ではない。あれだけ人数(6千人~2千数百人まで諸説ある。この差異解明も本書の中で行われる)が一時期(ソ連併合時)に殺到したのはソ連の支配を恐れてのことに違いない、これが著者の見方である。後年強制収容所でのホローコーストを知る者にはナチスとユダヤ人迫害を当然のように直結させるが、ソ連を探るのが任務であり、多くの東欧人をそのネットワークに組み込んでいた杉原だけに、時間的な経緯を冷静に見つめれば著者の読みも説得力が出てくる。
本書の読後感は、外交インテリジェンス(諜報)の具体的な現場を知ると言う点において学ぶところが多かった。その結果として、成果の少ない割にキャリア外交官が目立つ我が国外交で、しっかり地に足の着いた専門官の活動をもっと評価すべきだ、彼らの得た情報がもっと活用されてしかるべきだ、との感を深くした。しかし著者は必ずしも、専門官軽視の背景を深追いしない。また、ヴィザ発給事件が因で戦後杉原と外務省の間に不和があったとの話もあるが、それにも触れていない。ここら辺りの詰めの甘さ(と言うよりは問題回避)は、戦前の杉原を取り巻くインテリジェンス・オフィサーに関する調査分析が丹念なだけに違和感がある。おそらくそれは著者(日本史専攻、外交史・インテリジェンス・システム論が専門)が外交史料館(外務省管轄)に勤務をしていたことと無縁ではないのではないか(つまり外務省への気遣いが感じられる;杉原ゆえか?専門官ゆえか?はたまた諜報ゆえか?)、こんな思いが残った一冊であった。

3The Blitzkrieg Myth
Blitzは閃光・稲妻、Kriegは戦争・戦闘を意味するドイツ語である。しかし軍事用語としてはここに記すように、合成語となり“電撃戦”と訳される。ドイツを含め欧米でもドイツ語のまま使うことが多いほど一般化している。Mythは神話を意味する英語だから原題は“電撃戦神話”と言うことになる。
電撃戦とは、戦車・自走砲・装甲車と車載歩兵(装甲軍)が槍のように敵主力に向けて突進あるいは包囲し、これに直協する空軍力が事前の制空権確保や地上攻撃を行い、進撃を支援する。時にはこれに空挺部隊も加わり拠点確保を行う。第一次世界大戦が平面主体で動きの少ない塹壕戦であったのに対し、電撃戦は立体的でスピードをカギとする新しい戦い方であった。ドイツ語が一般化したように、第2次世界大戦時劈頭のポーランド侵攻、翌年英仏連合軍をダンケルクに追い詰めた西方作戦、独ソ戦開始時のバルバロッサ作戦などがその代表的な事例である。これら緒戦の圧倒的な勝利は「ドイツ装甲軍恐るべし」と数々の神話を生み、戦後もその分析・研究が多方面で行われ、軍人、戦史家、軍事思想家が見解・考察を開陳している。それらの内容は、新兵器利用による戦略・戦術、兵種としての成長発展過程、カリスマ指揮官の経歴から兵器そのものの性能や生産、更には集散を素早く行うための通信システム、補給システム、空陸協調の組織論まで多岐にわたる。多くはその快進撃に焦点を合わせた成功事例分析だが、軍事や技術の専門家の中には、相手方の作戦行動分析や兵器としての技術比較を詳細に行い、その欠陥(一歩間違えば敗北もあった;特に西方作戦)を指摘するものもある。本書はこの後者の視点に立つものでここでのMythは“作られた神話”の意で用いられている。
それでは従来の電撃戦分析(特に批判)とどこが異なるか?一つはこの作戦の大本と見られてきた機甲戦思想の先駆者英フラー少将の考え方、空軍戦略論の初期の提唱者伊ドーウェ将軍の論と現実に戦われた電撃戦の間にあるギャップをクローズアップすることによって、ナチスの宣伝や新兵器信奉者が喧伝してきた電撃戦成功神話を覆すところにある。第二は電撃戦をドイツ軍の専権作戦とはとらえず、連合国側の機甲戦力・作戦さらには国防方針も俎上に上げて分析し、ドイツ軍同様それが過大評価されていることを露わにしようとしている点である。取り上げられる戦場は、北アフリカ戦線、ノルマンジー上陸作戦、マーケット・ガーデン作戦(オランダからドイツへ攻め入る空挺・機甲協調作戦)、バルジの戦いなどで、その勝因あるいは敗因が“電撃戦”の視点から分析される。この第二の視点は従来の電撃戦批判には見られなかったもので、装甲兵器を中心に据えた空陸一体作戦そのものの問題点を敵味方一般化したところに特色がある。つまり両軍ともフラー、ドーウェから学び、同じような誤りや欠陥があったと言うことである。両軍とも現実には、敵の戦争遂行中枢(政治・経済・軍事)を一気に突いて素早く戦争を終わらせるという二人の考え方には程遠かったのだ(と言うよりも二人の思想が空理空論だったわけである)。
