2015年5月16日土曜日

決断科学ノート;情報サービス会社(SPIN)経営(第Ⅱ部)-25


51990年経営トピックス
役員一期目の19889年に比べると1990年は大きなトピックスは無く、経営は順調に推移した1年と言える。ただ年月を経て振り返ってみると、世界にも日本にも、そしてSPINにとっても大きな節目の年だったことに気付かされる。
ベルリンの壁が取り払われたのが198911月、ソ連の崩壊が19913月。この間19901月には湾岸戦争が起こっている。日本経済を見ると、‘80年代後半から始まったバブルが弾けるのが1991年初め。この渦中に、1996年を期限とする特石法廃止を前に、1989年にはガソリン生産枠が撤廃される。日本の石油ビジネス環境が変わるとともに、株主であるExxonMobilの世界戦略にも変化が生じ始めてくる。
コンピュータ技術に目を転ずれば、IBMが長く市場支配してきたメインフレーム中心の環境がオープンシステムの小型機(PC、ワークステーション)とネットワークに取って代わられてくるのも大体1990年を境にしている。例えば、IBMの製品だけ見ても、第2世代のPCPS/21987年、OA用ワークステーションのAS/4001988年、そしてエンジニアリングワークステーション(EWS)、RS/60001990年に発売され、ダウンサイジング対応策が打たれていく。しかし、IBMの経営環境は大きな時代変革の中で必ずしも好転せず、1993年初頭にはルウ・ガースナーが生え抜きに代わりCEOに就任する。
情報サービス分野に焦点を絞ると、手作りアプリケーションソフトが小型機普及に合わせて出来合いの用途別パッケージソフト主力に移る傾向が強まってくる。中でも注目すべきは、のちにERPEnterprise Resource Planning)と称されるようになる統合型業務ソフトウェアパッケージの出現で、今もそのリーダーである独SAP社の製品が世界市場で存在感を示し出してくる(日本法人設立は1992年)。
こんな時代SPINのビジネスの主体は、依然としてメインフレームをプラットフォームとする手作りソフトウェア開発やプラント運転制御システムパッケージ(IBM ACS)、やっと生産計画・スケジューリング用パッケージMIMIEWSに取り組みだしたところであった。
東燃と子会社の間には年2回(春・秋)合同役員会が持たれていた。両社の役員と事務方が一堂に会し、情報交換を行う場である。とは言っても実態はこちらの報告が主で一種の査問会議の様な雰囲気の中で進むので、大変緊張を強いられる場であった。幸いこの年の経営状況(売上・利益)はまずまずの調子だったから比較的楽な気分で臨めたのだが、会議の終盤NKH社長から「ACSは相変わらず調子がいいようだが、いつまで続くのかね?次の策は何か考えているのか?」とご下問があった。SPINの出席者は事務方を含め技術系は私しかいないから、これに答えるのは私の役割である。実は、この問題については小型化・ネットワーク化が進んできている中で、顧客から何度か投げかけられてきた問だったから、問題意識は持っていたのだが、具体策は見出せていなかった。痛いところを突かれたが「ACSはまだ数年は行けます。その間に生産管理、設備保全管理、品質管理などプラント関連サービス・商品の幅を広げるとともに小型機対応のパッケージを探します」と答えて、何とかその場をしのいだ。実際ハネウェルや横河電機のような制御機器メーカー以外は競合製品が無かったから、これ以外に答えようは無かったが「何か案を考えなければ」の感を強くし、関心をIBMExxon外に具体的に向け始めるきっかけになったことは間違いない。


(次回;1990年度の経営トピックス-2

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