こう書いてくると本書の内容は戦略・戦術論中心のようにとられるかもしれないが、実際は兵器の開発・生産・性能、歩兵や空軍と協力しての戦闘など細部でも“作られた神話”を取り上げ、それを糺していく。例えば、知名度の高いタイガーやパンサーが重過ぎ、数も少なくほとんど実戦力にならなかったこと、米軍の主力だったシャーマン戦車がフラー思想を追いすぎたあまりスピードだけは抜群だったが砲力が見劣りしたこと、それに比べソ連のT-34は極めてバランスが良くドイツ軍を圧倒したことなど、戦闘場面を援用しながら解説するので説得力がある。
電撃戦が作られた神話であることは分かった。ではドイツ軍電撃戦の成功要因は何だったのか?ただ運が良かったからなのか?否!兵士の戦闘能力が他国に比べて高かったからである(定量分析した他の研究者のデータを引用:西部戦線11.2、東部戦線12)、何故高かったか?ヴェルサイユ条約が幸いした。10万人と限られた兵士、中でも将校は実戦経験がありかつ思索力の高い者だけが残された。連合軍は処遇の難しいベテランから退役させた。高度に機械化された軍にはこれは決定的な差別化因子である。
著者は米国ロヨラ大学文学部教授、二つの大戦史が専門のようだ。前作に「第1次世界大戦の神話」がある。

4)進撃の華人
1990年代、中国経済が今ほど活発化する以前、仕事で海外を廻っていて驚いたのは、「こんなところに中国人の町があるのか」と知らされることが多かったことである。ヴァンクーバーの外縁都市デルタ(ヴァンクーバーは既にホンクーバー(香港系中国人が進出)と揶揄されるほど中国人が多かった)、ヒューストンの郊外、オーストラリアのアデレード(昼間は目立たなかったが夜のカジノは中国人で溢れていた)、オイルタウンとして今ほど活発ではなかったカルガリー、シドニー北部の住宅街、どこにも中国語で生活できる小中国社会が在った。そして21世紀、今度は私的に勉学や観光で訪れた英国、イタリアで、良否はともかく、地元友人たちは何かにつけ中国・中国人に関する話題を投げかけてきた。そこには明言はしないものの、不快感、不安感さらには恐怖感が漂っていた。新たな黄禍論とでも言えるような。
本書は中国滞在が長い二人のスペイン人ジャーナリストによって書かれた、21世紀における中国・中国人の世界進出を、主に発展途上国(25ヵ国)を対象に調査分析した報告である。個人の不法入国から国家施策の推進者まで着々と進出国での存在感を増し、経済・財政を握って中国規範(特に自由主義型民主主義とは異なる)の社会を作り上げ、他国・他民族をそれに同化してやがて漢族中心の“中華世界(パックスシニカ)”を実現していく姿を、全て事例を基に描いていく。そこには、かつての居住先進国の社会規範に従順だった中国人ではなく、勃興する国力に結び付いた、今まで抑えられていた民族意識を随所で顕在化させてきている中国移民・華僑に対する、複雑な思いと見方が語られる。
海外への中国人移住が本格化するのは19世紀奴隷貿易廃止以降である。実態は奴隷に近い身分・仕事を肩代わりすることから始まっている。何度も繰り返されてきた母国の衰退・混乱からくる利己主義、巧妙な不法入出国、差別や過酷な生活・労働環境に耐える力、強い同族・同郷意識、法律よりは人(人治主義)、鋭い商売感覚、これら華僑の持つ特質は約35百万人居ると言われる現代の移民・出稼ぎ人にも確り引き継がれている。エジプトで「シャンタ・シーニー(中国人の路上生活者)」と蔑まれる身分から地場繊維産業を牛耳るまでになる女性、シベリア中ソ国境で市場経済のギャップ(ロシア経済の不調、労働力不足など)を利用して成金になった男などの例が、移住先の選択(入国管理の甘い国、同族・同郷の存在)から商売の立ち上げとその後の発展、移住先住民や権力者との関係まで分かり易く簡潔に示される。いずれも伝統的な華僑の歩みを踏んでいる。
しかし、本書の過半を占める例は、最近の経済成長と高まりつつある大国としての存在感と連動する、国策絡みの移住・海外進出である。狙いの第一は13億人を養うためのエネルギー・鉱物資源、食料などの確保、次いで経済圏の形成(ここには中国に有利に働く産業構造作りが含まれる;例えば、出来るだけ原材料のまま輸出させ、加工による付加価値は中国国内で付ける)、最後が新中華統治体系(一党独裁、中国・漢民族中心)への組み込みである。それぞれの段階がアフリカで、中央アジアで、中南米で、中東で、そしてシベリアで、伝統的な華僑進出と一見見栄えの良い援助策が合わさって、着々と進んでいる現状が批判を交えて報告される。
英語版タイトル“密やかな軍隊(China’s Silent Army)”の原動力はカネとヒト、これはどこから来ているのか。先ずカネの問題;自由主義経済の国であれば、国が豊かになると同時に国民も応分の配分を受けられる。しかし、多くの国営企業やそのダミー会社の利益は国庫にそのまま取り込まれ、外部には見えないまま権力者の懐を肥し政策遂行に費やされる。著者はこれを明らかにしようとするが強固な壁に阻まれ、市民のぼやき「海外プロジェクトや援助策が具体化するたびに、病院建設計画が消えていく」でその仕組みを暗示するにとどまる。次いで人の問題;何と言っても世界一の人口である。一部の豊かな都市住民と大多数を占める農民の格差は大きく、出稼ぎ労働者(農民工)は過酷な条件で働かされるか失業状態の者も多い。沿岸部出身が中心の華僑とは異なり、これらの人々は海外進出の伝手も情報もない。アフリカなどの劣悪な労働・生活環境へ志願しあるいは甘言にのって送り込まれているのはこの種の人達なのだ。場合によっては仲介機関に騙され、ただ働きに近い結果に終わるケースもある(著者はこの責任を追及していくがゴールには達しない)。
中国・中国人自身に帰結する上記問題点よりさらに深刻なのが西側国際社会との倫理規範の違いである。人権侵害(現地労働者差別から独裁政治支持まで)、人間関係強化や政策遂行のための賄賂・汚職、環境破壊、不法な売春・賭博・麻薬事業への関与、国際的な取り決めを無視した兵器輸出や核技術供与など、ここでは拝金主義を熟知した民族性がいかんなく発揮され、私益・国益のためなら何でもありの凄まじい売込みも露わにされる。
かつては中国よりはるかに経済的に進んでいた国、ブラジルやアルゼンチンなども目先の利益に目がくらみ、国土の一部を売り渡すような計画に飛びつく。フランスのワイナリーやシャトー、英国の水道会社、イタリアのファッション企業、ポルトガルの電力事業、米国や日本の不動産、確かにじわじわと中国系資本の支配下に置かれてきている。著者が言う第2段階(西側市場ターゲット)への移行も既に始まっているのだ。本書には登場しないがAIIBへ雪崩を打って参加表明したEU諸国など当にその指摘通りの動きだろう。
最後に、活発化してきた領土を巡る“密やか”ではない軍事行動にも触れ、その動きに警鐘を鳴らす。
長年の中国滞在経験(政府の非道や恐怖を日々見てきた)から「やがて中国も権力分立、多党制、解放された市民社会に向かう」と言う楽観論を戒め、人類は「中国の世紀」が正義や尊厳を重んじる歴史の新たな局面となり、住みよい世界に出来るかどうかに注視せよと結ぶ。
現地調査や関係者への取材は綿密で、“憂うべき状態”はよく理解できる。内幕物・暴露本と割り切ってしまえばそれなりに面白い本である。しかし「では我々(個人、国、国際社会)はどうこれに対処すればいいのか?」は本書の中に全く示されない。それを欠陥とあげつらうつもりはない。重大で難しい問題だし答えは一つ二つではないからだ。ただカネのために中国にすり寄るのだけは何とかこらえたい。「武士は食わねど高楊枝」これが読後感である。

5)よく晴れた日にイランへ
東燃グループでの経験を生かすべく、2003年から務めた横河電機ではそれまでとても行けない、行くことを考えたこともない土地に出かける機会に恵まれた。ロシア極北の地(北緯64度)、ウラルとヴォルガに挟まれたソ連時代は外国人立ち入り禁止地帯、ウクライナ、ハンガリーとスロヴァキアの国境地帯など、かつての油田地帯(いずれも現在は枯渇し精製工場だけが稼働している)である。専ら旧ソ連・東欧圏であったが、唯一の例外がイラン。僅か1週間の滞在だったが、2007年テヘランとエスファハーンを訪れている。テヘランでは横河の出先と潜在顧客イラン石油公社の本社を訪問、エスファハーンにはその製油所があった。テヘランの印象は「どこもかしこも掘り返され(本書によれば1990年代には下水が無かったというから、その工事ではないかと想像する)、無茶苦茶な交通マナーとそれによる大渋滞」、一方エスファハーンは「古い歴史が残る、なかなか興味深い町」であった。あとで知ったが日本人向けには「イランの京都」と言うらしい(実は核施設もあるのだが)。この町の見所の一つ“王の広場”での騎馬戦?を牛骨板に描いたお土産は本棚に一隅にあり毎日眺めている。是非もう一度出かけたいというところまで達してはいないが、面白そうな国との思いは残る。そんな折、広告で目にしたのが本書である。
著者は本欄でも紹介した「あの日、僕は旅に出た」の蔵前仁一。前著は若き日バックパッカーとして始めた旅の30年を回想するエッセイであった。適度にユーモアのあるリアルな描写と生き方(グラフィックデザイナーとしての多忙な日々からの逃避)が印象的で「新著が出たら読んでみよう」と思っていた。それが“イラン”で登場したので躊躇することはなかった。
今回のイラン訪問は2回目、20149月中旬から4週間、出版は今年4月下旬だから最新情報と言っていいだろう。前回は1990年(イラン・イラク戦争終戦直後)だから四半世紀の違いも随所に見られ、そこも本書の読みどころである(著者はこの違いを確認すための旅ではないと言っているが)。前回の訪問はアジア南部をタイからトルコに向けての旅の途上であったこと、ぺルセポリスやエスファハーンなど有名観光地に限られたのに対し、今回は辺境の地方集落・町や遊牧民を追っての、国内周回(テヘランを出発し反時計方向に廻る)旅行である点が大きな違いである。移動はほとんどバス(長距離、路線、ミニ)、僻地へはタクシーや自家用チャーター車も使われる。当に地に足が付いた旅だけに、風物や人の暮らしぶりが直に伝わってくる。
トルコ・アルメニア・アゼルバイジャンに接するクルド人居住域、かつての戦場イラン・イラク国境地帯、イスラム過激派の活動域、アフガン・パキスタン方面(ここは我が国外務省も立ち入り禁止地域に指定)、許されるギリギリのところまで“辺境”を追う。これは決して“危険”を売り物にしようとの魂胆ではなく、そこに厳しい自然・生活環境の下で古い歴史を今に残す人々が居り、その暮らしぶりを伝えることが今回の旅の目的となっているからである。それゆえに、例えばシイーア派聖地マシュハドでは単なる宗教的な観光のみならず、宗教による政治・経済支配の実態を掘り下げ、社会面も確り報告される(特権宗教指導層と革命防衛軍の強い結びつき;中国共産党と解放軍の関係に酷似、中国の進出は観光客を含め著しい)。いずれの訪問地でもこの視点は欠けておらず、単なる紀行と異なる“現代イラン探訪記”に仕上がっている。
ふんだんに使われている大判のカラー写真(これを眺めるだけでも楽しい)から、砂漠・土漠の様相も明らかにアラブ諸国とは違い人々との長い歴史が感じられ、ローマと競った往時のペルシャ帝国を偲ばせる。
観光目的に限らず、イランへの渡航者・滞在者には是非一読をお勧めしたい。

6)世界でもっとも正確な長さと重さの物語
19624月に東燃に入社、和歌山工場で導入訓練を終えて配属された先は、工務部工事課計器係であった。先ず(係長ではなく)課長に命じられたことは「来年度の計量士資格試験に向けて、日常業務とは別に勉強するように」と言うことだった。モノの取引・証明に関して国に代わって計測器の精度・信頼性にお墨付きを与えるのが計量士の役割、私の専門は制御工学、「何故 計量(はかり)を?」とやや不本意だった。
受験準備を始めて、この資格取得が生易しいものではないことが分かってきた。何と受験科目は選択2科目を含め8科目、筆記試験は2日間、これに合格すると面接試験があり、合格率は20%を切る厳しいものであった(現在も合格率は大差ないようだが筆記試験は1日に短縮されている)。幸い翌年7月合格、何とか面目を施すことができたが、仕事が制御さらには情報に転じたため、その資格が公的に使われたことはなかった。しかし、これがきっかけで計測の重要性を知り、社会との関わりに関心が高まったことが、のちに情報技術利用の世界へ転じ何とか実績を残せた主因の一つだと思っている。本書購読の動機はそんな背景による。
面接試験は34人の試験官(大学の先生や通産省計量研究所の研究官)とのやりとりになる。その質問の中に「メートル法の適用除外について述べよ」というのがあった。日本古来の尺貫法は大正時代に法的には廃止(実質的には1951年の計量法制定まで使われ、それ以後も経過期間が在った)となっているから、この問いのポイントはヤード・ポンド法が許される分野と言うことである。「航空と武器に関するする取引・証明にはヤード・ポンド法適用が認められます」「何故か?」「戦後長く生産・利用が認められず、キャッチアップのためには米国を中心とした機器や技術の導入が必須だからです」「そうですか」で終わった。この話を書いたのは、本書の内容がこの質疑のやり取りを5千年にわたって書き綴ったものと言っても良いからである。つまり、時代、地域、統治形態、測定対象によって種々雑多な測定方法が在ったものが、メートル法に収斂するプロセスや背景を “基準”作りを中心に時代を追って物語っていくからである(頑として法的にメートル法を認めていないのは、先進国では米国のみ、英国は併用可)。
度量衡単位で最も古く実用上重要ものはサシ・マス・ハカリ、つまり長さ・容積・重さ(質量)である。このなかで容積は長さから算出できるから長さと重さが基本となる。邦題はここからきている(原題はWorld in the Balance;バランスのとれた世界)し、内容もこの2点に多くの紙数が費やされる。長さの基準の原点は人体(最古の測定器)、フィートや尺(両者とも足)がその好例である。重さは天秤(錘)になるが、初期にはそこに穀物の数などが基準として用いられる。
しかし人体はともかく穀物となると種類も多く、特定の地域しか基準としては意味を持たない。ここに統一の機運や換算の手法が生まれてくる。それが自然淘汰で進む場合もあるが、統治者の強い意志で実現することもある。秦の始皇帝のように広大な領土を強権でまとめ上げられれば一気に基準が確立するが、ヨーロッパのように小領邦国家が割拠すると広域に適用される基準はなかなか定まらない。これに数字の桁取りが絡むとさらにややこしくなる。10進法ばかりではないのだ。
このように政治や社会面からの“基準”に関する話に続いて、科学の立場から(これも政治・社会と切り離せないが)その変化が紹介される。つまり、絶対的な基準を科学的に作り上げ動きである。先ず地球の子午線(経度)を基準にメートル原器を作る。しかる後一定容積(つまり長さに基準が出来たからその3乗となる容積も基準となるものが作れる)におさまる水の量でキログラム原器を作る。しかし子午線を利用するには広大な平地の存在が前提となる。言い出しっぺのフランスはこの条件に合致する地域があるので何とか押し切るが(1875年メートル条約批准)、その絶対性への疑念は新たな基準を求める研究につながり、やがて量子力学を駆使した光の波長を利用する方法が確立、これが1960年金属製メートル原器に置き換わることになる。重さ(厳密には質量)の計測単位キログラムも同様、核物理学の世界(プランク定数)に基準を移す最終段階にあり、すべての基本計測単位が基礎物理定数になる日も近いようである(調べてみると、201411月に開催された第25回国際度量衡総会で唯一人工物基準となっていたキログラムは「新しいSI(国際単位)の定義を採択するには、十分強固ではない」と2018年度総会まで延期された;この理由は二つの測定法、アボガド法とワットバランス法の優位性判断に決着が着けられなかったことによる)。
古くから原器のある長さと重さに関して本書に記された内容を、ごく手短にその変遷を紹介した。この他にもSIの基本単位として、秒(時間)、電流(アンペア)、温度(ケルビン)、物質量(モル)、光度(カンデラ)の五つがあるが、本書の中ではそれらがいずれも既に基礎物理定数で決まることを紹介しているに過ぎない(キログラムの引き立て役)。当に本書は“長さと重さ”の物語であった。
地味な分野を専門外の人々にも興味深く読ませる話題と工夫に溢れ、優れた科学史読み物として高く評価できる。
ただ気になったことは、身近なところ(農民・職人・商人・役人の世界)から発した計測が、先端科学を駆使した体系に移り、高精度・高信頼性を実現し、更なる社会発展に寄与する一方、人間社会との乖離が起こってきていることである。これは本書の問題点ではないが、当該分野にかかわりの深い人間が“在り方”を考えていくべき大きな課題であると感じた。

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